アニャン、空の向こうへ連れ去られる
「公主、起きてくださいませ、公主」
コツコツと出入り口を何度も叩く音に目が覚めて、寝ぼけまなこで「はい」と答えた。しばらくすると、引き戸が開けられて、膝をついた男が、いつでも靴を履かせてくれる。
それから手を引かれて連れ出され、立派な椅子まで案内される。そこで食事をもらい、食事の後には、向こうで王様に会ったらする挨拶を練習し、お上手でございますと褒められて、また輿の中に戻される。
正直、あれから何日たったのかよくわからない。輿の中で毛皮にもぐりこんで揺られていると、すぐに眠くなって、何にもわからなくなってしまうのだ。外に出れば、明るいなとか、夜だなと思いはするのだけど、その間の記憶がなくて、一日の区切りがすっかりわからなくなってしまっていた。
「公主、今日は被き物をおかぶりください」
「え?」
靴を履かされながら、いつもと違うことを言われ、聞き返す。ずっと、食べるのに邪魔だろうからと、被き物はかぶらなくていいと言われていたのだ。その代わり、兵士達は背を向けて立ってくれていた。
「目的地に着きましてございます」
「あ……、はい」
とうとうその日が来たらしい。端に畳んで置いておいた被き物を広げて、ふわりとかぶった。
外に出ると、あたりはこれまでと違って荒涼としていた。まわりに緑がない。石ころだらけだ。正面と右手に向かって上り坂になっており、正面は空に向かって落ち込んでいて、右の坂の終わりには石が積み上げられていた。
椅子に座らされても、今日は食事は出てこなかった。その代わり、男が小さな袋と朱塗りの瓢箪を持ってきた。
「この後は、たぶん馬での移動になると思います。馬に乗ったことはおありですか?」
「いいえ」
「そうですか。初めてでも大丈夫でございますよ。あちらの者は乗馬に達者な者ばかりなので、一緒に馬に乗って、うまく連れて行ってくれます。
ただ、乗り慣れないものに乗りますと、少々気を張り、お体も疲れて消化も悪くなりますから、お腹の中にあまり物がない方がようございます。お疲れや空腹を覚えられましたら、こちらを少しずつお召し上がりください」
広げて見せてくれた袋の中には、ころころと小さな玉がいくつも入っていた。
「食べるのも大変になるほどお疲れになってからではいけませんよ。少しでも疲れたと思われたら、すぐに召し上がられますよう。公主のお口でも食べやすいように、小さくしておきましたからね。
それとこちらはお飲み物です。どうぞお持ちください」
渡されたそれらを、飾り帯の左脇の所にくくりつけて提げた。
「……いいですか、これからいらっしゃるところでは、公主ほど貴い身分の者は、あちらの王以外居ないのですからね。我慢ばかりしなくて良いのですよ。『耀華公主』としておふるまいなさいませ」
お嬢様のように? ……あんな主人になるのは嫌だなあと思う。お屋敷の者たちは、うやうやしくお嬢様を扱っていたけれど、誰もがお嬢様を嫌って、なるべく寄りつかないようにしていた。それでしょっちゅう私のところに、お嬢様がらみの面倒事が押しつけられたのだ。
物思いにふけっていたら、ふと、日が陰った気がした。ガ、と石を蹴る音がして、カラカラと小石が落ちてくる。思わずそちらに目を向けると、正面の坂の上に一つ、日を背にして、馬に乗った人影があった。
一瞬で空気が張りつめる。兵士達が槍を構え、穂先がギラリ、ギラリと光をはじく。
そんな中、前に膝をついていた男が立ち上がり、陽気に騎馬に向かって呼びかけた。
『エウル様!』
騎馬の人物が手を挙げて応える。そして、体をひねって振り返ったかと思うと、唐突にあたり一面に響き渡る大声をあげた。
『やー!! あー!! やー!!』
来い! こっちだ! 来い! そう呼ばれた気がして、無意識に足を踏み出しかけた。その時、ドドドドッという地響きが前方から聞こえてきて、我に返って足を止めた。
地響きが、どんどん大きくなっていく。何だかわからないけれど、たくさんの何かが近付いてきているようだった。
やがて、左手の少し低くなっている場所から、馬の頭が見えた。一頭ではない。何頭もだ。次々現れ、土を蹴立てて疾走し、石だらけの広場になだれこんできた。
馬が列をなして走り抜けていく。一歩外に動けば、蹄に掛けられそうな近くを。私も兵士たちも、体をかたくして突っ立っているしかなかった。
しばらくして、広場は馬だらけになった。体から湯気を上げる馬たちがひしめきあう。そうなって、稜線に立っていた騎馬も、斜面を駆け下りてきた。馬たちは自然に道をあけ、彼は私たちの前で、身軽く馬から飛び降りた。
私はあんぐりと口を開けて彼を見上げた。斜面の上側に立つ彼の頭を見ようと仰向いたら、彼の背の高さもあって、自然と口が開いてしまったのだ。
頭のてっぺんに目を凝らしてみたけれど、兜の上についているのは青い布飾りだけで、ツノらしきものは飛び出ていない。
顔は、逆光なのと兜の頬当てのせいで、よく見えなかった。鎧の下から見えている服は、兜の布飾りと同じ鮮やかな青で、そこに赤や黄や緑や紫といった、色とりどりの刺繍がされていて綺麗だった。
私の横にいた男が進み出て、彼と握手をする。そしてあちらの言葉で話しだした。
『やあ、エウル様、お久しぶりです』
『ああ、真殿も息災そうで何より。約束の馬百五十頭、……あー、どうする、今から数えるか?』
『いえ、いえ、信用しておりますよ』
『そうか。いくらか村の方に、飼い葉を用意しておいた』
『それは助かります。ありがとうございます』
『うん。今度は馬たちを可愛がってやってくれ』
『お約束いたしますよ。責任者が代わりましたから』
『それは良かった』
彼がこちらを見下ろした。鋭いまなざしに射抜かれて、自然と背筋が伸びる。何も言われずとも、この人が閻の王の御子なのだと知れた。
『お名前は?』
落ち着いた声で話しかけられた。なんとなく名前を聞かれた気がして、でも、確信が持てなくて、彼との間にいる男に助けを求めて、視線を向ける。
「名前を聞かれています」
「あ。はい。アニャ」
「公、主」
思わず、アニャンと申します、と名乗って頭を下げようとしたのに被せて、男が強めに言った。ああそうだったと思い出し、あわてて言い直す。
「よよようか、です。あ、いえ、ようか、こうしゅ、です。よろしくお願いいたします」
『ヨヨヨウカ、デス、ア、イエ……?』
私がどもったまんま、発音さえそのままに聞き返された。笑いがこみあげてきて、息を止めてうつむく。大きくて怖そうな彼が、真面目に変なことを言うのが、おかしかった。こらえきれずに、ぐぐ、と喉の奥で音が鳴る。
笑ってはいけない。あんまりにも失礼だ。彼がそんなふうに言ったのは、私の言い方が悪かったからだ。それに、女ごときに笑われたとあっては、怒り狂って、暴力をふるわれるかもしれない。
だけど、おかしくてしかたない。笑いたいのを我慢して、震えそうになる肩をこわばらせていたら、男が口を挿んでくれた。
『耀華公主とおっしゃいます。輝く花という意味です』
『輝く花。ふうん。……耀華公主と呼べばいいのか?』
『さようです。公主はこのように控えめな大変おとなしい方でして。屋敷の奥深くで大切に育てられた方ですので、お体もお丈夫ではありません。無理をされると、すぐに体調を崩されてしまいます。どうか、エウル様におかれましても、大切に大切に扱ってくださいますよう、お願いいたします』
『わかった。……耀華公主』
呼ばれて、そろりと目を上げたら、じっとこちらを見下ろす閻王の御子と目が合った。彼が手を差し伸べてくる。
おそるおそる、その大きな掌に手をのせた。乾いた温かい手に柔らかく握られ、こくりと唾を飲み込む。くいっと誘うように少しだけ引かれて、一歩、二歩と足を踏み出せば、彼がザッと近づいてきて、反射的に腰が引けた。でも、後退ろうとした腰に太い腕がまわされ、あっと思ったときには、体が宙に浮いていた。
急に視界が高くなり、彼の顔が間近にせまる。驚きと怖さのあまり、目を瞠ったまま動けなくなる。
『エウル』
抱きかかえられて目を覗きこまれ、一言言い聞かされた。ひたりと見つめる強いまなざしに、彼の名前なのだと察する。だから、ガクガクと頷いて繰り返した。
「え、えうる、様」
彼が小首を傾げ、何度か瞬きした。その様子が、鋭い目つきの割に怖くなく、おや? と違和感を覚える。
『エ ウ ル』
もう一度、今度はゆっくり繰り返された。
……ああ、この人は、いきなり殴ったりしない人だ。
体のこわばりがとけていった。縮みあがっていた気持ちが落ち着いてきて、今度は彼の口調を思い出しながら、ちゃんと真似られた。
「エウル」
彼の目元が和らぎ、左の唇の端が上がった。悪戯坊主みたいな笑みが浮かぶ。……親しげで、仲間扱いしてくれているみたいな。どきっとして、心臓がおかしな感じに波打った。
彼は踵を返すと、馬に歩み寄り、私をひょいっと持ち上げて、鞍の上に腰掛けさせた。
高い!
「きゃっ」
手を離されて、悲鳴をあげる。おたおたと屈んで鞍の端を掴む。そうしたら、ぐらんと馬が揺れて、ぐんと彼の体が浮き上がってきて、また悲鳴をあげかけた私の後ろに跨がった。腰のまわりに彼の腕がまわって、体を後ろへ引っぱられる。鞍の端から手が離れてしまい、他に掴むところがなくて、目の前にあった、手綱を取った彼の腕にしがみついた。
くすりと笑う声が聞こえた。彼――エウル――は、持ったばかりの手綱を離して、私の腕を握り返し、自分の胴へと導いた。それから、手の甲をぽんぽんと優しく叩かれる。しっかりつかんでいるようにとの意図を察して、彼の服を握れば、離れていった手が、今度は背中を、ぽんぽんぽんと叩いた。まるで、あやすように。
彼を見上げれば、目が合い、彼が両方の唇の端を上げた。その微笑みに、なぜかとても安心した。
名しか知らない男に、どことも知れない場所に連れ去られようとしている。なのに、故郷の家を出されてから、本当の本当に一番ほっとした気分になったのだ。
「どうぞお幸せに」
ここまで送ってきてくれた男は、明るい表情でそう言った。大丈夫だとでもいうように、大きく強く頷いて見せられる。だから私も笑顔を作って見せようとして、被き物のせいで相手に見えないことに気付き、代わりに手を振った。
馬が動きだす。ゆっくりと斜面を登っていく。下の方を見れば転がり落ちてしまいそうで怖く、坂の底にいる同じ国の男たちを振り返れなかった。
前だけを見ていると、稜線がどんどん低くなって、空が大きく広がっていった。
……まるで、空の向こうへ行くようだ。
私は、心がシンとするような深い青に目を奪われた。