エウル、蒼天の与え給うたものを悟る
「エウル!」
天幕から出て、エニ、マニと話していると、長兄がやってきた。朝から鎧をまとっている。昨夜も脱いでないのだろう。
「イデル兄、おはよう。あれから何かあったか?」
「何もない。近付いてきた者もなかった」
それは、エニとマニも言っていた。……うろうろしていたのは、新しく来た男達ばかりだったと。その男達も、「縄張り」の外をうろつくだけで、中には入ってこなかったという。今しがた入ってきたそこの男――兄さん――以外は。
……スレイ達が襲われた、という知らせを兄が持って来たのは、昨日の夕方。事件自体が起きたのも、昨日の昼間。
まだ丸一日もたってないが、ただの盗賊だったら、とっくに見つけ出している頃だ。何の手がかりもないということは、用意周到に実行されたものなのだろう。
俺は、彼方に見える天幕群――王の居留地――へと目をやった。……スレイが死んだという知らせも来てない。それだけは、良いことだった。
親父様とは、公主が怪我をして以来、密に連絡を取っている。花嫁となる女性は、居留地に入る前に、まず清めの「火の迎え」を受けなければならない。そのため少し手前に留まり、巫覡が蒼天にうかがいを立てて聞く、「良き日」まで待つ予定だった。
打ち合わせた予定の日時どおりに辿り着いて天幕を組み立てていたら、イデル兄が俺達の護衛をするために、部下を連れてやってきたのだった。
そんなこととは知らなかったから、突然、武装した集団が駆け寄ってきて、こちらも剣を抜きかけた。……いや、リャノなんかは、抜きはなって、馬に飛び乗ってすっとんでいった。
そこへ、兄だけが馬を進めてやってきて、放牧集団の外で馬を下り、兜を脱いで手を振ったのだ。
それで俺は、リャノを呼び戻して、いざまさかの時はウォリと共に公主を逃がすように命じ、一人で歩いて兄の許へ行ったのだった。
「エウル、無事だったか」
「イデル兄、そんな格好で、どうした?」
「ルツ達が賊に襲われた」
俺は驚き、兄に詰め寄った。
「いつ、どこで!?」
「今日の午前中、あの丘の向こうで」
兄は北側にある裾野の長い岩山を指さした。
「まさか! あいつらは追放したんだぞ!? そんな近くにいるわけが」
「それについては、親父様が許可を出している。……娘達に帝国の女の格好をさせ、囮になると申し出てきたのでな」
「馬鹿な」
俺はそれ以上言葉が出てこなかった。
「スウリとニーナは死んだ。奴僕も一人。
幸い、ルツの妻に怪我はなかった。水を汲みに行っている間に襲われたらしくてな。帰ってきて惨状に気付いて、知らせに来たんだ。
ただ、ルツと他の奴僕の行方がわからない。馬がないから、賊を追ったのではないかと思われるんだが、周囲を探しても、今のところ誰も見つからないのだ。
……スレイは怪我を負っていて、手当てして居留地に運び込んだ。傷は深くないが、血をだいぶ失っていてな。助かるかは、本人の気力次第だと言っていた」
兄は語り終えて黙った。けれど俺は何も言えず、は、と声にもならない息を一つ吐きだせただけだった。
息苦しかった。急に、これまでどう息をしていたのかわからなくなった。
……俺は、見誤ったのか。
そんな考えだけが、頭の中をぐるぐると占めていた。
……あいつらの、誇りを、忠誠心を、俺は見くびってしまっていたのか……。
「賊を探す方は、次男があたっている。取り急ぎ、親父様の命で、俺はおまえの護衛に来た。
幸い、巫覡は、明日が「良き日」だと占を出した。明日には皇帝の娘、……公主と言うのだったか、居留地に連れ入れられる。
……エウル」
うまく兄の言うことを飲み込めないでいると、肩を力強くつかまれ、揺さぶられた。
「ルツは重臣としての矜持を示した。おまえは、それを無駄にしてはならない。……わかるな? そこまで示された忠誠を、己が誉れと思え。それが手向けになる」
……そうだ。耀華公主を守らなければならない。彼女と婚姻を結び、帝国と和平を結ぶ。すべてそのためにやってきたのだ。
……絶対にこれ以上、傷つけさせてなるものか。
一つ深呼吸して、感傷的な気持ちを追い払う。
「イデル兄、詳しい話を聞いて、今後の打ち合わせをしたい。政務用天幕に来てくれ」
お互いの腹心も呼び寄せ、ルツ一家が襲われた件と、親父様の決めた今後の予定を聞いて、取るべき行動を確認した。
賊の警戒は兄に任せ、俺達はこれまでどおり公主を守る。
そして、一夜が明けた。
「エウル、公主様はどうなんだ?」
「つつがなく過ごしている。今は着替えている」
「そうか。ところでおまえ、まさかその格好で親父様の前に出るつもりじゃないだろうな?」
上から下までじろじろと見られた。
「まさか。公主の着替えに時間がかかるというから、その間に馬の世話でもしようと思っただけだ」
「こんな日にまでやるのか! おまえは本当に馬が好きだな! どうかしてる!」
大笑いされる。
「まあ、いいさ。ちゃんと着替えろよ。ジジイどもに、かしましく言われたくないならな」
「わかっている」
「なら、いい。……これからは、おまえへの評価が、奥方の評価になるんだからな。奥方を大切にしたいと思うなら、それは頭の隅に置いておけよ。
じゃあ、用意が調ったら呼んでくれ」
兄は、ポンと俺の腕を叩くと、自分の部下の許へと戻っていった。
俺は、ひととおり家畜やアイルを見てまわり、それから腹心達の集まる天幕に行った。
今回は特別にこちらに自分の衣装櫃を運び込んである。叔母上に、「公主の衣装を広げるから、あんたの着替える場所はないし、人手もないよ」と言われていたからだった。
鎧装束を取り出して、ウォリに手伝ってもらって身に着ける。
日の高さを見て、そろそろよかろうかと自分の天幕に声をかけにいった。
「叔母上、公主の用意はどんな感じだ?」
「できているよ。お入り」
厚いフェルトの垂れ幕をめくって入ったところで、俺は驚いて立ち止まった。
彼女は豪華な衣装を身に着け、あの日と同じ赤い布をかぶっていた。……顔のない、角の突き出た、赤い頭のお化け。それが、ゆっくりと振り返る。
すると、顔の輪郭、目のライン、唇の存在が、動きにつれてぼんやりと透けて見えて、妖しい魅力で目を引いた。
豪奢で美しく得体の知れない、まさに、帝国の主である皇帝の娘。彼女はそういう存在になっていた。
「叔母上、どうやったんだ? そう、こんな感じだった。送られてきた時、そのまんまだ。……いや、それ以上だ。さすが叔母上だ」
「そうだろうと言いたいところだけど、公主が自分でやったんだよ。ささーっと髪を結いあげて、化粧も自分でしてね」
「化粧?」
あの時よりも、目鼻がはっきりと透けて見えるのは、気のせいじゃなかったのか。
どんなものかと、近付いて何気なく赤い布をめくり、目を見張った。素朴で幼かった容貌が、その面影はあるのに大人びて、まったく子供には見えなかったのだ。
妖艶なまなざしと視線がかちあい、一瞬、俺は息を止めた。騒ぎだした心臓に、大きく息を吸い込む。そこに甘い彼女の匂いを嗅ぎ取り、むしゃぶりつきたくなるような情動を覚えた。
こほん、と叔母上の咳払いが聞こえて、我に返った。
こんな時に、俺は何を、と罪悪感に見舞われる。……三人の人間が死に、一人は大けがを負い、行方知れずも何人も出ているというのに。
政略だからこそ、彼らは命を懸けた。けれど俺は、それとは関係なく、望む女を手にする興奮に酔いしれている。後ろめたくて堪らなかった。
努めて何事もなかったかのように、丁寧に布を下ろし、俺は彼女に手を差し伸べた。
「耀華公主、行こう」
「はい。行く」
彼女はいつもと違って、じらすようにゆったりと手をのせ、悠々と、……いや、のろのろと踏みだした。それはそうだろうな、と内心苦笑した。あの量の黄金を身に着け、この衣装だ。小柄な彼女にとって、重くないわけがない。動けないのだ。
この調子で歩かせては、王の前に行くまでに、彼女は疲れきってしまうだろう。
俺は彼女を抱き上げた。寄り添いやすいように腕の中に囲い込めば、そっと首に掴まってくる。出会った当初は、身を寄せるのさえ躊躇い、あわててのけぞっていたものだったのに。
彼女をさらに抱きすくめ、腕の中に収まるぬくもりを、味わわずにはいられなかった。彼女も初めからそういう形に――二人で一つのものみたいに――生まれてきたかのように、寄り添ってくれる。
不意に、すとん、と音をたてて、頭の中にはびこっていた悩みや悲しみ、痛みが、すべてすべり落ちて、腹におさまったように感じた。
ああ、これが蒼天が与え給うた自分の人生なのだ、と。この喜びも、ともなう痛みも、どんなことであろうとこの身に引き受け、誠心誠意を尽くすしかないのだ、と。
叔母上が出入り口をめくり上げ、通り道を作ってくれる。
俺は公主を抱いて、外に出た。




