アニャン、エウルを止める
パタラは縫い物を持って来て、ベッドの傍らで針仕事をはじめた。
彼女に悟られないよう、そっと手を動かして、頭をさわってみる。布が巻かれている。そういえば、昨日は傷を洗われて、とても痛かった。
後ろ頭を枕に着くと鈍い痛みがずっとあるし、左を下にすれば、飛び上がるような痛さだ。今もずきずきしている。こっちの方が強く殴られたもんね、と思い出す。
急に、目の前で見ているように、棒が振りかぶられる光景がよみがえって、体がすくむ。反射的に、パタラをうかがってしまった。
……あれは夢。パタラがそんなことをするわけない。昨夜だって、さっきだって、あんなに心配して親身に面倒をみてくれたのに。……今だって。
身じろぎしたせいでベッドが軋み、パタラが手元から目を上げて、私を見た。何でもないんです、と微笑んでみせると、彼女もニコッとして、また仕事に戻る。
天窓から入る光があたる場所を見れば、壁の位置になっていた。故郷では、お堂や物見櫓の鐘で時間を知ったものだけど、こちらでは、あたる日の位置で仕事の時間を決めているようだった。
いつもなら、そろそろ乳が運ばれてくる時間だ。けれど、パタラは何の用意もしていない。私のせいだろう。
だけど、お手伝いできます、と言えるかというと、言えない。こうしてじっとしていても傷は痛いし、動くとよけいに響く。
……それに、外に出るのが怖い。
たぶん、あのスウリという人は、私のせいでエウルの妻になれなかった。……私が割り込んだのだろう。
あんなにエウルを好きだと隠しもしていなかった。私と居る時に、わざわざ抗議に来た。それを、けんもほろろに追い返された。
おそらく、嫉妬されたのだと思う。私が居なくなればいいと思ったのだろう。そうすれば、自分がエウルの妻になれると。
ぞくりとする。
私が痛がるのを、喜んでいた。殺してやる、と思われているのがわかった。
……そう思っているのが、あの人だけでないと、どうして言えるだろう?
私は敵国の娘なのだ。いつからかわからないくらい昔から、この国と帝国は争ってきた。それを終わらせるために、お嬢様は皇帝陛下の養女になって、この国に嫁いでくるはずだったのだ。
憎いと思われていないわけがない。私達だって、この国の人達を、人の心を解さない獣のような人々なのだと思っていた。
エウルも、パタラも、ミミルも、スレイも、他の男の人達も、みんな親切で優しくしてくれたから、ずっと気付かなかった。
私の立場は、とても微妙なものだったのに。
気付いてしまったら、どんな顔をして外に出ればいいのか、わからなくなってしまった。
体を縮めて目をつぶる。とりあえず、寝ている間は、他の何をしなくてもおかしくない。……エウルが帰ってくるまでは、こうしていよう。
……眠気はやってこなかった。
目をつぶっているせいか、音だけが気になる。パタラがたてる静かな衣擦れの音。虫の音。あんがい家畜の鳴き声はほとんどしない。それよりも、人の声が。
気のせいか、女性の大きなうめき声と、男性の怒鳴る声が、遠く聞こえた気がして、耳を澄ました。……聞こえない。家畜の声だったのだろう。力を抜いて少し体を伸ばした時、また遠くで争うような声が聞こえてきた。
居てもたっても居られなくて、起き上がった。傷が痛んだが、それどころではなかった。靴を履いて、上着を羽織る。
『耀華公主、どうしたんだい?』
パタラは外の騒ぎに気付いてないようだった。声はそれほど遠かった。でも、絶対に聞こえた。のんびり寝てなんかいられない。
昨日の今日だ。別の誰かが、また襲いに来るかもしれない。……まさに今、エウルがいないうちに。その誰かが、怒りにまかせて大声をあげているのかもしれない。
天幕の中にいるのが怖かった。今度は火を掛けられるかもしれないし、刃物を持ってくるかもしれない。
とにかくここを離れなければ。一緒にいるパタラだって危ないかもしれない。
『耀華公主、まだ寝ておいで。今日は仕事なんてしなくていいんだよ』
パタラにベッドへ押し戻されそうになって、私はとっさに嘘をついた。
『うまをみにいく』
『ああ、そうだったのかい。わかったよ。一緒に行こう』
パタラに手を引かれて外に出る。エニとマニが出入り口のすぐ脇で伏せていて、ぴょんと立ち上がって鼻面を寄せてきた。私は順番に彼らの頭を撫でた。
「ごめんね、今日は肉の欠片をもらってないの」
必ず毎朝くれるのに。……そういえば、今朝のエウルはどことなくおかしかった。
『パタラ様! どこへお出でで?』
男性が大きな声でパタラを呼びながら、馬に乗って駆けてくる。エウルの友人の中で一番体の大きい、リャノという人だ。
とにかく怖かった。逃げたかった。でも、走っても無駄なのがわかって、体がすくむ。ただパタラの腕にしがみつくしかできないでいるうちに、彼はあっというまにやってきて、目の前で馬を下りた。
パタラが落ち着いて言葉を返す。
『馬を見に行くだけだよ』
『そうでしたか。あまり遠くにいらっしゃいませんよう。エニとマニをお連れください』
『わかっているよ』
彼は突然膝をつくと、地に手を着いて、這うようにして下から私の顔を覗きこんできた。
眉尻が下がっている。強面なのに、明らかに案じているのがわかるまなざしだった。……ああ、そうか、手を着いたのは、そうしないと、背が高すぎて、うつむく私の顔を見られないからだ。
そこまで気遣われるのが思いがけなくて、戸惑う。
『痛々しい姿ですが、顔色は良いですね。こんなに小さい方を、二度も殴ったと聞いたので、心配していたのです』
『本当にこの程度ですんで良かったよ。生きた心地がしなかったよ』
リャノは後退って――それもきっと、間近で立って私を怯えさせないためだ――、立ち上がった。
その時、くぐもった叫び声が聞こえた。私は反射的にそちらを向いた。遠くに人だかりが見える。散らばった天幕群の真ん中にある広場だった。
リャノがふさぐように腕を出した。
『あちらへは行かれませんよう』
『そうだね。……耀華公主!』
エウルの姿が見えた。人々に囲まれている。私は彼に向かって走りだした。私のせいで責められているのかもしれない。そう思ったら、駆けださずにはいられなかった。
『公主、駄目だよ、見て気持ちのいいものじゃないよ』
ところが、いくらも行かないうちに、パタラに捕まってしまった。引き戻されそうになって、足を踏ん張り、指をさす。
『エウル! エウル!』
『うん、エウルはあそこにいるよ。責任者だからね。見届けなければならないんだよ』
諭す口調で言われるが、何を言われているのかよくわからない。それより、とにかくあれはエウルだとわかって、よけいに心配で怖くなり、涙がにじんできた。
パタラは、エウルは丈夫で多少雑に扱っても大丈夫だと思っているようだけど、さすがにあんなにたくさんの人に囲まれて何かされたら、無傷ではいられない。
『お連れしたらどうですか』
『女の子に見せるものじゃないよ。それに昨日の今日で、病み上がりなんだよ。寝ていないと』
『連れ帰っても、この様子では寝ませんよ。少し見せれば、震えあがってベッドにもぐりこむでしょう。その方が早いですよ』
『リャノ! あんたみたいな怖いもの知らずと公主じゃ、比べものにならないんだよ!』
リャノが膝をつき、私に手を差し伸べてきた。彼は、エウルのいる方を顎で指し示した。
『馬に乗りますか?』
『うま、のる!』
『公主のご命令なら、しかたありませんね』
彼の手をつかむと、彼はパタラから私を奪い取り、軽々と持ち上げて彼が乗ってきた馬に乗せてくれた。轡を取って、引いてくれる。
『これ! リャノ! 耀華公主!』
パタラは怒っていたけれど、危なっかしく乗っている私に手を出しかねているらしい。
『ああっ、振り返らなくていいよ! 前だけ見ておいで! 前だけ!』
『まえ』と言って、エウルの方を指さす。
『はい。まえ、いく』
馬の上は自分で立っているより高くて、さっきよりすべてがよく見えた。
人が、高い位置で横に渡した棒に両手をくくりつけられ、吊り下げられていた。男もいれば女もいる。彼らは動けないままに、背を棒で叩かれていた。
バシンッ、バシンッ、と酷い音が聞こえる。
その殴る役で、エウルも棒を振るっていた。ウォリやホラムやナタルもいる。
近付くほどに、後ろ姿しか見えない、殴られている人たちの判別もつきはじめた。
ニーナがいた。スレイもいた。スレイを殴っているのは、エウルだった。
「スレイ!? ニーナ!?」
私は指さしてパタラとリャノに聞いてみたが、ただ頷きが返ってきただけだった。彼らはそれを承知しているのだ。
「どうして!?」
通じないのは承知の上で、聞かずにはいられなかった。昨日まで生活を共にしていた彼らを、なぜエウルは殴っているのか。そんなことをする人じゃないのに。
エウルは険しい顔をしていた。見たこともないほど。……棒を一振るいするごとに、自分が痛みを感じているかのように。
人垣の後ろでリャノに馬を下ろしてもらうと、人々の間に分け入った。
「すみません、通してください!」
人を押しのけると、不愉快そうに振り返った彼らが、ぎょっとして一様に身を引く。
『おい、耀華公主だ!』
『耀華公主だぞ! 道をあけろ!』
口々に名前を呼ばれたと思ったら、ざっと人垣が割れ、私は簡単に一番前へと飛び出していた。
「エウル!」
勢いのまま、彼の腰に抱きつく。
『耀華公主!? これはどういうことだ、リャノ、叔母上!』
『あんたに会いたいって、泣きだしたんだよ』
『心配しているようだったぞ』
『連れ帰れ。今すぐだ!』
エウルの恐ろしい声に、体が震えた。エウルが怒っているのはわかった。でも、スレイを殴るなんていけない。こんなことをして傷つくのは、本当は優しいエウルだ。
言葉で伝えられないから、抱きついた腰を引っ張った。どんなに力を込めても、エウルは一歩たりとも動かなかったけれど、そうしている間は、エウルはスレイを殴れない。
あんな棒で叩かれたら、よほど丈夫な人でない限り、骨が砕けて死んでしまう。帝国でもそういう刑があり、見せしめのために町の広場でされていたのを見たことがある。お嬢様が大好きで、必ず見物に行っていたのだ。殴られた人は、酷い死に様だった。苦しみながら死んでいった。
『耀華公主、天幕に帰るんだ』
『エウル、かえる?』
『後で帰る』
『エウル、公主、かえる、てんまく』
『耀華公主』
不機嫌に呼ばれ、怖さと、それでも殴らせてはいけないという思いで、必死に彼にしがみついた。
『耀華公主、見ろ』
口調が変わって、肩を軽く叩かれ、私は顔を上げた。エウルが、隣に吊されている女性へ棒を向ける。彼女を殴っていたホラムが手を止め、数歩退いた。エウルは、気を失っているその顔に棒の先を掛け、こちらへ向けさせた。
私は、はっと息を吸い込んだ。顔が強ばるのがわかる。思わずエウルに強くすがりついてしまった。スウリという人だった。
『見覚えがあるな。あなたを殴って川に落とし、殺そうとした女だ。馬車の車輪に細工をしたのも、この女だ』
エウルは次に、スレイを指し示した。
『これは、兄妹だからと、あの女のしたことを見逃した。誰よりもまず、俺に報告しなければならない立場だったのに、それを怠った。その裏切りであなたを危険にさらした』
そして、次はニーナを。
『あそこの女は、あの女に協力して、あなたを陥れた。王族に仕える立場を利用したのだ』
最後に、向こう側にいる壮年の男女を指した。
『あれらは、俺と耀華公主の周囲にあの女を近づけさせないという命令を破った。それもこれも、あなたに危害が及ぶことを恐れてのことだったのに、軽く考え、娘可愛さに見誤った』
最後にエウルは膝をつくと、目線の高さを同じにして語りかけてきた。
『皇帝の娘であるあなた自ら、閻との和平のために来てくれた。そのあなたを守るのが俺の役目。……優しいあなたが、これを見て心を痛めるのはわかる。だが、どうか理解してくれ。あなたを害しようとした彼らを、許すわけにはいかないんだ』
エウルの言うことは、何一つわからなかった。ただ、私に語りかける形を取りながら、本当は集まった人々に話しかけているのだと感じた。
誰もが望んでいないのだろう。……なにもかも、私がここにいるからいけないのだ。
『……かえる、帝国』
『耀華公主、何を言ってるんだ!?』
「申し訳ありませんでした。お世話になりました」
エウルと別れて帰りたくなんかない。帰り方もわからない。もし帰れたところで、殺される。帰る場所なんてないのだ。
それでも、私がいたら、この人達が殺される。
挨拶をして頭を下げると、こみ上げてきた涙が、ぼたぼたぼたっと落ちた。
肩を、手荒にエウルに掴まれる。
『耀華公主、落ち着いてくれ。あなたを帝国には帰せない』
なんとなく引き留められているのがわかって、激しく横に頭を振った。エウルの手をはずして逃れようとしたのに、反対にもっと強く肩をつかまれる。もはや、肩が痛いくらいだった。
『エウル、公主は両国の誰も傷つかないようにとの思いでいらっしゃったんだ。それが叶わないのなら、来た意味がないのだと仰っているんだよ』
パタラが場の中心に踏み入ってきて、毅然として言った。
『公主の強い思し召しだ。彼らの減刑をなさい』
『叔母上』
エウルは躊躇っているみたいだった。けれど、パタラは改まった態度で、重ねて命ずるように言った。
『王の代理人として、私が公主の願いを聞き届けたのです。命じます。公主の思し召しを叶えなさい』
『……御意に』
エウルが立ち上がり、私はぐいっとその胸に引き寄せられた。動けないくらいに抱き込まれる。絶対に離さないという意思が感じられて、私はよけいに泣けてきて、しゃくりあげた。
『棒打ちの刑はここまでとし、罪人の印だけ入れて、追放しろ』
『大将、手首の切り落としはどうする?』
ウォリが何か尋ねた。
『……なしとする。他に質問は?』
誰も声をあげなかった。エウルは畏まってパタラに向き直った。
『王の代理人よ、この後の刑の見届けは、お任せしてもよろしいか』
『ええ、引き受けましょう。エウルは早く公主を天幕にお連れするように。まだ体調が万全ではいらっしゃらないのです』
『承知した』
エウルは棒を投げ捨て、私を抱え上げた。びっくりして、彼の首に抱きつく。彼が進むと、人々が道をあけた。
しばらく行くと、スレイの叫び声が聞こえてきた。
『耀華公主! 耀華公主! 罪を贖わずに生き残るなどできません! どうか、このまま恥をすすがせてください!』
『おだまり。公主は、生きて罪を償うことをおまえたちに望んだ。おまえに逆らう権利などないのだよ』
パタラが厳しく言い返し、あたりは静かになった。スレイの方を見ようとしたけれど、エウルは私の体をしっかりおさえて、けっしてそちらを見せてくれなかった。
やがて、獣が遠吠えするような、赤ん坊が泣きだすような、うなり声が聞こえてきて、それが人の声だと気付く。……スレイが泣いている。聞くのが耐えがたい悲痛な声に、私は片耳をエウルの胸に押しあてた。
エウルは無表情に、振り返らず、リャノが差し出した馬にも乗らず、私を抱いたまま歩いて、天幕に連れ戻した。




