エウル、ロムランの声を使う
日が傾いて空の青さが薄くなり、ようやく帰ってもいい時分になった。放牧拠点に向かって羊たちを追い立てる。
ここに宿営をはじめて五日目。今日も一日、いや、今日は特に、気が気ではなかった。何度も、耀華公主が結びつけてくれたリボンがほどけてないか、確かめずにはいられなかった。
自然にほどけてしまった時は、その持ち主に何かよからぬことがあると言われている。
この五日ですっかり癖になってしまった動作で、左腕に目を向けると、心なしか一方の端が長いように感じた。長さを確かめようと触れると、するりと結び目がとける。
息を呑んだ。
たかが呪い。そう思おうとしても、できなかった。
風に飛びそうになるリボンを右手で巻き取り、同行しているホラムを振り返る。
「後は頼む!」
ホラムが手を挙げて答えるのを目の端に引っ掛け、馬の腹に蹴りを入れて、急がせた。
アイルが見えてきて、自分の天幕の前に人だかりを見つける。なのに、青い服を着た小さな姿がない。
手綱を強く引いて、馬から飛び下り、礼代わりに一つ首を叩いた。
「叔母上! 耀華公主は!?」
「それが今、ニーナがやってきて……」
そのニーナは、泣きじゃくってスレイの腕の中にいた。彼女の肩をつかみ、揺さぶって顔を上げさせる。
「耀華公主はどこだ」
ニーナは、あ、とも、ひ、ともつかない高い声で、泣き声をあげた。「違うんです」と口走る。
そこに、公主の身の安全よりも保身が透けて見え、怒りと焦りが頂点に達した。怒鳴りつける。
「耀華公主の居場所を言え!!」
その瞬間、空気が変わった。
自分の声が、思ったよりも、どこまでも遠く響き渡っていく。
俺は、ロムランの声を使っていた。
人々の目が、俺に吸い寄せられていた。いつもなら声の届くはずのない遠くに居る人々まで。……いや、目だけではない、耳も、……心すらも。
まるで、見えない糸を人々の心に縛り付けたかのようだった。この糸を、この声で震わせれば、どのようにも従わせられる。それが、手に取るようにわかった。
彼らのまなざしのどれもに、焦慮が見えた。公主の居場所を知らないからだ。俺の命令に、応えたくても応えられない。
誰も、俺の望みを叶える者がいない。それに、怒りが増していく。
耀華公主をこの腕に抱きたい。それだけのことなのに!
人々の心が軋んでいるのが伝わってきて、その苦痛に、愉悦を感じた。当然だ、俺の望みを叶えないからだ。
怒りのままに、わめき散らしたかった。耀華公主を探せ、と。居場所を見つけてこい、と。
それで、この人形達の心が壊れようと、かまわなかった。
肩を掴んでいる人形の膝が、がくんと崩れ落ちる。ひざまずいて、叫んだ。
「あちらの川の傍にいらっしゃいます!」
すべての糸が断ち切れた。
はっと我に返る。
目の前に、ニーナがいた。その横にスレイが。叔母上も、ウォリも、リャノも、ナタルも、生まれたときからの付き合いの奴僕達も。アイルに集う者達も。
心配と、疲労と、恐れと、混乱と。様々なものを宿して、俺を見ていた。
……俺は、今、何をどう感じていた?
「エウル」
叔母上は、ただ一人、何が起こったのか理解しているのだろう。正気を呼び覚ますような呼び方をした。
そうだ。呆然としている場合じゃない。公主を探さなければ。
「ニーナ、何があったのか説明しろ」
「スウリが公主に何かを……、申し訳ございませんっ、何をしたのかはわかりませんっ。私は話すだけだと聞いていたのです!」
あ、という顔をして、ニーナが口を噤んだ。ところが、その表情こそが雄弁に物語っていた。
公主の侍女でありながら、公主を裏切っていたのだと。
「どういうことだ、ニーナ? 何をたくらんで、何をした!? 答えろ!」
目も眩むような怒りがぶりかえし、気付けば、名を呼ぶと同時に、ニーナの心に糸を掛けていた。
一度思い出したら簡単だった。……そう。俺は、これを使ったことがある。
遠い遠い記憶の底から、浮かび上がってくるものが、脳裏にちらつく。
悔しげに泣く幼い兄。困ったように俺を見つめる母。親父様に抱かれて馬に……。
ふいに、親父様の声が耳に蘇った。
『そんなことをしなくても、愛して面倒を見てやれば、馬は喜んでおまえのいうことを聞くだろう。この馬が、私にそうしてくれるように。ロムランの声など使わなくても、おまえもできるようになるはずだ。おまえは私の息子なのだから』
ああ、そうだった。だから俺は、馬に夢中になった……。
糸が、たるむ。けれど切れることはなく、俺のかけた呪いは、それが果たされるまで、ニーナをせきたてていた。
「あっ、あ、申し訳ございませんっ、申し訳ございませんっ。スウリは、エウル様の心を取り戻すのだと、公主を帝国に帰りたくなるよう仕向ければいいのだと、申してっ。それで、二人で一計を案じ、エウル様の天幕の水の革袋に小さな穴を開けましたっ。その騒ぎで公主からパタラ様を引き離し、公主お一人でスウリの待つ崖へと行くように案内したのですっ。ところが、そちらから酷く吠える犬の声が聞こえてきて、ミミルと探しに行ってみましたら……」
ニーナは、自分が何を口にしているか理解しているのだろう、俺の命令に逆らえず、絶望した目で泣きながらまくしたてていた。
聞けば聞くほど、怒りを覚えた。怒りがどんどん糸を引き絞っていき、こんな言うことを聞かない人形は壊してしまえ、という思いが大きくなっていく。
ああ、違う、違うだろう、ロムランの声に惑わされてはいけない、使ってはいけない、俺は蒼天の力を使える器じゃない!
無意識に強く拳を握っていた。ぐっと何かが掌に食い込み、目を落とした。公主のリボンだった。引き千切りかけているのに気付いて、反射的に、ぱっと手を開く。
公主が笑ったように感じて、また糸がゆるんでいた。
「スウリが犬達に取り押さえられていて、その横で公主が倒れていらっしゃいましたっ。今は、ミミルがスウリの手足を縛り、見張っています。公主は頭から血を流して、意識がなくていらっしゃいますっ」
血の気が引いた。一刻も早く公主の元へ行かなければ。気が急いたが、もう一つだけ聞いておかなければならないことがあった。
「他に協力者は。または、スウリにそうせよと命令した者はいるか?」
「おりませんっ」
もうニーナに聞くことはなかった。糸が霧散する。
背をひるがえした。さっき下りたばかりの馬を捕まえ、「頼む」と懇願する。任せろとばかりに、ぶるぶると鼻を鳴らす馬に飛び乗り、指示を出す。
「リャノ、奴僕を率いて、スレイの父親と母親を連れてこい。
ウォリとナタルは俺についてくるんだ。
……スレイ」
馬上からスレイを見下ろすと、ニーナを抱きしめて、真っ青な顔で、俺を見つめていた。覚悟が見える。
……ああ、だから、ここに逗留するのを反対したのか。こうなると、見越していたから。それを言わなかったのは、妹と婚約者が関わっていたからか。
いっさいの言い訳をするつもりはないらしかった。
だったら、俺がスレイに言えることは、一つだった。
「おまえは、そこから、ニーナと動くな」
言い捨てて、俺は馬首をめぐらせ、馬を連れてくるウォリとナタルを待たず、先に川へ向かって駆けさせた。
ニーナの指さした方向に一直線に行きかけたが、少し川下に進路を変えた。周辺の地理は頭に入っている。あそこの崖は、馬に飛び下りさせるのは無理だ。
乗馬の巧みなウォリが追いついてきた。ナタルはまだだが、後ろからついてくる蹄の音は聞こえている。
崖をまわりこんだところで、すぐに探していた姿が見えた。
「ミミル! エニ! マニ!」
「ああ、エウル様! ここです!」
ミミルが大きく手を振っている。
傍で、小ぶりの馬がうろうろしていた。見覚えがあった。ルツの家のもので、特にスウリが気に入り、あれにばかり乗っていたはずだ。
ミミルの両側に人が転がっており、赤い上着を着た方の上に、エニが前脚をのせていた。あれがスウリだろう。腕と足を縛った縄の端を、ミミルが持っている。
反対側の青い上着の横に、マニが寝そべって寄り添っていた。
「ウォリ、スウリを捕らえろ」
「承知した!」
「……耀華公主っ、耀華公主!!」
馬を下りて、彼女の傍らで膝をついた。
仰向けの彼女の左のこめかみに、血が一筋垂れていた。それ以外の血は見当たらない。目を閉じている。
マニが俺を上目遣いで見ながら、長い舌を出して、ぺろりと彼女の頭を舐めた。何度もやっていたようで、そのへんだけ濡れている。
血だまりはなく、立ちのぼるほどの血臭もなかった。大きな傷はないようだ。だが、頭を怪我しているのなら、わからない。大きな切り傷より怖いものなのだ。
俺は、彼女の頭の横に手をつき、屈んで顔を寄せた。恐ろしかった。腕が小刻みに震える。どうか、とその先を言葉にできないまま祈りながら、彼女の鼻と口に耳を近付ける。
すう、と息が聞こえた。
ああ、まだ生きている。
「耀華、公主」
俺は、彼女の上に覆い被さった。そうせずにはいられなかった。
彼女の頬に頬をつけ、小さな体を動かさないように腕をまわす。
ぬくもりと、息づかいが伝わってくる。
胸の奥が熱くなり、喉が震えた。目頭が焼けたようになって、涙がこみあげてきた。
嗚咽がもれた。
もう、離すものか。強く、強く、それだけを思う。
もしもこのまま彼女が目覚めないとしても、自分も息が絶えるまで、彼女を抱きしめていればいい。死ぬまで共にいられるならば、それでよかった。
涙があふれ、ぱたぱたと彼女の頬に落ちる。
彼女がびくりと震えた。様子を見たくて、俺は頬を離し、少し距離を取った。瞼がぴくりと動き、ぼんやりと見開かれる。
目が合った。彼女が不思議そうに首を傾げ、手を伸ばしてきて、俺の頬を拭う。
「エウル?」
「ああ、蒼天よ、感謝いたします」
俺は泣き笑いで、偉大な存在に感謝を捧げた。




