アニャン、腹心達を紹介される
パタラに促されて横になったけれど、ぜんぜん眠くなかった。あたりまえだ。起きて、朝ごはんを食べただけだ。
パタラは私の傍らで座った。エウルは後ろから馬に乗ってついてくるようだ。そのうち、がたごと馬車が動きだした。
『眠くないようだね』
パタラが苦笑した。
『じゃあ、数でも教えようかねえ』
彼女は握った拳を上げて、指を一本ずつ立てはじめた。
人差し指、中指、薬指、小指、親指。
エウルに手を取られて、一本ずつ撫でて教えられたくすぐったさを思い出しかけて、記憶の奥へ押し戻す。その時の気持ちをパタラの前で出すのは、なんだか躊躇われた。
意識して、パタラの声に耳を澄ます。あれ? エウルとは違う発音をしている。
『一、二、三、四、五』
続いて、もう一つの拳も上げて、『六、七、八、九、十』で終わった。それから、私の腕を叩いて『一』、自分の胸を叩いて『二』、手をエウルに向けて『三』。御者に向けて『四』。
あ、数だ!
私は起き上がって、パタラの真似をして指を一本立てて見せた。
何度か繰り返してもらって、覚えながら発音を口に馴染ませる。
『そういえば、公主はいくつなんだろうね。……私は三十と八。公主は?』
パタラはまた自分の胸を叩いて、両手を三回広げ、次に八を出した。それで掌を私に向けて、答えを促してくる。
ええと、三十八ということかな。……えっ? まさか三十八歳!?
三十は行ってそうと思ってはいたけれど、そこまで年上とは思わなかった。エウルは二十代の後半と見ていたのに、もしかしてもっと年上なのかもしれない。
……それなら、あの扱いもわかる。親子ほども年齢が違うのだもの。そりゃあ私なんて、子供にしか見えないだろう。
私も十と六を出して、パタラに伝えた。
『おや、まあ! 私はまた、十二、三くらいかと』
彼女も驚いた顔をしている。十と二と三の言葉が聞き取れた。十二、三歳と思っていたのだろう。
パタラはクスクス笑いだした。
『どおりでしっかりしていると思ったよ。……でも、エウルには内緒にしておこうね。あの子は公主に夢中だもの。子供に手は出せないと自制しているのに、その必要がないと知ったら、どんな強引なことをしでかすか。……私は知らなかったことにしておくよ。
十六歳は、内緒だよ』
十と六と言って、しーっと口に人差し指を当てる。
言ってはいけないということだろうか?
『じゅう、ろく、しー?』
『そう、そう! 可愛いねえ。その上目遣いが、十二歳にしか見えないよ!』
パタラは、ぷっと吹き出したかと思うと、ぽんぽんぽんぽんと激しく私の腕を叩いて、声をあげて笑った。
それから、内容はよくわからないけれど、綺麗な節まわしの短い歌を、いくつか教えてもらった。『こもりうた』というらしい。
そのうち、御者も歌いだして、エウルや馬車のまわりで馬に乗っている男達も一緒に口ずさみだし、もっと長い歌を朗々と披露してくれたりして、ずいぶん楽しい時間を過ごした。
夕方、馬車が停まると、御者が馬車の中に身を乗り出し、ニッとしながら、ちょっと失礼というように、私に向かって手を挙げた。それから、馬車の後ろから見える、馬を降りようとしているエウルに、大きな声で話しかける。
『大将、そろそろ俺たちを紹介してくれてもよくない? 独り占めしたいのはわかるけどさー、話しかけられなくて、見て見ぬふりしてるの、辛いんですけど。……ねえ、公主様』
最後に、名前を呼ばれて笑いかけられる。
ひょろっと背の高い人で、ちょっと間の抜けた感じの顔をしている。
エウルは腰に手をあて、気に入らなげに、ふん、と息を吐いた。
『そんなんじゃない。おまえたちの怖い顔を見て公主が怯えるといけないから、様子を見ていただけだ。それより、不用意に近付くな。御者席に戻れ』
『はいはい』
彼は身を引き、御者席に戻った。エウルはかなり渋い顔で、彼を指した。
『耀華公主。あれはウォリ』
『ウォリと申します。エウルの腹心です。公主様は歌がお上手ですね。つい一緒になって歌ってしまいました。仲良くしてください』
ええと、名前はどれかな。二人とも口にしたあれだろうか。
『うぉり?』
彼とエウルを交互に見て、聞いてみる。
『そう。ウォリだ。……みんな、来てくれ』
エウルは四人の男を招き寄せた。私も馬車の端まで行く。
『こいつは、スレイ』
お嬢様が好きそうな、演劇の役者のような男の人が、大仰な礼をしてみせた。
『スレイと申します。エウルの定めの伴侶ならば、我らにとっても大切な方。誠心誠意お仕えいたします』
『すれい』
それ以上何と言えばよいのかわからず、言葉に詰まった。
私の返事はそれほど必要なかったらしい。エウルはかまわず、次の人を紹介しはじめた。少し恰幅のいい人だ。
『これは、ナタル』
『ナタルです。言っていただければ、旨い物をご用意します。そのうち、帝国の料理について教えていただきたいです』
『どさくさにまぎれて、変な要求をするな。言っておくが、言葉は通じてないからな』
『変なことじゃないだろ。嫁入りした者も、婿入りした者も、里の味が恋しくなるものだ。相手の心を留めておくのに、胃袋を掴むのも一つの手だぞ』
『……わかった。それについては、後で相談する』
エウルはこほんと咳払いして、次の人を指し示した。
『ホラムだ』
大柄で真面目そうな人だった。静かに目礼される。何か言うのかと注目していたのに、エウルは間を置かず、最後の人を紹介した。
『リャノだ』
『リャノという。あなたがエウルを裏切らない限り、命に替えてもあなたを守ると誓おう』
一番大きくて鬼神のお面みたいな顔をした人が、それに見合った荒々しい声で、何かを宣言した。ひたりと見つめられて返事を待っている。でも、何を言われたのかわからない。私は困って、エウルに助けを求めて視線をやった。
『リャノ、怖い顔になってるぞ』
エウルが少しあわてたみたいに私を抱き上げた。リャノが、顔を顰めてもっと怖い顔になる。……顔が厳めしいだけで、態度はぜんぜん怖くないのだけれど。旦那様のお屋敷で、理由もなく人を蹴る人はいっぱい見てきたから、彼がそういう人じゃないのはわかる。
『おまえにだけは、言われたくない。よく公主を見てみろ。おまえは顔を見せただけで泣かれたかもしれないが、俺には泣く気配もないぞ』
『ほんとうだ。不思議そうな顔で、見てる見てる、じっと見てる。そうだよなあ。厳めしさではリャノの方が上かもしれないけど、迫力なら大将の方が、痛っ』
いつの間にか御者席からやってきたウォリが、面白そうに私の顔を覗きこんで何か言ったところで、エウルは彼の脛を蹴った。
『痛っ。悪かった、軽口が過ぎた。そんなに気にするなよ。見慣れれば、顔立ちは整ってないこともない、てっ、痛っ、痛っ』
ウォリはエウルから距離を取って口を噤んだ。脛をさすっている。他の男達が、どっとわいた。
エウルが気安く接していて、親しい間柄なのが見て取れる。
こうしていると、こちらの人たちも案外普通だと感じる。食べる物は違うし、住むところも、生活のしかたも、何もかも違うけれど、同じ人間なんだ、と。
旦那様の仲の良いご友人なら、しっかり名前を覚えておかなければならない。
忘れないように、彼らを一人一人見ながら、小声で繰り返し名前を唱えた。
『ウォリ、スレイ、ナタル、ホラム、リャノ。ウォリ、スレイ、ナタル、ホラム、リャノ……』
『そんなに熱心に名を覚えなくていい。あれとかそれとかでじゅうぶんだ』
エウルに突然口をふさがれ、私はすぐさま黙った。彼の声が、聞いたことないほど不機嫌だ。
名前を唱えるのはいけなかったのだろうか。何がいけなかったんだろう? ちょっとしたことでも、一つ一つが帝国と違っていて、していいことなのか悪いことなのかわからない。
急に何もかもに自信がなくなって、ただただ大人しくしている以外、どうしたらいいのかわからなくなった。
『あー、あー、大将、女の子にそんな言い方しちゃだめじゃん。
……大丈夫、大丈夫、怒ったんじゃないから。公主様が他の男の名前を呼ぶのが気に入らなかっただけだから。ね?』
ウォリがまた寄ってきて、安心させるように笑いかけられ、背中をぽんぽん叩かれた。
なぜか、男達が再び大笑いしはじめる。それで、手を伸ばしては、エウルを軽く小突いている。彼が責められているようだ。
そっとエウルを見上げれば、ばつが悪そうに眉尻を下げていた。
『耀華公主』
自信なさげに、何かもっと言おうとしては、言いあぐねている。
そうか。怒ったんじゃなかったんだ。きっと、人の名前を並べて唱えると不吉だとか、そういうのだったんだ。
『はい。エウル』
そう答えたら、彼はほっとしたように笑って、ぎゅっと私を抱き寄せた。
ヒュイッといくつも口笛が吹き鳴らされて、男達が口々にはやし立てた。
『愛想尽かされなくてよかったな、大将!』
『心が狭いのもほどほどにしておかないと!』
『うるさい、おまえたち、日が沈む前に、天幕を張れ!』
エウルの一喝で、男達は笑いながら散っていって、荷物を下ろしはじめた。




