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エウル、公主にうっかりくちづける

 酔い潰れた男達の間を、足音を忍ばせて歩く。(くだん)商人(ジャンニ)も、政務用天幕(オルト)内で寝転がっていた。そうでなければ、腹心達が集まる天幕に泊めてやろうと思っていたのだが、寝てしまっているのなら、このままでかまわないだろう。

 すっと、ホラムも立ち上がる。腹心達の中でただ一人酒に強いのだ。目付役達がこぞって持ち出してきた強い蒸留酒(アルヒ)も形無しだ。こんな時の護衛は、いつもホラムだけになる。


 夜空には半分より大きい月とともに、無数の星が瞬いていた。

 俺たちは、他に誰も見あたらない中を、並んで歩いた。


「なあ、ホラム、どうやってミミルの気を引いたんだ?」


 ホラムは強面な上に、ほとんど無表情に近いし、自分から話したりしない。しかも、答えすら言葉で返ってくるのはまれだ。そんなので、どうやって妻になってくれと口説き落としたのだろう。

 ホラムがこっちを向いた。俺も見返す。暗くて表情はわからない。ただ、ホラムが笑った気配がして、背中を軽く叩かれた。何も言わないのに、おまえならなんとかなるだろ、と言われているのがわかった。

 なるほど。案外通じるもんだな。言葉がなくても。


「ああ、ここまででいい。あとは犬達が居るから。ミミルによろしくな」


 躊躇うホラムに、早く帰ってやれと手を振って、別れた。

 自分の天幕に近付くにつれ、犬が増えていく。ちゃんとどこかへ遊びに行ったりせずに、見張ってくれていたようだ。公主を守るようにと、呼び寄せておいたのだ。

 犬達は寝そべっていたが、俺が側を通る時は、首をもたげて鼻先を寄せてきた。指をペロリと舐めさせては撫でてやって、通り過ぎる。

 最後に、入り口の両脇に陣取っていたエニとマニが、後ろ脚で立ち上がって前脚を掛けてきた。それを両腕で抱いて、がさがさがさと首から胸を撫でてやり、「ありがとな」と囁いた。


「ただいま」


 小声で言いながら、慎重に入る。不審者と間違われて、叔母上に襲われたら、たまらない。

 入り口に近い叔母上のベッドを見たが、動かなかった。ぐっすり眠っているのか、俺なら問題ないと思っているのか。

 炉の火は埋められずに焚かれていた。チラチラ踊る灯りを頼りに、自分のベッドから上掛けと枕を取って、公主のベッドへ行く。寝息が穏やかなのを確かめて、傍らで横になった。

 懐に入れてある木箱が床との間につかえ、贈り物を手に入れたのを思い出す。


 これをいつ渡そう?

 今はまだ早い。あの大きな翡翠の耳飾りを取り去る時がいい。皇帝の娘ではなく、俺の妻となった時。夫婦としての初めての夜を過ごし、翌朝、共に人前に出る時に……。

 子供に子を孕まさせるわけにはいかないから、腕に抱いて寝るのが関の山だろうが、彼女をお飾りにするつもりはないのだと示すのに、ちょうどいい。

 子供はすぐに大きくなるものだし、それまでには言葉も覚えて、もう少しふっくらして、体も丈夫になるだろう。あれだけ目の大きい、愛らしい顔だ、大人になったらきっと……。

 仕事から帰ったら出迎えてくれるだろう、彼女の成長した姿に思いを馳せているうちに、俺はいつの間にか眠っていた。




 どのくらい寝たのか。傍らのベッドが軋んだ。ベッドの上で、続けて衣擦れの音がしている。耀華公主が起き上がったらしい。

 驚かさないように、俺もゆっくり起き上がって、声を掛けた。


「耀華公主」


 ビクリと体が揺れる。俺は、叔母上を起こさないように、公主に体を寄せて、声をひそめて話しかけた。


「馬を見に行きたいのか? それとも、水を飲むか? 馬乳酒を飲むか?」


 公主は、叔母上と俺を交互に見ては、言いにくそうにして躊躇っている。けれど、俺がじっと返事を待っているのを見て、おずおずと俺の耳へと首を伸ばしてきた。


「みずおのむ」


 可愛らしい声で囁かれて、むずむずした。ただ、どことなく違和感を覚えて公主を見下ろすと、上目遣いで、そうっと体を引いていく。

 ふと、本当に言いたいことは言えなかったんだなと感じた。……そうか。男に「馬を見に」連れて行ってくれとは、言いにくいだろう。


「わかった。ちょっと待ってろ」


 公主の本意には気付かなかったふりで炉に行き、火に牛糞を足して大きくしてから、脇によけてあるヤカンを取って、湯冷ましをついだ。

 両手で受け取った彼女は、杯を掲げて目礼した。帝国式の礼なのだろう。綺麗な仕草だった。彼女は美味しそうにゆっくりと飲み干した。

 飲み終わった彼女と目が合い、彼女の目線がおろおろと揺れる。いつもは叔母上が間に入っているから、こんなふうに二人きりで直接対するのは、もしかしたら初めてなのかもしれなかった。


「公主、馬を見に行こうか」


 杯を取り上げ、叔母上が起きないうちに、さっとマントを彼女に羽織らせ、抱き上げる。


「パ、パタ……」


 おどおどと叔母上を指さそうとした公主の口に、シッと指をあてた。叔母上が一緒だと、また俺は蚊帳の外にされてしまう。それでは面白くない。

 俺は取り合わずに、さっさと外に出てしまった。




 夜明けが近いのだろう、あたりは灰色になっていた。片腕に公主を抱き変え、天窓を覆う布をロープを引っ張ってめくり上げた。


「エニ、マニ、来い」


 ぴょんっと二匹が起き上がり、その勢いのまま足にじゃれついてくる。公主が気になるようだ。さかんに伸び上がって、公主の匂いを嗅ごうとしている。だが、公主は足を縮めて、俺の首にしがみついてきた。

 怖がることはないのに。犬達は、群れの主である俺の匂いのする者に、襲いかかったりしない。


 しばらく行って他の犬がいなくなったところで、腰の物入れから干し肉の欠片を二つ取り出した。一つを公主の手に握らせてやる。

 エニとマニの鼻が俺たちの手に釘付けになって、足下で右に左にせわしなくうろうろしはじめた。


「エニ」


 呼んで肉を放ってやると、大きく伸び上がって、空中でぱくんと噛み取った。

 公主の目がまん丸に見開く。


「マニ」


 待ってましたとばかりに、勢いよく吠えて飛びかかってくる。それをよけながら、仕草で投げるようにと彼女をせかした。


「ほら、耀華公主、投げてやれ」

『えー? えー?』


 困ったようにか細い声を出して手を上に上げるばかりで、いつまでも投げない。投げかけては、マニが近付いてくるとまた高く上げるから、下に下ろせば、手ごと噛まれてしまうと恐れているようだ。

 マニが、ぐっと姿勢を低くした。あ、まずい。本格的に飛びかかる姿勢だ。


「耀華公主、投げろ!」


 マニはじれて、彼女の手を狙って、飛び上がった。

 俺は、もちろん避けた。彼女もあわてて干し肉を投げ捨てる。目暗滅法に放ったせいで、おかしな方へ高く飛んでいった肉を、マニは高く高く躍り上がり、空中で身をくねらせ、ぱく、と音をたてて器用に口に収めた。


『うわあ! すごい! すごい!』


 耀華公主が歓声をあげた。帝国の言葉だ。それから、はっとして口をつぐむ。

 ここで帝国の言葉を話したって、別にかまわないのに。何を遠慮しているのだろう。俺は彼女の発音を真似して聞いてみた。


『うわあ、すごい、すごい?』


 ぱっと彼女の表情が明るくなって、何度も大きく頷く。

 そうか。こんなことで喜ぶのか。


「これは、なんだ?」


 亡くなった母が、赤ん坊だった弟の鼻をつついて言っていたのを思い出し、口調をまねて、耀華公主の鼻をつついてみる。彼女はぎゅっと目をつぶって、鼻を押さえた。


「鼻。は、な。鼻。……閻では、鼻と言う。……帝国では?」


 わかったみたいで、また、ぱっと表情が明るくなる。わかりやすい娘だな。

 一生懸命に答えてくれる。


『鼻、です。帝国では、鼻。鼻』

『鼻?』

『はい、そうです! 鼻! 閻では、……「はにゃ」?』

「はな、だ。はな」

「はな、はにゃ、……はな、はな……」


 ぶつぶつと唱えて、口に馴染ませている。俺も同じように、呟いてみた。公主が俺と目を合わせて笑ってくれる。たしかに、お互いたどたどしく、同じ言葉を違う発音で練習しているのは、なんだかおかしい。俺たちは額を付き合わせて、くすくす笑った。

 それから、目、鼻、耳、と教え合ったところで、天幕群を抜け、草原に出た。地平のかなたが、金色に明るくなってきていた。

 あてなく歩き、ちょっとしたくぼみを見つけて、その中に耀華公主を下ろす。


「エニ、マニ、ここで待て。公主を頼むな」


 くぼみの縁に犬を待機させる。護衛代わりだ。俺は斜面をよじ登って、別のくぼみに行った。

 あんまり早く迎えに行ってもいけないだろうと、見えない位置で待っていたら、『わああっ!?』という耀華公主の悲鳴が聞こえた。

 あわてて駆けつけると、ひっくりかえった耀華公主が、エニとマニにのしかかられて、べろんべろんと顔中舐めまわされていた。

 どうやら、犬達と仲良くなったらしい。


『や、やだっ、やめてっ、……ははっ! もーう! もーう! くすぐったいよっ、……ははっ、あははっ』


 手で二匹の顔を押しのけようとしているのに、その手すら舐められて、動きが取れないようだ。彼女は犬とそれほど変わらない体格だ。二匹掛かりで来られたら、どうにもならないのだろう。


「こら、おまえたち、いいかげんにしないか。ああ、涎でべとべとじゃないか」


 エニとマニの舌が届かないところまで高く抱き上げ、袖で顔を拭ってやった。

 まだ犬臭い。どこかに涎が付いているんだろう。俺はよく確かめようと顔を寄せた。

 その時だった。彼女の顔に光が当たった。


『あっ』


 彼女が大きな声をあげ、俺の背後を指さす。俺はその指を追って振り返った。

 地平に、強烈に輝く朱金の塊が顔をのぞかせていた。太陽だ。まるで、灼熱で溶け落ちた鉄塊のように、ぼってりとふくらんだ姿が、じわじわと現れだす。

 それにつれて、灰色の中に沈んでいた世界が輝きはじめた。草原が太陽と同じ朱金に染まり、鈍色だった川が、光をはじいてきらめく。家畜たちも生気を取り戻し、まどろみから覚めるのが見て取れた。

 俺達の生活のすべてが、そこにあった。俺は声もなく、これまで何度も見たはずなのに、そのたびに声を失う、神々しい光景に見とれた。


『すごい……』


 彼女が呟く。興奮に輝く顔には、あんなに濃くつきまとっていた死の影は、もうなかった。……まるで、この夜明けの光が、すべてを払拭してくれたかのように。

 ……ああ、彼女は大丈夫だ。もう簡単に儚くなったりしない。

 俺は直観に打たれて、思わず震える声で祈りを捧げた。


「ああ、偉大なる蒼天よ、感謝いたします」


 こみあげるものに突き動かされ、彼女をきつく抱きしめる。安堵で胸がいっぱいで、そのまましばらく動けなかった。

 彼女が、そうっとという感じに動き、背に小さなぬくもりが触れる。それが上下にゆっくり動いた。……撫でられている?


『えうる?』


 心配している声だった。はっとして顔を上げれば、眉を下げて、俺を覗きこんでいた。

 俺は、彼女から目が離せなくなった。


『えうる?』


 もう一度呼ばれた声に誘われるままに、その唇に唇を寄せる。触れたと同時に、触れた場所から漣のように堪えられない感覚が走り抜けていき、体が震えた。

 もっと感じたくて、彼女の唇を唇で食む。今度は腕の中の小さな体が震えた。

 ああ。甘い。

 煮え立った頭で、そう思う。

 俺は、ちゅっと甘い唇を吸いよせた。


 ――と。どんっ。どんっ。

 体が揺れる。両方の脇腹に衝撃があった。驚いて唇が離れ、泡を食って下を見れば、エニとマニが、俺の脇に前脚をついて、我も我もと鼻面を突っ込んできていた。

 なにしているの? たのしそう。オレたちもいれて、と。


「エニッ、マニッ、あっちへ行け!」


 体を捻って二匹を振り落とし、追い払う。

 奴らは、なんでおこるの、つまんない、という顔で、すっかり気を悪くして離れていった。


「まったく、あいつら……」


 邪魔をして、という言葉は呑み込んだ。うわ、と声をあげそうになる。我に返ったのだ。

 むしろ、邪魔してくれて助かったんじゃないのか!?

 おそるおそる腕の中に視線を落とせば、彼女が目を合わせてくれずにうつむいた。


 嫌だったんだろうか!? どうしよう……。

 犬だって、メスが許さなければ、つきまとって、触れていいかと許しを請うだけだ。無理に何かしたりしないのに。

 ……俺は犬以下の(けだもの)か……。


 耀華公主が、ちらりと目を上げた。バチリと目が合い、恥ずかしそうに、さっと再びうつむく。俺の背にまわっている手が、きゅっと上着を握って、布が引っ張られた。

 ……もしかして、そんなに、嫌がられてない、のか?

 蜘蛛の糸にでもすがるみたいに、そーっと、ほんっとうに、そーっと、嫌がられたらいつでも元に戻せるように、肩を抱き寄せてみる。

 彼女は、ことりと俺の胸に頭をあずけた。

 ……よかった……。

 ほっとしたあまり、膝から崩れ落ちるかと思った。


 ……少しは、好意が伝わっているといいんだが。

 俺は彼女を大事に抱えて、これ以上自分が何かをしでかす前に、さっさと天幕に戻ることにした。

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