アニャンという娘
私はお屋敷の裏手にある通用口の前で、どうしても中に入る勇気が出せず、うつむいて立っていた。
日は傾き、白い塀が赤くなっている。早く戻らなければ酷く怒られるのは目に見えているのに、折檻と食事抜きが待っているに違いなくて、入りそびれていたのだった。
体の前で持っていたお嬢様の帽子を、無意識に強く握りしめていたのに気付き、あわてて胸に押しつけ、掌で扱いて伸ばす。……そのたびに、ビリビリに破れている薄布がひらひらと揺れ、涙がこみあげてくるのを、さかんに瞬きをしてこらえた。
この帽子をお嬢様が飛ばしたのは、おやつの後の散歩の最中のことだった。今日は急に夏になったように暑い日だったから、新しい帽子を手に入れて喜んでいらしたお嬢様は、かぶって出歩くのにちょうど良いと思われたのだろう。ご機嫌で、人々が行き交う大河のほとりをそぞろ歩かれたのだった。
ところがあまりの暑さに、首元でくくっておくはずのリボンを、途中でといてしまわれた。大河からは、午後も半ばを過ぎると強い風が吹きはじめる。帽子は折からの風で大きく舞い上がり、大木の枝に引っかかってしまったのだった。
お嬢様はそれを目で追いながら、すっと胸元に挿してある扇を抜いて、広げて顔の前にかざした。そして、視線を下げてほんの少し横を向く。ものを言いつけるときの仕草だ。私は大急ぎで、お嬢様の声が届く場所まで歩み寄った。
「何をしているの。はやく日傘をさしなさい」
言いつけられて、血の気が下がる。高貴な女性は、常に人前に顔をさらさない。出掛けるときは、まわりに薄布の付いた帽子をかぶったり、同じく薄布を垂らした日傘をさす。それを、私は持って来てなかった。
「も、もうしわけ、ございません。お持ちしておりません」
「なんですって!?」
振り返ったお嬢様は、忌々しげに顔を歪めた。
「また、のろま、おまえなの! なぜ他の者が付いて来てないの!? おまえなんかを呼んだ覚えはないわよ、この役立たず!」
「もうしわけございません、もうしわけございません」
私は深く頭を下げ続けた。
本来なら、お嬢様に着いて歩くのは、上の方の侍女の仕事だ。私みたいな侍女とは名ばかりの下っ端がすることではない。けれど、こんな暑い日に出歩かなければならないような『面倒事』は、いつも私にお鉢が回ってくる。
今日だって、夕飯のための水汲みをしていたところを、お嬢様付きの侍女に呼びつけられて、走って表玄関に行ったら、お嬢様が外へ出掛けられるところだったのだ。
……ああ、もっと用心して気をまわせば良かった。表玄関でお嬢様が呼んでいるといえば、外出なさることぐらいわかったはずなのに。……そうできなかった、私が悪い。どうして私はこんなにのろまなんだろう……。
「おまえは本当に気が利かない! なぜ、おまえみたいな者を雇って食べさせてやらなければならないのかしら! いくら高貴な者の務めとは言え、限度ってものがあるわ。帰ったら、お父様に、おまえなど追い出すように申し上げなければ」
「それだけは、それだけはご容赦ください!」
私はその場で膝をつき、地面に額をこすりつけた。
「こんなところでよしてちょうだい! 私が酷い主人みたいじゃないの! 私に恥をかかせているのはおまえなのに! ああ、だから下賤で気の利かない者は嫌なのよ。もういいわ。これ以上恥をさらしていられない。私は帰ります。おまえはあれを持って帰っておいで。そうしたら、屋敷に入れてやってもいい」
「はい、承知しました。ありがとうございます」
お嬢様が帰って行くのを見送り、私は長い棒を探して走りまわった。あんな高い所までは、とても登れない。けれど、船頭に借りた竿でつついても、うまくはずれなかった。
そうこうしているうちに、カラスがやってきて、帽子をつつきだした。キラキラとした飾りに目を付けたのだろう。くわえて持ち去ろうとするのを、私はとっさに石を拾って投げつけた。カラスに当たりはしなかったけれど、薄布が枝に引っかかってはずれなくなり、もういくつか石を投げつけているうちに、カラスはあきらめて飛び去って行った。
見れば、飛び上がれば手の届く場所に、帽子がぶらさがっていた。私は身をかがめてから精一杯跳ね、帽子の端を掴んで優しくはずすつもりが、そんな余裕もなくすぐに落下しはじめて、薄布をビリビリと引き裂いてしまいながら、地面に足を着いたのだった。
息の止まりそうな思いで、だいなしになってしまった帽子を見た。おろしたばかりの、お嬢様のお気に入りだ。お嬢様は怒り狂って、ひざまずいて許しを請うても、きっと気が狂ったように私を蹴り続けるだろう。
……だからといって、他に行くあてはない。私は旦那様の持ち物の一つだから。それで家族は飢え死にせずにすんだ。私は払われたお金の分、働かなければならない。そうしないと、他の家族が利子を付けて返さないとならなくなる。
『おまえを殺さないのは、払った金の分、まだ働いてもらってないからだ。おまえが逃げたら、おまえの家族の誰かに、利子をつけて返してもらうぞ』
何年も前のことなのに、家令の声とまなざしが脳裏によみがえって、体がすくんだ。
父さん、母さん、兄さん二人は、大事な働き手だ。弟妹はまだ幼かった。だからこそ私が売られた。
父さんは、私を送り出すとき、しっかり働いてしっかり食べさせてもらえ、と言った。なのに、仕事が辛くて、家が恋しくて、逃げ出してしまった。でも、中に入れてと叩いた扉はけっして開けてもらえず、中から押し殺した泣き声が聞こえてきた。それで、それ以上扉を叩けなくなった。ただ家の前につっ立っているところを下男達に見つけられ、連れ戻された。そうして家令から散々殴られて、のろまな私は、ようやく自分に課せられたものを理解したのだった。
……きっと、一生、ここで働かされ続ける。
そんな考えが浮かび上がり、私は強く何度も横に首を振った。
「いつか、帰るの。家族と、暮らすの」
四度、ここで冬を越した。弟や妹はどのくらい大きくなっただろうか。兄さん達はお嫁さんをもらっただろうか。父さんや母さんは元気だろうか……。皆で囲んだ炉端が思い浮かんだ。
私はぶるりと震えて我に返った。あたりはいつのまにか暗くなって、冷たい風が吹いていた。これ以上ここに居られない。……中に入らなければならない。私はのろのろと通用口の扉を開けた。
梁をくぐってすぐ、ぎょっとして立ち止まった。侍女頭と下男二人と護衛が三人、立っていたのだ。松明を持っており、これから出かけるところのようだった。
「アニャン、おまえ、今まで何してたんだい!」
侍女頭に怒鳴りつけられ、私は即座に体を半分に折って頭を下げた。
「もうしわけありません! お嬢様の帽子が、なかなか取れなくて……。それで、あの、うまく取れなくて……」
顔を上げずに、帽子だけ差し出す。怖くて、とても侍女頭の顔が見られない。帽子が引き取られていき空いた手を、かたく自分の体に巻き付けた。拳や蹴りが飛んでくるのに備えて、じっと待つ。
「まあ、いい、帰ってきたなら。これからおまえを探しに行くところだったんだよ。……外はこの頃、山犬がうろうろしているからね」
まさか、私が危ないから、探しに出ようとしてくれたの?
びっくりして顔を上げたら、侍女頭に腕を引っ掴まれた。指がくいこんで痛かったけれど、そんなことは言えない。ひっぱられて、歩きはじめる。
「おまえ、ずいぶん汗臭いよ。今日は旦那様が、新しい衣を屋敷の皆にくださったんだ。ほかの者は、湯をいただいて新しい衣に袖を通した。あとはおまえだけだから、このまま湯屋へお行き。衣は後から私が持って行ってやろう」
「あ、ありがとう、ございます」
驚きすぎてつかえながら、礼を言った。いつもなら、井戸の水でもかぶっておきな、と言われるところなのに。
「旦那様が石鹼をくださったから、それを使って、しっかり綺麗にするんだよ。おまえの頭、べたべたでひどい臭いだ」
頬が熱くなった。最近は日が延びてきて、朝早くから夕方遅くまで走りまわり、汗だくになる上に疲れて、そのまま意識を失うように寝てしまうことも多かったから。
いつも、私が湯屋を使えるのは一番最後で、だいたい桶ですくえないほどの湯しか残されていないものなのに、湯船を覗くと、まだ半分以上お湯が残っていた。
「あ、あの、私、後でけっこうです」
先に入ったら、生意気だと、また暴力を振るわれる。
「おまえで最後だと言っただろう。今日は特別だから、たっぷり湯を沸かしたのさ」
「そうなんですか……」
「よく綺麗にしないと、新しい衣がすぐ汚れちまうよ。衣を持ってきたら、きちんと綺麗にしたか見せてもらうからね」
侍女頭はそう言いおいて、湯屋から出て行った。
私は大急ぎで頭から洗った。すごく急いだつもりだったのだけど、まだすべてが終わらないうちに侍女頭が戻ってきてしまった。不機嫌にずかずか入ってくる。
「ヘチマをお寄こし」
手からひったくられたと思ったら、ごしごしと背中をこすられだした。悲鳴をあげそうになって、ぐっと奥歯を噛みしめた。皮が剥けてしまっているかもしれない。痛くてたまらない。滲んだ涙は、幸いなことに、流すお湯と一緒に流れていった。
「まあ、いいだろう。上がりな」
まっさらな衣は垢じみてなく、パリッとしていて気持ちよかった。肌も、ヒリヒリはしても、ズキズキはしていない。どうやら手加減はしてくれていたようだった。
盆に載せられ、白い粥と酒の入った大きな杯も用意してあった。
「さあ、早く食っちまっておくれ。旦那様に、今日は屋敷中の者に、衣と飯と酒をやるようにと言いつかっているんだ」
何か良いことがあったのだろう。旦那様は時々、使っている者に「お裾分け」を施される。人が抱えられる福の量は決まっていて、それがいっぱいになっていると、次の福がやってきても、転がり込む場所がないのだそうだ。そこで、良いことのお裾分けをして、福を減らしておくのだという。
早くしないかとばかりに、ぐいと大きな杯をつきつけられ、しかたなく酒に口をつけた。臭くて苦くて辛くて、本当は嫌いだ。味わわないように、ごくごくといっぺんに喉に流し込み、飲み込んでしまってから後悔した。かっと焼かれたみたいに喉からお腹が熱くなったのだ。
「粥もお食べ」
侍女頭が声をやわらげて、椀を渡してくれた。白米と肉がたっぷり入った粥は、上品な味でとても美味しかった。一口食べたらやめられず、ぺろりと平らげてしまった。
「ごちそうさまでした。お待たせして申し訳ありませんでした」
頭を下げる。すると、ぐらんと視界が揺れた。なんとか踏みとどまり、体を起こしたが、頭の中がふわふわとして、ゆらゆらと体が揺れそうになる。
「器を片付けてきます」
酔ったのを悟られないように、そそくさと器を手に取ろうと屈んだ。すると、ゆらりと大きく世界がまわって、床が近付いてきた。ゴトンと大きな音がする。
「おや、まあ、よく効く薬だこと」
侍女頭が何か言っていたけれど、よく聞き取れず、何を言っているのかもわからない。すぐに聞き返さなければと思うのに、なぜか声がうまく出せなくて、なぜだろうと思っているうちに、ふっと何もわからなくなってしまったのだった。