悩み
何度か修正しています。最新更新日2020.04.07
第8章 黒猫ペル
ドアノブを持つ右手が異様に重い。本能的にこの扉を開くことを拒絶しているようだ。
「はぁ~」
ひとまずドアノブから手を離し、ため息をつく。
ふと横に目を向けると、『Witch's Cafe』と書かれた看板が目に入る。
「ニャー」
背後からそんな声が聞こえ、ギョッとして振り向くと黒猫がちょこんと座っていた。
「おまえ…」
見覚えがある。それもそうだ。最初にこの店を訪ねた時、こいつに噛まれた記憶はまだ新しい。
「おまえ…」
先程と同じセリフだが、確かにこめられた殺気に向こうも気づいたらしく、背筋を緊張させた。ゆっくり後ずさりしていくが、そちらには閉ざされた門がある。いくら猫に跳躍力あるといっても、ここからなら必中距離だ。飛び上がったところを狙ってやる。
「さぁ、この前のお礼をたっぷりしてやる」
こちらも足を曲げ、踏み込む準備をする。
「にゃ、ニャー」
追い詰められた黒猫が、情けない鳴き声をあげる。
少しの間の直後。
「うりゃっ」
力強く踏み切った右足が地面と擦れて火花を散らす。
まっすぐ伸ばした手が猫に急接近する………はずだった。
不意に右斜め後方から衝撃に襲われた。進行方向を左へそらされ、門の横に伸びた石塀に激突する。
「ペル、ここにいたの?」
扉を勢いよく開けた張本人が飼い猫を見つけて、そんなことを言う。
「ニャー」
ペルと呼ばれた黒猫は満足そうに鳴いた。
第9章 バイト
昨日のことである。魔女に素直な悩みを述べ、怒られた俺は、魔女にこんな提案をされた。
「では、うちで働きますか?」
「………いや、なんでそうなるんですか」
「人手不足なんですよ、そろそろうちを一般の方にも解放しようと思っているので……」
そこまで言って魔女は、テーブル横の窓枠で丸まっている黒猫を見た。
「この子のお世話もお願いしたいし…」
「それは絶対に遠慮します」
何となく、黒猫も嫌そうな顔をしたのは気のせいだろう。
「そんなに悪い話ではないと思いますけど? あなたの金欠問題も解決しますし…」
「……………………」
もちろん、普通なら喜んでバイトを受けるはずである。しかし、残念ながらここは普通の喫茶店ではなく、ましてや魔女がオーナーである。そう簡単に首を縦には振れない。
すると、こちらの沈黙を肯定と受け取ったのか魔女は話を進めた。
「では、まずは自己紹介といきますか。私はアリア、ここのオーナー兼魔女です。よろしく」
どうやら、最初から俺に拒否権はなかったらしい。
「榎坂蓮です。よろしくです」
「早速だけど、バイトの経験は?」
「ありますよ、配達とファミレスのキッチンやってました。」
「接客ははじめて?」
「まぁ、そうなりますね。あまり自信ないです…」
「うーん、まぁ、何とかなるでしょ…」
アリアと名乗った少女は椅子から立ち上がりながら、そんなことを言った。
「…………」
対して、黙り込む俺。
「どうかした?」
その様子を見て、アリアは俺に問いかけた。
やはり、聞いておくべきなのではないだろうか…
「あの、どうして俺なんですか?別にバイトを雇うだけだったら、もっと接客経験のあるやつとかに頼んだ方が…」
「バイトを雇うだけじゃないからよ」
少女は、話を遮るように答えた。
「だけじゃない、とは?」
今度は、向こうが黙り込む番だった。
アリアは、しばらくしてこう言った。
「だって、あなた…本当に悩みが無いわけではないんでしょ?」
第10章 バイト初日
昼下がり、『Witch's Cafe』のカウンターで俺は考えていた。
「なんでこうなったんだ…」
具体的に言うと、なんでここでバイトをしているのだろうという問である。昨日魔女に出会って、雇われて…
「今喫茶店で皿洗いをしてる訳なんだが…」
一度手を止め、蛇口を閉める。勢いを失った流水が、水滴となってシンクに溜まる。
「なんでこうなった?」
電車を乗り過ごしたから 否
充分な睡眠を取っていなかったから 否
この店に入るという選択をしたから……たぶん否
悩みを抱えているから…
「いや、それも違うか…」
そう、悩んでない。
「でも…ここに来たことを考えるなら、」
悩んでいるのかもしれない…
「考え事?手が止まっていますよ」
気がつくと目の前に先程の"どうしてこうなった?"の元凶がいた。
「いえ、別に」
「間違いなく、今何か考えていたように見えたけど?」
俺の事を怪訝そうな目で見た彼女は、昨日と変わらず、とんがり帽子とローブに身を包んでいる。
「まぁ、いいわ。それより準備して、そろそろお客さん来るから…」
「どうしてわかるんですか?」
俺がそう言うのと同時に店の扉かカラカラと音を立てて開いた。
すると、扉の中から一人の男性が入ってきた。
その男性は酷く落ち込んでいた。
歳は20代前半、整ったスーツとカバンから真面目な性格なのが伝わってくる。
おそらく、会社で何かあったのだろう。俺は勝手にんなことを思った。
男性は、店の奥にある暖炉を少し見つめたが、結局一番近い席を選んだ。椅子にかけると窓の外を眺め始めた。しかし、その目は何かを捉えている訳ではない。ただひたすら、遠くに据えられている。
相当やられてるな………
「あれはそう簡単に立ち直れないんじゃないんですか?」
俺はアリアに尋ねた。
「それを何とかするのが、私の役割よ」
そう言いながら男性に歩み寄って行った。
「ご注文はお決まりですか?」
男性はアリアを見ると、驚きながらも不思議そうな顔をした。それもそうだ。だって、目の前に魔女がいるのだから…
正直、男性がどんな反応をするのか楽しみだった。しかし、俺の期待とは裏腹に男性は冷静だった。
「そうか、今日はハローウィンだったか」
えっ……
俺はその言葉を理解するのにしばらくかかった。
そっか、昨日のテスト最終日は10月30日はハローウィン前日だった。
どうやら、アリアの姿は仮装と捉えられたらしい。
男性はアリアの不思議な姿を見て少し怪訝そうな顔をしながらも、ブラックコーヒーを注文した。
「お待たせしました」
アリアはコーヒーを男性の前に置いて、こう言った。
「何かあったんですか? 随分と落ち込んでらしゃいますけど…」
「えっ、あ、いや…」
まさか、喫茶店で自分の悩みを聞かれるとは思ってなかったらしく、男性は動揺した。
「いや、他人に言うことではないので」
「これは自分の問題だから…ですか?」
「えぇ、まぁ…」
「そんなふうに心を塞いでいると、向こうも振り向いてくれませんよ…」
アリアは真剣な眼差しを男性に向けた。その銀色の瞳に宿る光は、男性の何かを見抜いたようだった。
「なんで……」
男性は単純に驚いた。どうやら魔女の予想は当たったらしい。
「また来ます」
男性は吹っ切れた様子で店を出ていった。
「お待ちしています」
アリアは笑顔で客を見送った。
男性は会社の上司である一人の女性に恋をしたそうだ。が、最近その上司の婚約が決まったらしい。
「これからどうするんでしょうね、あの人」
「さぁ、それは彼次第よ…でもそれなりのとこに落ち着くんじゃない?」
「だといいですね」
不思議なことに、この時俺は、清々しい気分だった。
第11章 帰宅
「ただいまー」
返事はない。
玄関を上がってリビングに入ると、食卓に一枚の紙が置いてあった。
「今日は遅くなりそうです。冷蔵庫に入ってるものを適当にどうぞ。詩音に早く寝るように言っておいてー 母より」
今日も兄妹だけの夕飯になりそうだ。バイトのことをきちんと話しておこうと思ったのだか、明日になりそうだ。
そんなことを考えていると、玄関から知っている声がとんできた。
「ただいまー、あれ?お兄ちゃん今帰ったとこ?」
そこには、妹の詩音が立っていた。同じ長さに切りそろえた黒い前髪、そして勝気な両眼は完全なる母親譲りである。
「ちょっとな…そっちは部活?」
「そうだよ、ねぇ聞いて、レギュラー取ってきたよ!」
「ほんと?凄いじゃん」
「リベロ貰ってきた!」
「あぁ、あのネット際の真ん中に居るやつか」
「お兄ちゃん…それセッター…」
バレーボールはあまり詳しくない。
「そろそろ覚えようよ、何度か試合見に来てるんだから」
そう言いながら、詩音は肩にかけていたスポーツバッグを食卓の椅子に置き、母の残したメモを手に取った。
「お母さん、今日も遅くなるんだ」
「みたいだな、飯の準備始めるか」
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
「てか、なんで今日はお兄ちゃんも遅かったの?」
詩音が壁の時計を見ながら言う。時刻は午後8時をまわったところである。
「まぁ、ちょっとな…」
俺は先程と同様に誤魔化した。バイトのことを悟られるのはいささか面倒だ。魔女に雇われたなんて、どう説明すればいいのやら…
「もしかして、お兄ちゃん…バイトでも始めた?」
もしかして、女の子というものはみんな見抜く力が高いのだろうか。
「…………」
俺は固まることしか出来なかった。
「お兄ちゃん」
「はい…」
「私、レギュラーに選ばれたんだよねー」
「へ、へー、凄いじゃないかー」
この話、落ちが読めた。
「最近すごく頑張ってるんだよねー、私」
「あぁ、うん、この調子で頑張ればいいんじゃないかな、うん…」
「うん、だから今後より良いプレーをするために……新しいシューズが欲しいなー」
やはり、そう来たか。
「まぁ、学業の方も良かったらな。詩音も昨日まで、テストだったろ?点数しだいかなー」
俺は何とか乗り切ったと思った。
「ほんと?やった!今回手応えよかったんだ、上から10位には間違いなく入ったよ!」
この中学二年生の妹は学業も出来るのを忘れていた。
「ふぅー」
浴槽の中で満足な息を漏らす。
昨日、そして今日とよくわからないものに振り回されている気分だ。
あのバイトには、やはり違和感を覚える。
でも、こんな俺でも誰かの悩みを解決することを手助け出来ている。そのことが純粋に嬉しかった。
案外アリなのかもしれない。それに……
「言ったからには買ってやらないとなー、シューズ…」
買うからにはそこそこいいものを買ってあげたい。
「頑張りますか…」
俺は風呂の水面に映る俺に向かって言った。
そういえば、あれはどうゆう意味だったのだろうか。
昨日バイトの話が決まった後、アリアが俺に向けて言った…あの言葉
俺は湯けむりの中で昨日の出来事を回想した。
「だって、あなた…本当に悩みが無いわけじゃないんでしょ?」
俺は、魔女に尋ねた。
「なぜ、そう思うんですか?」
魔女は紅茶に移る自分の顔を見つめながら、こう言った。
「だって、あなた……」
アリアはどこか悲しげに続けた。
「私と同じ目をしてるもの…」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。