囚われる子
ウルフは波打つ海をたゆたっている。油断したら、ピノキオのように、大きなクジラにひとのみにされてしまいそうだ。
本能は睡魔に屈服していたが、理性はしっかり生きていた。コントロールのきかない操縦桿を握って、荒海を航海している気分だ。手足がばらばらに足掻く。首を捻ると淡い金髪が滝のように流れた。アレックスの髪だと、ウルフは思った。
「ア、アレ、アレックスの、かみ、髪だ」
考えた通りに唇が動いた。藁を掴む思いで一房の髪をつかむ。けれど、握りしめる力は無くて、金色の髪はさらさらと、夢か幻のように、指の間をすり抜けてしまう。繊細な感触が、滑らかに掌、指の腹を滑る。長い髪だ。アレックスの髪ではない。ウルフの顔を覗き込んでいる、アレックスと同じ顔をもつ人物は、闇にとけこむ黒衣に身を包んだ少女だった。背に流した長い金髪は豊かな輝きを誇り、青い宝石の瞳を潤んでいる。震える長い睫が落とす影さえ繊細で、可憐だ。アレックスではない。そっくりだけれど別人だ。アレックスは、あの超然とした不思議な少年は、子兎のように怯えはしないだろう。
ウルフは黒衣の少女を見上げた。ぼんやり霞みがかる頭ではろくに思考出来ず、口は思ったことを勝手に喋った。
「きれい、だなぁ」
黒衣の少女の目が大きく見開かれる。涙の雫がウルフの頬におちて砕ける。その熱さにうろたえて、ウルフは反射的に言った。
「どうして、泣いているの? 悲しいの? 辛いの? 僕でよければ、話を聞くよ。もやもやした気持ちを吐き出したら、少しは楽になれる……かもしれない」
黒衣の少女はまだ青い薔薇の蕾のように、唇を噤んでいる。沈黙したまま、ウルフを凝視している。ウルフは、自分が貰った言葉の中で、最も嬉しかった言葉を黒衣の少女に贈ったのだけれど、少女は静かに紅涙を流すばかりだ。ウルフは下唇を噛んで、唸った。
ウルフが物心ついて間もない頃のこと。女の子を泣かせてしまったとき、珍しく、ジャックにガツンと叱られた。理由はどうあれ、女の子を泣かせてはいけない、と告げるジャックは、厳しい瞳でウルフを見据えていた。よく覚えている。と言うのも、その後間もなく、ジャックに解雇された男好きのシッターが家に押しかけて来たのだ。シッターは、厚化粧を涙でぐちゃぐちゃにとかした顔を引き攣らせ、ジャックに縋りついて泣き喚いていた。ジャックは優しく女を宥めたけれど、己の決断を撤回しようとはしなかった。ジャックがフェミニストであることより、父親であることを優先したのは、ウルフが知る限り、後にも先にもその一度きり。
そのときの、ジャックの言葉が、ウルフの唇をついて飛び出していた。
「泣かないで。笑って。綺麗な女の子が笑っていてくれたら、僕らはハッピーになれるんだ」
ジャックのこの言葉を聞いたとき、そんな化け物みたいな顔の女が綺麗なもんか。と、ウルフは内心で毒づいたものだったけれど、あのシッターとは違って、目の前の少女は綺麗だ。泣き顔でさえこんなに綺麗なのだから、笑顔は輝くようだろう。アレックスがサムに向ける笑顔は、奇跡のように素晴らしかった。
「ねぇ、笑ってよ。僕に、君の笑顔を見せて。僕は……アレックス。君が大好きなんだ」
ウルフは夢見心地で、仄かな想いを吐露していた。
「だいすき? ……わたし『悪い子』なのに……」
黒衣の少女の薄紅色の口唇にふさわしい、可憐な声が震える言葉を紡ぎだす。ウルフが漫然と首を巡らせると、少女は弾かれたように後退りをする。少女の首に嵌められた、黒い首輪に繋がれた鎖がじゃらじゃらとざわめいた。ウルフは顔を顰める。黒衣の少女は鎖に繋がれている。いったい、どうして? ウルフが疑問を驚愕と義憤に昇華させられないうちに、耳によく馴染む美声が聞こえた。
「犬は口をきかない」
重く軋む扉が開かれる音に続いて、高い打音が虚ろな空間に反響する。
「悪い子。サムはさっさと、お前の中身を取り出して、猟犬にくれてやるべき。お前なんか、ただの入れ物なんだから」
少女の弱弱しい悲鳴を掻き消す傲然とした足音が近寄ってくる。足音の主はウルフの傍らに跪き、彫り刻まれた笑みをウルフの耳元に寄せて囁いた。
「おはよう、ウルフ」
「ア……アレックス……?」
ウルフは倦怠感に絡め取られる体を叱咤して、声のする方へ……アレックスがいる方へ、手を伸ばす。アレックスは汚らしい野良犬に纏わりつかれたように、ウルフの手をすげなく叩き落とした。ウルフの背後に回り込むと、両脇に腕を差し入れ、ウルフの体を引き摺り、さしたる苦労も感じさせず引っ張り上げ、放りだした。ウルフの背は柔らかいものにすっぽりと抱え込まれたている。ひんやりとしたレザーの質感からして、ソファーの座面に放り出されたらしい。
ウルフは身を起こそうとして肘を曲げる。手足が次第に宙へ浮かんで行くようで、身動きが出来ない。
「良い子にして」
アレックスはウルフを冷眼で見おろしている。吐き捨てるように、アレックスは言い放った。
「サムの大切なお客様のお越しだ」
その声も、その顔も、まぎれもなくアレックスのものだった。けれど、ウルフには別人のものとしか思えない。無関心を装った表情、声調には、怨みすら込められているように思われる。そんな、恐ろしい負の感情を向けられる謂われはない筈だ。
それきり、アレックスは沈黙する。黒衣の少女は気配を殺しているのだろうか。ウルフは自身の喘鳴だけを聞きながら、荒海に翻弄される船のようにぐらぐら揺れる身体を支えようと、懸命にソファーにはり付いていなければならなかった。
しばらくしてから、ノッカーがドアを連打する。力強く何度も何度も、ドアを叩き破ろうとするかのように乱暴に。
「来たか」
すぐ傍で発せられた、低く豊かな声が、喜色をのせて弾んだ。ウルフの頭の隣には、サムが腰掛けていたようだ。目を凝らせば、ペーパーナイフで封筒の封を切って、手紙を読んでいた。手紙とペーパーナイフをローテーブルに置くと、サムはウルフの頭を撫でて、莞爾と微笑んだ。
「待っておいで。ジャックを連れて来てあげよう」
サムは猫のように音も無く立ちあがった。解錠する音に続いて、男が礼も言わずに室内になだれ込ん出来た。揉み合う擦過音がする。
「息子は何処にいる、無事なんだろうな」
「もちろん。私の技術は君にも見せてあげただろう? よくご覧。傷ひとつついていない。少なくとも表面には」
サムが悪戯っぽく微笑むと、ジャックが息をのむ。しばらくの間、ジャックの様子を観察してから、サムは吹き出した。
「中身も無事だよ。今のところは。今後どうなるかは、君次第だがね」
サムが冷淡に告げると、男はぐっと喉に言葉を詰まらせた。サムは親しげに男に提案する。
「ウルフはこの部屋にいるよ。中で話そう。さあ、入って」
男の声には聞き覚えがあった。殆どの場合、受話器越しに聞いていたなじみ深い声だ。
定点カメラのように固定されたウルフの視界に、二人の男がうつりこむ。
したり顔のサムに引率されているうしろの男は、手負いの獣のように警戒心と敵意をむき出しにしている。身体の内側から適切な筋肉が健康的に盛り上げるハリのある皮膚が、別人のように青ざめている。瞳の奥の底抜けに陽気な珊瑚礁の海は氷河のように冷え切っている。けれど、その男は間違いようも無くジャックだった。
「と、とうさ、父さん」
炭酸が抜けたような声が唇から漏れだす。ジャックはいち早くウルフを見つけて、はっと目を見開いた。その双眸に、喜びとも怒りともつかない複雑な感情が旋毛風のように駆け抜ける。矢も盾もたまらず、駆け寄ろうとするジャックの腕を、サムが掴み引き止めた。
ジャックの怒りが燃え盛った。肘を曲げ、腰を捻り勢いをつけた右手の拳をサムの左頬に叩きこむ。形あるものが拉げる耳を覆いたくなるような音がして、サムの顔ががくんと逸れた。足元がふらついている。
力が失せた手を引き剥がし、ジャックはウルフに駆け寄ろうとした。しかし、ゾンビに足首を掴まれたみたいに、驚愕と恐怖にまみれた表情で固まる。ジャックはウルフを凝視したまま、立ち竦んでいる。
ウルフは、自分がゾンビにでもなってしまったのかと危惧した。さっきから思うように体が動かないのも、ジャックが竦み上がるのも、それが原因なのではないかと思ったのだ。
事実は違った。ウルフの喉笛に冷たく鋭い刃先が食いこんでいる。振り返ることは出来ない。本物の狼のように、頸を曲げることが出来ない。狼が全身を回さないと後ろを見る事が出来ないのは、悪魔がいかなる善行に対しても振りかえることが出来ない事を意味していると言う説教を、教会のレイチェルから聞いたことを思い出した。
振りかえることができなくても、自分の命を盾にとっているのが誰なのかは想像がつく。ひとりしかいない。アレックスだ。青い篝火がその眼窩に燃えていることだろう。ジャックは痙攣する頬をゆるめた。
「ちょっと待って、待って、待ってくれ」
ジャックは、やっと言った。ジャックらしくない卑屈な笑みが顔に張り付いている。
「俺が悪かった。いきなり乱暴したりして、悪かった。謝るよ、すまない。混乱しているんだ。仕方がないじゃないか、俺は……息子を浚われたんだぞ!」
ジャックは激昂した。クールであることにこだわる平静の自分を忘れてしまったジャックは、長い腕を振りまわしながら喚き散らす。
「俺の息子から物騒なものを遠ざけろ! ウルフを返せ! 今すぐに! でないと、良いか、お前の細い首を引っこ抜いてやる! お前には渡さない、俺の息子に触るな!」
ウルフは我武者羅に叫ぶジャックをまんじりと見詰めていた。まるでスクリーンを通してみているかのように、現実感に乏しい光景だった。
川を遡及する銀影のように煌めく刃先はぴくりとも揺るがない。ウルフの喉笛を掻き斬る準備は万端だ。
哀願しても威圧しても効き目がないことを理解したジャックは、異なる戦法で攻勢をかけた。
「なぁ、君も何処からか浚われて来たんじゃないのか。ひどい目に合わされているんだろう。俺がここから連れ出してあげるよ。頭の中身は、まだ無事なんだろう? ご両親を探して引き合わせてあげるとも。君がウルフを返してくれれば」
ジャックはウソ臭い憐憫を頭から被ってアレックスに歩み寄ろうとした。アレックスの手が一閃し、ウルフの喉笛に焼けるような痛みがはしる。首筋を伝う熱い滴りが、ジャックの踏み出した一歩を牽制した。ジャックは喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げた。
「バカ……よせ!」
「バカは君だ」
蜃気楼のようにゆらりと揺れて、サムは体制を立て直す。弾かれたように振り返ったジャックに見せつけるように、親指で切れた唇の端から血を拭う。さながら、血に餓えた哀れなる伯爵のように。
「君が懸命なら、あの子はウルフを傷つけることはしなかった。君の軽挙妄動がウルフに跳ねかえる。君次第だと言うのは、そういうことだよ」
ジャックは打ちひしがれた顔をしてウルフを見ていた。やがて、諦めたように視線を逸らす。
「黒い仔山羊の森には近寄るなって、あれだけ言ったのに。俺だけじゃない。お袋だって……俺の話を信じちゃくれなかったが、そう言った筈だ。どうして言いつけを守らなかった」
ウルフはブラックジャックでがつんと殴られたようなショックを受けた。父を失望させてしまった。見捨てられるかもしれない。サムとアレックスに何をされるより、ジャックに見捨てられる恐怖にウルフはおののいた。