サムみたいだったら
ウルフは混乱していた。眼球は眼窩でぐりぐりと動くけれど、網膜に結んだ像を脳につたえない。アレックスは仔犬のようにウルフの耳朶を悪戯に擽った。胸板を撫で回す手が臍までおりて、きわどいところを掠める。ウルフはぎゃっとおめいて、アレックスを突き飛ばした。
ウルフは前屈みになって、胸を強くおさえた。そうでもしなければ、弾けとんでしまいそうだったのだ。訳もわからず、半べそをかいて睨み付けると、尻餅をついたアレックスは、きょとんとして子首をかしげた。
「どうかした」
「なんだって!?」
ウルフは思わず怒鳴ってしまったが、無理もないだろう。手の甲で唇をこする。唇に触れた柔らかい感触が生々しい。頬が熱せられたようにかっと燃えている。
「どうかしてるのは、君だよ、アレックス!」
「アレックスはどうもしない」
「だったらどうして……いきなり……その……」
キス、という単語を口にするのが妙に気恥ずかしくて、ウルフは言葉を濁してしまう。
アレックスはやおら腰をあげると、身体の前方に両手をついた。躊躇いなく、犬のように四つん這いになって、ウルフを見上げる。
「ウルフは元気が無い。アレックスがこれをすると、元気になる」
ウルフの脳裏がフラッシュを焚いたように白くなる。セピア色の像を網膜に結んだ。擦りむいた膝に絆創膏を貼り、痛いの痛いの飛んで行け、とおまじないをかけた、ほとんど記憶にない亡き母のほっそりとしたシルエットが一瞬だけ浮かびあがる。
このタイミングで思いだした理由は、つまるところ、アレックスにとってのキスは、母が唱えたおまじないと同列に並べられるものであるらしいからだ。
ウルフの腹の底に氷塊が落ちた。
「アレックスは、ああいうことをいつもしてるのか」
アレックスは小首を傾げる。どうしてそんなことを訊かれるのか、わからないのだろう。キスもボディ・タッチも、歯磨きと同じくらい当り前のことだと、アレックスは捉えている。
ウルフは地べたに寝転び、寝がえりをうってアレックスに背を向けた。ウィルが鼻を鳴らしウルフの体に乗り上げて、頬を鼻先でつついてくるのは、煩わしかった。
ウルフは腹をたてていた。アレックスの唇がウルフはない誰かの唇に重なり、身体をまさぐるのを想像しただけで、地団駄を踏んで叫び出しそうだ。
不思議なことだ。レイチェルの影響を受けて育ったウルフは、幼くして立派なホモ・フォビアなのだが、アレックスの親密な接触を不快に思わなかった。けれど、不快ではない、の正反対にある感覚は、幼いウルフには未知のもので、得体が知れず、とにかく恐ろしかった。
とどのつまり、ウルフはアレックスの無性的な魅力に、すっかり骨抜きにされていた。それを認められないウルフは、低く悪態をつく。
「男がべたべたするのはみっともないと思うよ。女の子じゃあるまいし」
「女の子は、べたべたして良いの」
「男がする程、見苦しくはないね」
「ウルフは女の子が好き」
ウルフはがばりと上体を起こした。アレックスは顎にてをやり、ふむふむ、と何やら納得した様子だ。ウルフは泡を食って抗議した。
「よせよ、人を女好きみたいに言うのは!」
「……でも、ウルフは男の子より女の子が好き」
「そんなこと言ってない!」
「じゃあ、男の子の方が好き」
噛み合わない会話に苛立ちを募らせ、ウルフは頭髪をかきまぜた。
「なんでそうなるんだ!?」
と怒鳴るのに被せて、アレックスは言った。
「サムは男の子が好き。だから、アレックスも男の子が好き。サムの仔犬は男の子。だからアレックスも男の子。アレックスの犬より、アレックスの方がずっと良い子。アレックスは女の子より、男の子が好き」
ウルフはどっち? とアレックスは子首をかしげる。ウルフは頭がこんがらがってしまって、ずきずき痛む頭を抱えた。
「アレックス、君はもう少し、まともなコミュニケーションの方法を学ぶべきだ」
ちぎって投げるように放言すると、何を思ったのか、アレックスは性懲りもなく手を伸ばしてウルフを喚かせた。ウルフはいよいよ臍を曲げた。
アレックスは不貞腐れたウルフをもてあましたらしい。いつもより早く、白い家に引き上げることになった。アレックスのそっけない背中を、ウルフは苦々しく見つめていた。
白い家に到着すると、サムはウルフをリビングのソファーに座らせた。彼はウルフの機嫌がよくないことを悟り、柔らかな笑顔をつくる表情筋を引き締めて、神妙な面持ちになった。
熱々の湯気をたてるココアの上にマシュマロが落とされる。じゅわっと融けだすマシュマロから、香ばしく甘い、魅惑的な香りが立ち昇る。サムはマグカップをウルフに差し出した。
「あついから、気をつけて」
付け加えられる何気ない一言すら、思いやりに満ちている。ココアをすすると、糖分が張り詰めた神経を緩めてくれる。足元で不安そうに見上げていたウィルも次第にリラックスしていく。頃合いを見計らって、サムが口を開いた。
「アレックスと喧嘩したのかな?」
ウルフは低く呻き、ぐずぐずと答弁をおくらせた。喧嘩では無い。ウルフが勝手に気分を害しただけだ。ウルフの態度にアレックスが腹を立てていたなら、喧嘩と言って差し支えがないだろうが、アレックスはただただ当惑するだけだった。
サムはいつも通りに根気よく待っていてくれる。その優しさが偲び無くて、こどもじみた意地を張っているのが憚られた。
「アレックスは悪くない」
ちっとも、と強調すると、サムはウルフの旋毛を覗き込んだ。居心地の悪さにもぞもぞしながら、本当はアレックスも悪い。と心の中で訂正した。アレックスが断りなく、誰にでもキスをするのだって、悪いのだ。だけど、そんなことを父親に告げ口することは憚られる。
胸に悪いもやもやが渦をまいている。気持ちが悪い。どうしたら良いのかわからない。わからないから、やり過ごすしかないだろう。
かたく口をつぐむウルフの頭上に、サムの誠実な声がふってくる。ひとひらの雪のように優しく。
「君さえ良ければ、話してみないか。私は世界一頼り甲斐のある男とは口が裂けても言えないが、君の話しを聞いて、君の心を軽くする手伝いなら出来ると思う」
ウルフはのろのろと顔を上げた。サムの真摯な目に吸い寄せられるかのように彼を見つめ返す。遠慮がちに伸ばされた手に頭を撫でられると、包みこむような優しさが堪らなかった。
こんな気持ちは生まれてはじめてだ。むしゃくしゃしたとき。落ち込んだとき。ウルフはいつだって、一人で理屈をこねて、無理に自分を納得させてきた。助言なんて、求めて得られた試しがない。悩みを相談する相手は、ジャックの他にいなかったけれど、悩みを打ち明けたところで、笑い飛ばされておしまいだ。そんなつまらないこと、気にするほどのことじゃないと、決めつけられて。
それが、父と息子の「当たり前」の関係だった。不満はない。そんなつまらないことを、不満に思うなんて、こどもっぽいから。こどもっぽくて、面倒くさいから。面倒くさいと、嫌な顔をされてしまうから。
だけど、本当は望んでいた。本当は、親身になって欲しかったのだ。だって、今はこんなにも感動して、唇が震えるのだから。
「僕は父さんに見損なわれたくない」
震える唇から、切実な思いが零れた。堰をきって溢れだす。もうとまらなかった。
「だから、こどもっぽい我儘を言いたくないし、甘えたくない。でも、寂しいんだ。父さんに会いたい。僕の話を聞いて欲しい。胸をふさぐもやもやとか、よくわからないこと、教えて欲しい。一緒に考えて、悩んで欲しい。本当は、仕事なんてほったらかして、会いに来て欲しい」
サムの優しい碧眼は海のようにウルフの言葉を飲み込んでいる。涙がこみ上げてきて、ウルフは慌てて目を逸らした。膝に爪を立てて唇をかみしめる。
「父さんがサムみたいだったら、どんなに良かっただろう。それとも僕がサムみたいだったら、父さんは会いに来てくれたのかな」
膝に涙の雫が滴り落ちる。ほとほと情けなくて、惨めで涙がとまらない。ウィルが伸び上がり、前足をウルフの膝にかける。俯く濡れた頬を熱い舌が舐める。泣かないで、と優しい瞳が嘆願している。去年をそのままうつしたかのように同じ状況だ。一年で身長はぐんと伸びたのに、心はちっとも成長していないようだ。
こんなんじゃダメだ。こんなんじゃ、いつまでたっても、ジャックは振り向いてくれない。面倒だと言われて、嫌な顔をされてしまう。
物心ついたばかりの記憶だ。立ち去ろうとするジャックの足に、行かないでと泣きわめいてすがったときのことだ。最初のうちは、なんとか宥めようとしていたジャックだったけれど、ウルフがしつこいから、ついに小さく舌打ちをして、強引にウルフを引き剥がし、レイチェルに押し付けたのだ。あのときの、ジャックの怖い顔と、レイチェルの悲しそうな顔は、今でも鮮明に思い出せる。
ウルフはしゃくりあげて、手の甲で目をごしごしと擦った。赤く擦り切れるのではないかと心配になるくらい擦る。すると、寒い肩が温もりに包まれた。
サムに抱きしめられていた。彼の大きな手がウルフの痩せた体を囲い込み、厚い胸板に押し付ける。ウルフは未知の感覚に戦慄いた。もがこうとすると、強い腕になお強くだき竦められる。
「ジャックは来る」
サムは確言した。ウルフは泣き笑いして、頭を振る。
「嘘だよ」
「私は嘘が嫌いだよ」
「絶対に来ない」
「きっと来る」
「嘘つき!」
ウルフはかっとして、サムの胸に腕をつっぱって突き放した。サムとウルフの体の間に空隙が生じる。それを何かで埋めなければならない気がした。ウルフは焦燥にかられて、喚き立てた。
「父さんはペットを飼えないんだ。ばあさんがそう言ってた。父さんには、自分の他の、生き物の面倒を見ることなんてできない。まして、子供なんか、育てられるわけないって。だから、僕は子供じゃいられないんだ。聞き分けよく、大人にならなきゃ。父さんと一緒にいられなくなっちゃう。父さんは自由じゃなきゃダメなんだ。僕は、父さんの邪魔になりたくない!」
言葉は重ねれば重ねるだけ錘になって、体は深く沈んで行く。底無し沼に引き摺りこまれるように、もがけばもがく程深みに嵌る。
サムはウルフの背から手を引いた。温もりをつっぱねた癖に、消失感に打ちひしがれるウルフに、サムはそっと囁きかけた。
「ジャックは青い鳥だ。空を自由に飛びまわっているとそのまま空にとけていきそうな程に、美しい。なのに、鳥籠に閉じ込めた途端に儚く色褪せる。ジャックは犬とは違う。ずっと一緒にいてはくれない。彼は魅力的な情熱家だが、薄情ですぐに忘れる」
サムが別人のように抑揚のない声調で言う。ウルフは発作的に不安になって、サムを見上げようとした。
そうすると、世界がぐるりと一回転した。五感と一緒に重力が無くなり、身体が浮き上がる。
「ジャックは来る」
サムが歌うように言った。その声は水面を隔てているかのようにくぐもり遠い。
「彼はもう一度、私を訪ねてやって来る。約束は果たされる、君のお陰でね。嗚呼、可愛いウルフ。可愛そうなウルフ……憎らしいウルフ」
肌が粟立つような猫撫で声には、嘲弄の色がありありと浮かんでいる。それがサムの咽頭を震わせ発語されているとは、俄かに信じ難かった。また、沈みゆく意識の船底から、真偽の程を見極めることは困難でもあった。目玉が曇る。すりガラスを通したような視界が白く染まる。ウィルがけたたましく吼えたてているようだった。