良い子? 悪い子?
レイチェルにとって、ウルフの負傷自体は然程、問題ではなかった。怪我に手当が施されていることが重大な問題だった。
レイチェルは目くじらを立てて、ウルフにことの経緯を問い質した。ウルフは逃げたウィルを追いかけている最中に躓き転んで怪我をして、近所の誰それに手当をして貰ったのだと嘘を吐いた。レイチェルは信じなかった。
レイチェルは疑り深い。けれど、レイチェルには疑念を確信に変える術が無いことを、ウルフは知っていた。社交的なつれあいを亡くした厭世的なレイチェルは、世俗との縁も他人への信義もなくした。孤独な世捨て人なのだ。近隣の住人を顧みることも、顧みられることもない。
ウルフは容姿こそ祖父のグルー、及び、ジャックにそっくりだと言われるが、レイチェルの血を別の器にそっくりうつしかえたかのように、内面は祖母にそっくりだ。それは自他共に認める事実である。
ただし、それは昨日までのこと。ウルフは自身の目線より高いところに、胸が弾む世界があることを知った。陰気に俯いて地べたを睨んでいては、気付かない世界があることを知ったのだ。
ウルフはレイチェルの目を盗み、ウィルを連れて、サムとアレックスに会いに行くようになった。
黒い仔山羊の森を、恐ろしく見せていたものは、深い霧ではなく、迷信に惑わされ、恐怖に曇った眼だった。
不吉な静けさの中には、耳を凝らせば些細な喧騒が聞き取れる。湿った土の上には足跡や歯型など、命の躍動の痕跡がそこかしこに散らばっている。魔物の腹の中ではありえない。
ウルフが森の奥へ足を踏み入れる昼下がり。丘の墓地には必ず、アレックスがいる。
アレックスは晴れの日も雨の日も、足を引きずる日も、熱を出した日でさえ、かかさずにやってきた。
「もしかして、僕と会いたくて、待っていてくれるのかな」
なんて、ウルフは自惚れてしまいそうになる。残念ながら、そうではないらしいけれど。
アレックスは、ウルフのことを気まぐれな小鳥のように認識しているようだ。会えなくても困らないけれど、会えたらなんとなく嬉しいと、思ってくれているのではないだろうか。
その日も、重く垂れ込める曇天は、地上をうつした鏡のようだった。バイユーのかわらぬ空である。
アレックスは丘の墓地にいた。麓にある卵のような墓石の前で足を前方に投げ出し、ぼうっと空を眺めていた。
ウルフが隣に並ぶと、アレックスはたいていの場合、ふわりと羽毛が舞い降りるような微笑を浮かべる。それがアレックスの挨拶だ。あとは、焦点の曖昧な瞳を、蝶のように宙に遊ばせる。時々思い出したように、傍らでふせるウィルのふわふわの毛並みを撫でるけれど、能動的な遊びというものをしない。ウィルとフリスビーで遊ぶとか、ボールで隠し当てをして遊ぶとか、かけっこするとか、能動的な遊戯に、関心が薄い。
「アレックスは犬を飼っているんだろう。その犬とはどうやって遊ぶんだい」
ウルフが不思議に思って問いかけても、アレックスは輪をかけて不思議な問いを投げかけられたような顔で右に小首をかしげる。
「サムの猟犬は狂暴で、危ないから、遊ばないよ。一緒にいたら、鼻が曲がるし。それに、サムは悪い子にお仕置きするとき、猟犬を呼ぶ。猟犬は悪い子を襲うよ」
「そ、そんなに狂暴で危ないの? しかも、臭いんだ……えっと、その猟犬は、つまり……人を襲う?」
「サムの猟犬は、悪い子を襲うよ」
「えぇ……なんだよ、それ。魔犬みたいだな」
「怖いの、ウルフ」
「怖くなんかないさ! だけど……犬が人を襲うなんて、とんでもないことじゃないか」
「悪い子だから、襲われる。前の犬は悪い子だった。アレックスは良い子だから、サムはアレックスを、猟犬のところへはやらない。ウルフは良い子? 悪い子?」
ウルフは思いっきり顔をしかめた。レイチェルが反抗的な幼いウルフをつかまえては、こうして脅していたと思い出す。
『お前は悪い子だ。ジャックと同じだ。大人の言うことをきかない悪い子は、魔犬に連れて行かせてしまうよ』
どんな子供でも、多かれ少なかれ悪戯をして、大人の手を焼かせるものだろう。そして、両親は作り話で怖がらせて、悪戯っ子をしつけるだろう。
息子の躾を年老いた母に丸投げして、世話は愚か、放っておいたジャックは、ウルフを良い子だと褒めたことも、悪い子だと叱ったこともない。
「どうだろう……良い子とは言えないかもね。まぁ、それを言うなら、僕の父さんだって、あまり良い父親とは言えないだろうけど。君の父さんとは違うんだよ」
アレックスはぱちくりと目を瞬かせた。ウィルのたち耳の裏を掻いてやりながら左に小首を傾げて「トウサン」と呟く。舌に馴染まない言葉を転がしている感じがした。
「ウルフのトウサンは、悪い子。だから、ウルフも悪い子? それなのに、サムに好かれている」
ウルフは目玉を重く押し込めるような疲れを感じた。目頭を揉み解しながら、言う。
「こんな話は楽しくない。もっと、楽しい話をしよう」
アレックスは首を傾げたっきり、黙り込んでしまう。ウルフもまた黙り込むと、丘の墓場はかくれんぼをしているみたいに息を潜めた。ウィルの息遣いと、高らかな鳥の囀り、ひそやかな葉鳴りだけが聞こえる。
アレックスはウィルの長い毛を縒っている。しばらく経ってから、おもむろに言った。
「アレックスは、サムとぴったりくっついていると、楽しい」
「ぴったりくっついて? それだけ? それって、楽しいの?」
「うん。サムはとても優しいから、とても楽しい。とてもうれしい。幸せ。アレックスはサムに選ばれた。いつか、サムと一つになれる。アレックスはサムになって、永遠になる」
奇妙なことを口走るアレックスの横顔に光がさした。月のように白く輝かしい。金糸の髪は月がとけて滴る雫のようにさらさらと頬を滑り、大きな青い瞳は、月相が欠けるように細くなる。薄い唇はほんのりと甘い蜜を含みほころんだ。
「アレックスはサムがすき。サムが喜んでくれるなら、なんだってしてあげたい」
奇跡のような笑顔を見ていると、ウルフの心臓は胸を突き破らんばかりに跳ね回った。ときめきのようなものを、ウルフの乾いた心に芽吹かせる魔力めいた魅力を、アレックスは放っている。
ウルフはわざと厳めしい顔をして俯く事で、紅潮した頬をごまかした。
たいていの場合は、初対面の印象が鮮烈であっても、次第に色褪せて行くものだ。美しい人間でも、美しい犬でも、美しい景色でも。
しかし、アレックスは例外だ。別格だ。アレックスは会えば会う程謎めいていく。アレックスの瞳はどこまでも透き通り、見つめ合うと禁忌を犯す背徳感に襲われ、脳が痺れる。アレックスが微笑むと、風が清々しく緑の匂いが洋洋とした。
アレックスは特別な存在だ。人形のようなアレックスに命を吹き込むことの出来る唯一の人間であるサムもまた、特別な存在だということに、疑う余地はない。
ウルフが墓地にやってきて一時間もたつと、アレックスはウルフを白い家に招いた。
「サムが待ってる」
その言葉に偽りは無く、サムは一陣の南風のような爽笑と共にウルフを迎え入れてくれた。
白い家に帰宅するとアレックスは決まって自室にひきとった。引き止める言葉がまるで聞こえないかのように、涼しい顔で去ってしまう。
サムは素晴らしいティータイムを用意してくれていた。果肉がごろごろ残ったラズベリーのジャムと生クリームをたっぷりかけた香ばしいスコーン。それをペレーネブルーの茶器にサーブしたダージリンの紅茶とともに頂く。贅沢な時間は、ウルフの当惑を鎮めてくれた。ジャムはレイチェルがつくるものとそっくりで、懐かしく落ちついた気持ちになる。
「約束を守ってくれて、ありがとう」
ティータイムを満喫するウルフの隣に腰掛けて、サムは手放しで喜んだ。慣れない謝辞がこそばゆくて、ウルフは膝を揺らし、足元でまどろむウィルを飛び上がらせた。
サムはウルフがこれまで会ったことのない、ゆとりのある大人だった。彼はウルフの為に時間をたっぷりと裂いてくれる。ウルフがとちったり、とんちんかんなことを話しても、楽しそうに聞いてくれる。乞われれば豊富な蘊蓄を惜しげも無く教授してくれる。他愛ない不満も抱えきれない寂寥も、ブランケットのようにくるんで温かくほぐしてくれる。
六月の第三土曜日、ウルフはいつものように森の奥を訪ねた。
霧に隠れるようにしてアレックスは苔むした地面にぺたんと座っている。ウィルの首を無造作に撫でて、物憂げに嘆息した。アレックスが感情のとっかかりを面に出すことは珍しい。ウルフは憂鬱の種が気になった。
「どうした? 心配ごとかい?」
「ウィルはお利口で、かわいい。サムがアレックスにプレゼントしてくれた仔犬とは大違い」
「へぇ、君、仔犬を飼うんだ」
「サムがそうしろって、連れて来た。かわいい仔犬。だけど、ばか。すぐ泣くし、無茶苦茶に暴れるし、騒がしい。アレックスは仔犬が嫌い」
そう吐き捨てて、アレックスは綺麗に通った鼻筋のさきに皺を寄せた。本気で仔犬に腹を立てているらしい。溜息をついて、白くてつるつるの墓石を撫でた。
「良い子じゃなきゃ、ダメ。アレックスを愛さない悪い子は、サムを喜ばせられない。猟犬に噛み殺されれば良い。サムがくれた贈り物を、大切にしたいのに」
「仔犬はばかなもんだよ」
「仔犬一匹、まともに躾けられない。サムの期待を裏切る。アレックスは悪い子。猟犬のところにやられるかも」
「そんな……気にし過ぎだよ。君の子犬、おとなになったら、良い子になるさ」
「どうしたら、アレックスの仔犬は、ウィルみたいにお利口になれる」
アレックスは大人しく伏せているウィルのふかふかの毛並みを愛でるようにゆっくりと撫で、アレックスはウルフの肩にそっともたれかかった。ウルフの胸は弾んだ。格好をつける絶好のチャンスだ。
ウルフは軽く咳払いをした。首にさげたクリッカーを摘まみ上げ、もったいぶった口調で言う。
「難しいことじゃない。これを使うのさ」
「それ、サムも持ってる。犬に、何がいいことで何がわるいことなのか教える為の道具」
得意になりかけていたウルフの気分が落ち込んだ。ウルフはクリッカーをぽいと放り出す。
ウルフがサムの蘊蓄に聞き惚れて、サムを尊敬したみたいに、アレックスに感心して欲しかったのだが、当てが外れてしまった。
放り出したクリッカーが、胸でゆらゆらと振り子のように揺れる。ウィルがクリッカーの動きに合わせて鼻面を揺らした。
アレックスはウィルに瞻視を注いだまま、うっとりと微笑む。
「ウィルの名前をかりちゃダメかな」
「え? なに、どういうこと?」
ウルフが難しい顔をして問い返すと、アレックスはこくりと頷いた。己の質問の意図が一度では理解されないことが当然であるというように。
「アレックスの仔犬に、ウィルの名前を借りるの。もしかしたら、お利口なウィルにあやかれるかも。ウルフが、いやじゃなければ、試してみたい」
羨望の眼差しを向けられ、ウルフはウィルの飼い主として、鼻が高い。舞い上がるのはみっともないので、出来るだけ無関心に素っ気なく承諾する。
「好きにして。そんなに珍しい名前でもないし」
「ありがとう。アレックスのウィルはきっと、良い子になる。サムは安心する。アレックスはサムに、とびきりのプレゼントをあげられる」
嬉しそうなアレックスの言葉が、ウルフの胃に鉛の玉を落とした。
「ああ、父の日のプレゼントか」
ウルフは渋面をつくって言った。アレックスはウィルを愛撫する手をとめて、目をしばたいた。
「どうかした」
「なんでもない。よかったな、プレゼントを渡せて。サムならきっと、ネズミの死体をプレゼントしても喜んでくれるよ」
我ながら、卦体な物言いだった。言い方も、千切って投げるような乱暴なものだった。ウィルの耳がぴくりと動く。ウルフが前方に投げ出した太股に、ウィルの頭がちょこんとのった。くぅん、と鼻にかかった甘えた声で鳴いている。ウィルがこの仕草をするということは、ウィルの目にはウルフが落ち込んでいるように見えているということだ。
ウルフはウィルの鼻面を撫でてやりながら、胸腔にもやもやと渦を巻き心臓を締め付ける、どんよりとした気分を追いだそうと、深呼吸を繰り返した。
ウィルが鼻をひくつかせ、頭をもたげる。衣擦れの音がして、アレックスのほっそりとした肩がウルフの肩に触れた。
ウルフが面食らってアレックスと顔を向き合わせる。アレックスの白い輪郭の線が視界に収まりきらなくなっていた。儚げに伏せられた睫が咄嗟に閉じた瞼に触れ、唇にやわらかいものが触れた。