素敵な友達(※20170117改稿)
エントランスからリビングへつづく長い廊下を、ウルフを背負いウィルを従えたサムは、ゆっくりと進む。床には毛足の短い、暗い色合いの絨毯がしき詰められ、両側の壁には低い窓のように絵が並んでいる。そのどれもが風景画であり、南国の明るい色合いが、照明をほの暗く落とした陰気な廊下の中において、どこか白々しい。明かりとりの小さな窓の外はミルク色の霧が立ち込めていた。
先導していたアレックスは、廊下の突き当たりにあるドアを慎重な手つきで開いた。彼は廊下を行く間、一度たりともふりかえっていない。
通されたのは広々としたリビングだった。大きなソファーがあり、皮張りのラウンジ・チェアが暖炉を囲むように配置されている。暖炉に灯るのは火ではなく、燃える様に真っ赤な薔薇だ。火掻き棒の先端が炭に汚れている。冬は火を入れているのだろう。
サムは中へ入った。そのうしろを、とことことウィルがついて来る。よく磨かれた床にうつる自分の姿を不思議そうに見下ろして、抜き足差し足で歩いている。床は艶やかだが、ぴかぴかしている訳ではない。幾人もの靴裏に踏みつけにされて滲み出た、苦み走った赴きがある。
サムは大きなソファーの前でウルフを下ろし、腰掛けさせた。アレックスに消毒液と包帯を持って来るように言いつけた。
よく躾けられたメイドのように粛々と従うアレックスの後ろ姿を見送ったウルフは、ウィルを踏まないように気をつけながら前を横切るサムに訴えた。
「アレックスもケガをしてるんだ。アレックスの手当てを先にしてあげて」
隣に腰掛けたサムに、ウルフはことの経緯を打ち明けた。己の恥ずかしい過ちも包み隠さず打ち明けなければならず、何度か恥いって俯いてしまったけれど、サムは辛抱強く話しを聞いてくれた。ウルフは自分を背負い運んでくれた大きな背中と包み込んでくれるような微笑みに酔ったみたいに、饒舌になっていた。
ウルフは慣れていない長口舌を披露しおえて、得も言われぬ満足感を感じた。だが、その話しは要領を得ない支離滅裂なものだった。しかし、サムはそこから要領を抽出して的確に理解してくれていた。
「転嫁性攻撃衝動だね」
サムの唇をついて出た難しい言葉に、ウルフは首を傾げた。サムは噛み砕いて説明してくれた。
「ありていに言うと、八つ当たりのこと。ウィルにとって君は、絶対的な主人であり最愛の父親だ。その君から理不尽な暴力をうけると、ウィルは混乱してしまう。だけど、ウィルは君にはやり返せない。だから、やり場の無い鬱憤を、第三者で晴らそうとするんだ」
「犬が、そんなことをするの」
「犬だけじゃない。猫もそうだよ。八つ当たりにいたる仕組みはそれぞれ違うがね」
ウルフは足元に蹲るウィルを見た。ウィルはウルフが履いているオレンジ色のスニーカーの爪先を甘噛みしている。従順で手のかからない利口な犬だか、仔犬の頃からこの甘え癖は抜けない。
「犬には人間と同じように心があるってこと?」
やっぱり、という言葉を辛うじて飲み込み、ウルフは期待をこめてサムに問い掛けた。
ウルフは、ウィルには人間のような感情、しいては心があると信じている。しかし、悪魔の存在と同じようにそれは一般常識からするとファンタジーであり、多くのひとが眉唾でかかるところだと知っているから、あえて口には出さなかった。
サムが苦笑したので、ウルフは答えを待つまでもなく落胆した。
そこに、アレックスが包帯と消毒液の入った箱を抱えてリビングに戻って来た。
消毒液を含ませた脱脂綿でウルフの肘の傷の汚れを拭いながら、サムは言った。
「心とは、理性・知識・感情・意思などの働きのもとになるものだと定義される。その定義に則れば、犬にも犬の心があるということは十分、ありえると思うよ」
「人間の心とは違う?」
じゅわじゅわと傷口に沁みる消毒液に顔を顰めながら、ウルフは尋ねた。サムはてきぱきと手当てを施しながら柔らかい声で話す。
「そういうことになるかな」
「どんな風に違うの?」
「そうだな。犬の心は人間より、ずっとシンプルなんだと思う」
「シンプル?」
ウルフは好奇心にかられて、サムの顔を覗き込んだ。
サムは物知りだ。鼓動のように低く規則正しく耳に心地よい声で、ウルフの矢継ぎ早の質問に根気強く付き合ってくれる。よどみない手つきで包帯をウルフの脛に巻いている手の体温がじわりと肌に沁み渡るのも心地良かった。
サムは入れ子のある視線をアレックスにながした。ウルフが追尋しようとすると、アレックスが鋏で包帯をちょきんと切った。
「人間の「好き」は混ざりものが多すぎる」
ウルフは唐突に口を開いたアレックスに目を向ける。アレックスはウルフの足元に跪き、包帯を結んでいる。
「犬の「好き」は混ざりものがない。犬の「好き」はずっとかわらない」
アレックスは包帯を始末すると、箱に道具を詰め直した。俯くと、定規で引いた線のように真っ直ぐな髪が表情を隠す。サムがその髪を無造作に撫でると、アレックスはその掌に頭を押し付けて、うっとりと目を細めた。
そのまま部屋を辞そうとするアレックスを、ウルフは慌てて呼びとめた。
「待ってよ、アレックスも怪我してるだろ。ちゃんと手当した?」
アレックスが首を傾げている。まるでウルフがいきなり、誰にも通じないおかしな言葉を喚き出したみたいに。まんじりと見つめられ、尻の座りが悪くなったウルフがそわそわしていると、アレックスは素っ気なくウルフから目を外した。サムの柔和な顔を見上げて、アレックスは小首を傾げる。
「手当は必要」
「そうだな」
サムはウルフに目配せすると、鷹揚に頷いた。
「手当は必要だな。私の大切な体に、傷が残っては大変だ。部屋に戻って、手当をしておいで。やりかたはわかるね」
アレックスはこっくりと頷いた。
アレックスは氷の上を滑るようになめらかな足取りでリビングから出て行った。アレックスが出て行くと、サムはウルフを森の外まで送ると言いだした。掛け時計を探し、時刻を確かめる。時間が矢のように過ぎ去って居て、ウルフは面食らった。
促されるままに席を立つ。のろのろともたついてしまっても、サムは急かさなかった。ヘイゼルの瞳は、萌える緑の色で、あたたかくウルフを見守っている。
サムはウルフを背負い、ウィルを伴い、白い家を出る。雨がしとしとと降っていた。蝙蝠傘から滴る雫に挑みかかるウィルの尻を窘めて、サムは坂を慎重に降りた。
無銘の墓石が点々とする墓地にはなにが眠っているのだろう。犬の遠吠えが重なり響き合って、恐ろしい想像を加速させる。魔犬に喉笛を噛み千切られた犠牲者が、墓石の下敷きにされてもがき苦しんでいるかもしれない。ウルフは震え上がり、咄嗟にサムの首にしがみ付いた。
サムは首を巡らせて振り返った。
「驚かせてしまったかな? うちの犬どもだ。君の利口なウィルと違って、無駄吠えの癖が抜けなくてね」
「あなたの家にも、犬がいるの?」
「ああ。家の裏手に、犬小屋を柵で囲んだ、彼らのスペースがあるんだ。興味があるかい? すまないが、案内は出来ない。彼らは危険な猟犬だからね。危険な存在だ。清潔とは言えないし。家の裏手に近寄ってはいけないよ」
やんわりとした忠告は、ウルフの背筋を悪寒となってはしる。ウルフはサムの肩に額を押し当てて、もごもごと言った。
「やっぱり、この森は気味が悪い」
「そうかい?」
サムは優しく尋ねた。
「怖い怖いと思っていると、柳の木がゴーストに見える。怖がらないで、見てご覧。ここはきれいな森だ」
サムが呪文をとなえるように言う。眉間に力を込めたウルフが肩口から世界を覗き見ると、魔法は既にかかっていた。
霧は真珠のように艶やかだ。乳白色のヴェールを纏った緑は深い色で、瑞々しい葉は宝石のようにきらきらひかる水滴に飾られている。林冠から差し込む日差しはヤコブの梯子のように神々しい。
普段のジャックは、故郷の思い出を話したがらないけれど、酒が入ると溜息のように記憶の欠片を零すことがあった。故郷のみんなが忌み嫌う暗い森が本当は美しいこと。森にいるのは、悪魔のようで、悪魔ではないこと。そのことを語るときの眼差しは、失われたものを悼むように切なかった。
ウルフはジャックの記憶の断片を、サムの背をかりて受け取った気がした。
うっとりするような世界は少し高い位置にちゃんとあったのだ。
森をぬけると、ウルフはサムをレイチェルの家へと案内した。サムは敷地の外でウルフを下ろすと、濡れないように蝙蝠傘をウルフの頭の上にさした。
「さあ、雨に濡れないうちに、はやく屋根の下に入りなさい」
ウルフはサムの濡れた肩を見詰めていた。喉元まで迫り出して来ているのに、なかなか言葉になってくれない思いを視線で刻み込めれば良いと空想しながら。
サムは辛抱強く待ってくれた。傘の上で弾けた雨粒が傘をつたい、透明な檻になってウルフを囲いこんでいる。ウィルは砕けた雨粒を追いかけて、ウルフの周囲をぐるぐる駆け巡っている。
ウィルが不毛な狩りに飽き飽きして、欠伸をしても、ウルフは唇をかみしめ、むっつりと黙りこんでいた。とんまな自分に嫌気がさす。
すると、サムは慈父の笑みを湛えたまま、ウルフの髪を撫でた。綺麗な指は唖然とするウルフの輪郭をすべり、唇をなでる。
「噛んでは駄目だ」
親指が唇の綾線を丹念になぞっている。濡れた肩がかすかに震えていた。
「ほら、鬱血して白くなった。唇の皮膚が薄いんだな、君も」
ウルフは当惑してサムを見上げた。指先がかすかな電流を帯びているかのように、触れられている唇が痺れる。
サムはやがて手を引っ込めた。はなれる刹那まで皮膚に吸いつく指先が名残惜しそうだった。
サムはすっくと居上がった。切ない目が遠ざかっていくと、ウルフはむしょうに寂しくなった。サムの襟を掴んで引き止める。
ウルフの無礼に、サムは目を丸くしている。ウルフもまた、無意識のうちに己がとった大胆な行動に驚きうろたえていた。
去りゆくものを繋ぎとめる有効的な方法を、ウルフは知らなかった。
「上着を乾かして行けば?」
ウルフは出し渋っていた言葉をうっかり落っことした。引き止める口実ではなく、雨に濡れたサムの目が切なく寒々しかったのが、気にかかっていた。
サムは目許を和ませ、ウルフの心置きに微笑した。
「優しいな、君も」
サムは大きな手でウルフの前髪をかきあげ、額に素早くキスをした。ぽかんと口を開けたウルフの肩を軽く押し、朗らかに笑う。
「また遊びに来てくれると嬉しい。私には友達がいないんだ」
「嘘」
ウルフは決めつけた。こんなに人当たりが良くて紳士的なサムに友達がいないなんて、嘘っぱちだ。けれど、サムは苦笑して言った。
「本当だよ。私には同胞……長い旅路を共にした、同郷の仲間がいたが、私は彼らを裏切ってしまったんだ。この地の人に魅了され、観測するだけでは飽きたらず、体感を欲し、この地に留まることを選んだ」
サムは遠い目をしている。空を仰いでいる。凝る視線は、青い空の向こうを透かすようだった。
「私は異端者だ。同胞とも、この地の人々とも、相容れない。こんな私に微笑みかけて、手を差しのべてくれた人もいたが、結局のところ、彼は私を受け入れられず、私の手を振り払って逃げ去った。私は孤独なんだ。君が友達になってくれれば、どんなに喜ばしいことか」
ウルフはサムを凝視していた。サムの言っていることは、ウルフには難しくて、理解が及ばない。だけど、サムが仲間と絶交し、友達にも見捨てられてしまった、可愛そうな人だということはわかった。
ウルフは空を仰ぐサムを見上げて、ゆっくりと、言葉を噛みしめるようにして言う。
「遊びに行ってもいいの?」
サムはウルフを見返した。見つめ合っているのに、サムはウルフを見ていないような気がして、ウルフは不安になる。返答を間違っただろうか。サムへの親愛の情を、過たずに伝えたかったのに。
ウルフの懸念は、サムの輝く笑顔がはらしてくれる。
「もちろん、いいとも」
「本当に?」
「私は心から……そう、心から君の来訪を望んでいるよ」
「行く」
「本当に、来てくれるのかい? 私の友達になってくれる?」
「うん」
「じゃあ、約束だ」
その瞬間のサムの笑顔を見ると、彼が自分や他人と同じ人間といういきものだということが信じられなかった。
薄い皮膚の下には血ではなく輝かしい光の粒子が駆け巡っている。だから、サムを見上げるとウルフはこうも眩んでしまうのだと。