まるで天使
木々の合間を縫うようにして、苔がみっしりと生えた緩やかな斜面に辿り着く。几帳面に生えているから、よく手入れされた芝生のように見えなくも無い。瑞々しさは欠片も無く、ひどく色褪せて見えるけれど。
斜面には石灰の細い道が蛇のように伸びており、道に添うようにしていくつもの墓石が点在している。
ぽつりぽつりと点在する灌木は、母に抱き上げて欲しいと強請る赤ん坊のように、頼りない枝をいっぱいに広げて空を仰いでいる。その光景は、洗礼を受けずに亡くなった赤ん坊たちが集められる煉獄を彷彿とさせるものだった。
麓にある卵のようにつるりと滑らかな丸い墓石の傍らで、投げ出された黒い蝙蝠傘が、倒れかける独楽のように、くるくると回っていた。冷たい地面にへたりこむ人影を見つけて、ウルフはそちらへ駆け寄った。
華奢な背中の向こうに、姿勢を低くし、尾を振り回し、狂暴な唸りを上げる大きな犬がいる。飢狼のような猛犬と、大人しい愛犬をイコールで結ぶことに戸惑いはあったけれど、ウルフが大切なウィルの姿を見間違うことはない。ウルフが密かに自慢に思っている純白の毛皮は泥に塗れて、踏み荒らされた新雪のようで、恐ろしさよりも哀れさが際立っていた。
「ウィル!」
ウルフの呼び声を聞いて、振り返ったのは、ウィルだけではない。眩いシルバーブロンドの髪を靡かせて、こどもが振り返る。魔法にかけられるように謎めく碧眼が、ウルフを見つめた。
小さな顔を縁取る輪郭の流麗な線が細い首筋に沿って流れ、白い丸襟に吸い込まれる。胸元に引き寄せた繊手は、右手の甲にあいた穴から血が滴っていた。噛み傷だと一目でわかる。ウルフは我が目を疑った。
「ウィル! お前、まさか!?」
ウルフが高く叫ぶと、ウィルの威勢は風船をはりで突いたように萎えた。ウルフは矢も盾もたまらず、後ろ足の間に尾を挟み、縮こまるウィルの元へ駆け寄り口を開かせようとする。頑なに閉ざし頭をふり抵抗するウィルの鼻面を押さえこみ、口元にかかる皮膚を捲りあげると、犬歯はわずかに血で濡れていた。
ウルフはぱっと手を放した。膝から崩れ落ちる。脛の下で苔がスポンジのように沈み込んだ。
「ウィル、そんな……どうして……」
ウィルがひとに害を為したことは、今まで一度も無かった。ウィルは特別に優しい犬なのだ。
「その犬の名前は、ウィル」
潮騒のように穏やかで澄んだ声が言った。ウルフが振り返ると、こどもがスラックスの膝についた泥を払って立ち上がる所だった。
こどもはそのまま、ふわりと宙に舞い上がるかのように思われて、ウルフは息を飲む。この子は天使なのだろうか、というウルフの疑問は真剣なものだった。
少女の愛らしさと少年の凛々しさ、両方の魅力を併せ持っている。美しく整った顔立ちが浮かべる淡い微笑みは、宗教画の外ではまず、お目にかかれないような、神秘的なものだった。
こどもは何事もなかったかのように蝙蝠傘を拾い上げる。傘をさすと、真っ直ぐに切り揃えられた前髪の影の上にさらに濃い影が落ちた。タペータムを宿したオオカミの双眸のように、碧眼だけがきらめいている。
「ウィルは人見知りをする」
抑揚の無い言葉の語尾に疑問符がついていることを、ウルフはこどもが小首を傾げたことでやっと悟った。
「しない、と思う」
ウルフがおずおずと頷くと、こどもは物思いにふけるように黙りこむ。右手の甲の傷を撫でた。
「ウィルは怯えていた。アレックスがウィルの頭を撫でようとしたから。アレックスの手を噛んだ」
「君、アレックスっていうの?」
「そう」
「僕はウルフだ」
ウルフは自己紹介もそこそこに、気詰まりを感じてそわそわした。
同じ年頃のこどもと会話するのは得意ではない。ましてや、アレックスにはウィルの蛮行の許しを乞わなければならないのだ。胃がしくしくと痛む。
「ウィルは、本当は気のいい奴なんだ。今はたまたま、虫の居所が悪かっただけで」
我ながら、ひどい言い訳だ。ウルフはげんなりした。虫の居所が悪かっただけで、なんの落度もないアレックスは噛まれた。見知らぬ犬の頭を不用意に撫でようとするなんて、迂闊だと指摘したいのだけれど、そもそも、荒れ狂ったウィルを解き放ってしまったウルフが悪いのだ。
アレックスは彫り刻まれたような微笑を崩さない。身体を左右に傾け、ウルフの背に隠れるように大きな身体を小さくするウィルを眺めている。
「ウィル、怯えてる」
アレックスは顎に手をやり、首を傾げた。
「どうして」
アレックスは疑問を真っ直に問い掛けている。ウルフの瞳の奥に潜り込み、心のドアを開ける様に。
「ぼくのせいだ」
ウルフは苦々しく白状した。アレックスは驚いた風でも無く、淡々とくりごとした。
「ウルフのせい」
「そうだ。ぼくが乱暴したから、ウィルは怯えてるんだ」
「お仕置き」
「ううん。ウィルは悪さなんてしないさ。むしろ、いいことをしようとしたんだと思う」
「ウルフは乱暴した。怒っていたから」
「そうじゃなくって……ただ、虫の居所が悪かったんだよ」
言っているうちに、ほとほと情けなくなった。父親に約束をすっぽかされたくらいで、どうしてこんなに打ちひしがれているのだろう。どうして友人の親切心に逆上して傷つけたりしたのだろう。
ウルフは、アレックスの追及する視線から逃れようと顔を背けた。鼻を啜る。気まずい沈黙に頓着せずに、アレックスはあっけらかんと催促した。
「ウルフ、謝って」
「うん、ごめん。アレックス」
「アレックスにじゃなくて」
アレックスはウルフを指差している。少し考えて、ウルフではなく、ウルフの背に隠れたウィルを指差しているのだということにきがついた。
振り返ると、ウィルは干し葡萄のように委縮している。ウルフに見つめられて、じりじりと後ずさる。
ウルフは導かれるように跪いた。ウィルの目線に高さを合わせる。
「ごめんな、ウィル」
ウィルの首に手を添え、頭を胸に抱え込む。ウィルの強張った身体を出来る限りソフトに抱きしめた。青い蕾のように固く閉ざされていたウィルは、花開くようにウルフの抱擁を柔らかく受け入れた。暖かい舌でウルフの口元をぺろぺろと舐める。ウルフはくすぐったくて笑ってしまった。冷えて固まりきった身体の末端に、暖かい血が通って行くようだ。
ウィルの交歓に夢中になっているウルフの短い髪を、アレックスが撫でた。ウルフがウィルの毛並みを撫でるのと、丁度、同じような感じで。
呆気にとられるウルフに、アレックスは軽く微笑みかけた。
「グッド・ボーイ」
桃のように瑞々しい唇が下弦の月のかたちに撓む。瞳が優しく和んでいるようだった。
繊細な指先だけではなく、優しい眼差しにさえ愛撫されている。美しいアレックスの柔肌が自分に触れている。ウルフは奇妙な程にうろたえた。
ウルフの鼻にウィルが鼻を押し付けて、ふんふんとにおいをかいでいる。熱をもった頬を濡れた鼻でつつきまわされる。ウィルの荒い息から逃れようと首を捩ると、視界にはいった華奢なスリップオンシューズはよく磨かれていて、乏しい光源を跳ね返しきらきらと光っていた。
ウルフがウィルの頭を両手で押さえつけたとき、頭上高くから、胸腔に反響する奥行きあるバリトンボイスが降って来た。野草を靡かせる風のように優しく囁く。
「お友達かい」
いつの間にかアレックスの背後に背の高い男が立っていた。蝙蝠傘をさりげなく、ウルフとウィルの頭上にさしている。
アレックスは小鹿のように身軽に転向すると、春の訪れを喜ぶように声を弾ませた。
「サム」
アレックスが男の足に抱きついた。男はアレックスの小さな頭を、細く長い指で撫でた。
目を丸くするウルフと視線がかちあうと、男はにっこりと笑った。顔をくしゃくしゃにして笑う男だ。高い鼻先に皺をよせ、光の加減で虹色に輝くヘイゼルの目を隠している。
悪意のない動物のようなのびのびとした雰囲気のハンサムな紳士である。仕立ての良いダークスーツを着こなし、栗色の毛髪を完璧に撫でつけた風采には一部の隙も無い。しかし、肩苦しい感じはせず、相手を緊張させない、底抜けに明るい爽やかさがあった。年の頃は、ジャックと同じくらいだろうか。
「犬を連れた男の子……か」
男は腰を落とし、ウルフに手を差し出した。美しい手だ。爪の先までよく手入れがされている。
「はじめまして。私はサム・クロトーだ」
「ウルフ・ピジョンです」
ウルフは掌をシャツになすりつけ泥と血の汚れを落としてから、握手に応じた。サムは胸ポケットから純白のハンカチーフを取り出すと、ウルフの手を清拭しながら尋ねた。
「ピジョン? もしかすると君は、ミセス・ピジョンのお孫さんなのかな」
ウルフは警戒心をあらわにして、身を引いた。
「あなたはここのひと?」
サムは目をぱちくりさせる。それからくすりと笑った。
「サマー・バケーションの間だけね。隣町から避暑にきている。あそこに見える白い家が別荘だ」
サムの白い指がさす坂の上には、白い建物が建っていた。ペーパークラフトみたいな可愛らしい平屋だ。黒い仔山羊の森の奥深くに居を構えるなんて、悪趣味きわまりない。魔女じゃあるましい……などという発想は、迷信にとらわれているだろうか。
サムは開いたままの蝙蝠傘を、アレックスに持たせた。ウルフに背を向けると、すとんと屈む。目の前の広い背にまごついていると、サムは肩越しに振り返って、微笑んだ。
「豊かな森の土壌には様々な種類の菌が生息している。その中には傷口から入りこんで悪さを働くものもいるんだ。傷の手当てを色々、しないといけない。ご覧のように、我が家は目と鼻の先だ」
「うちも近所だから、走って帰れる」
ウルフは咄嗟にサムの厚意を突っぱねた。バイ菌の話はぞっとするけれど、それ以上にあのペーパークラフトの家に招かれる方がぞっとする。幼い頃から、黒い仔山羊の森は恐ろしい場所だと、悪魔や魔女の住み処だと、言い聞かされてきたのだ。迷信だと決めつけて、あしらっていたけれど、潜在的な恐怖は心に深く根ざしている。
(悪魔じゃなくても、エイリアンかも……あんな子供だましを、信じてるわけじゃないけど……でも、もしも、万が一……この人が、こどもを捕まえて、脳みそを引っこ抜く、エイリアンだったら……)
サムは余所者だから、黒い仔山羊の森を恐れない。そうなのかもしれない。それでも、魔犬の遠吠えが木霊する霧深い森の奥深く、さびしい墓場の隣に、短い間であろうと、暮らしているなんて、いかにも怪しい。悪魔でも、エイリアンでもないとしたら、ひょっとすると悪魔崇拝者ではないだろうか。
ウルフは大人しくお座りしているウィルの首を軽く叩き立たせた。立ち去ろうとしたウルフの肘を、アレックスのほっそりした手が掴む。
ひんやりとした柔らかい手が、肌に触れている。ウルフの心臓が兎のように跳ねて、口から飛び出しそうになり、慌てて口を押さえた。へどもどして振り返ると、目睫の距離にアレックスの顔があった。
「サムの言うこと、きいて」
ウルフは、考えるよりも先に頷いてしまった。アレックスが納得して引き下がってくれなければ、喉元までせり上がって来た心臓が、花火のように破裂しそうだ。
ウルフはサムに背負われて石灰の曲がりくねった道を登り、丘の天辺にあるペーパークラフトの白い家に招かれた。