破られる約束
動物虐待の描写があります。ご注意願います。
バイユーには毎日、まるで昨日をすき写したような今日がやって来る。テレビもラジオもないくるみの家にいると、日付も曜日もわからなくなりそうだ。
昼食を終えると、ウルフは自室に戻る。ベッドに腰掛け、ヘッドボードの上に置いた卓上カレンダーを手に取る。六月の第二土曜日までの日付につけたバツ印を睨みけ、ウルフは屹然と溜息を吐いた。
六月の第三日曜日、つまり父の日は来週だ。ジャックから連絡はない。いつも通りだ。いつも通り、約束をすっぽかすつもりかもしれない。そんな疑念を振り払うことが難しい。
ウルフの足元で昼食を平らげたウィルが、口もとをペロリと舐めて伸び上がる。ウルフの膝に前足をかけて頭を載せる。ウルフはウィルの頭をおざなりに撫でた。
そうしていると、レイチェルが熊のようにのしのしと廊下を渡って来た。ノックなしでドアを開いたレイチェルは、顰め面で
「お前のろくでなしの父親から電話だ」
と端的に告げた。
はやる気持ちを押さえ、浮き立つ足の裏を床におろし、ウルフは受話器をとった。耳に当てると、罅割れた音楽の洪水が耳孔になだれ込んできて、受話器を取り落としそうになった。姦しい女たちの笑声に父の声が応えている。ウルフは受話器を持ち直した。
「父さん」
呼び掛けは向こう側の喧騒にかきけされる。声を張り上げて、三度目の呼び掛けに、ようやく、ジャックが応答した。
ジャックは「元気だったか」「どうしてた」などの、近況報告の催促は一切せずに、単刀直入に用件のみを告げた。
「そっちには行けない。仕事だ」
受話器のむこうで、女たちの嬌声がポップコーンのように弾ける。ウルフの背中をひやりと冷たいものが伝い、胃に滑り落ちた。ずんと冷たく沈んだ胃がしくしくと痛む。
「父さん」
「お前はいつも通りに。サマー・バケーションが終わる前に、適当なところで切り上げて戻って来い」
「でも、六月の中旬にはこっちに来るって」
「予定は未定ってこと」
それじゃあ、と続けそうなジャックの言葉を遮って、ウルフは食い下がった。
「ずっと前から、約束してたじゃないか」
「なに。お前、俺を責めてるのか?」
ジャックはからからと笑った。ウルフの切実な願いを笑い飛ばした。
「さては、婆さんと喧嘩したな? お前は俺と同じように、婆さんに育てて貰ったようなもんなんだ。恩に着ろとは言わないが、はいはいって言うこと聞いてやれよ」
「別に、ばあさんとはそれなりにやってるよ」
「なら、なにが気に入らない。こんなの、いつものことじゃないか。今年に限って、どうしてこだわる」
ジャックの声が1オクターブ低くなる。ウルフはかさついた唇を動かした。
父さんに会いたい
その一言は、声帯を震わせなかった。受話器を持つ手がかわりに震えた。
ウルフにかわって、小鳥が囀るように女がジャックを呼ぶ。
「ねぇジャック。まだなの?」
「まだ、もうちょっと待ってて」
「もう。ジャックがいないと盛り上がらないわ。はやくはやく」
「悪戯しないで。すぐ行くよ」
「だめ。そう言って、いつも長くなるんだから。電話なんかしてられないように、悪戯しちゃお」
「こらこら、おいたが過ぎるぞ」
「お仕置きに、おしりぺんぺんでもしちゃう?」
「そのラブマフィンズでパフパフして貰おうかな」
「やだ、ジャックのスケベ!」
女がきゃらきゃらと笑う。ジャックは朗らかに笑った。言葉に詰まるウルフに、ジャックは一方的に別れを告げた。
「変な奴だ。そろそろ切るぞ。じゃあな」
通話は切れた。繋ぎ合せていた手を振り払われたように、ウルフは途方に暮れていた。
レイチェルは「そら見たことか」とは言わなかった。ウルフが足枷を引き摺るような足取りで自室に戻り、くしゃくしゃに握りつぶしたカードを手にして、リビングを横切り玄関から出て行っても、その後ろをウィルがとことことついて行っても、黙認していた。
ウルフはポーチに出た。じっとりと重い泥の上に、粉糠雨がさあさあと降り注いでいる。屋根の張り出しの下でウルフは立ち尽くしていた。玉を結んで落ちて行く雨粒を呆然と眺める。
「そら見たことか」
ウルフはそっと呟いて自嘲した。
毎度のことだ。ジャックがウルフのところに来ないのは。ジャックが約束を果たさないのは、東から太陽が昇り西に沈むのと同じくらい当り前のことなのだ。
わかっていたのに、期待してしまった。
ジャックはウィルという無二の友人と引き合わせてくれた。だから、ジャックはウルフを失望させるばかりではないと思い違いをしてしまった。
期待してしまった。期待は常に裏切られつづけてきたのに。
ウルフは大きく振りかぶり、握りつぶしたカードを放り投げた。純白のカードは水溜まりに沈み、みるみるうちに不潔な褐色に染まった。
放心するウルフの隣を、ウィルが風のように駆け抜けた。躊躇うことなく雨が降りしきる泥の上を走り、水たまりに鼻面を突っ込んだ。振り返ったウィルは、泥だらけの口にカードを咥えている。ウルフの足元にやってきて、ウルフを見上げた。
その双眸に知性の閃きを見た気がした。こどもの癇癪を窘める気配すらあった。ウルフは頭に血を上らせて、ウィルからカードを奪い取った。
「こんなものはただのゴミなんだ。汚らしい野良犬みたいな真似をするんじゃない!」
ウルフは激情にかられて、カードは破ろうとした。固い厚紙はよれるばかりでなかなか裂けない。ただでも上手くいかずに苛立っているのに、あろうことかウィルが掣肘をくわえてきた。
寡黙なウィルは鋭く吼え、伸びあがりウルフに飛びついた。泥だらけの肉球がウルフのシャツに泥を塗りたくる。
もみ合っているうちに、ウルフは激昂し、ウィルの腹を力の限り蹴り上げた。爪先が柔らかい肉に抉り込む感覚に怖気が奔る。
ウィルがきゃん、と悲痛な鳴き声をあげて泥の上に倒れたとき、ウルフはさっと青ざめた。
「ウィル、ごめん!」
ウルフはウィルに駆け寄った。ウィルはすぐに起き上った。ほっとしたのも束の間、ウィルがふたたび飛びついてきて、ウルフは泥の上に押し倒された。
泥が跳ねあがり、叫んだ口に入る。ウィルはウルフが握りしめたカードの端を咥え、奪おうと奮闘している。ウルフは怒りが血管を焼きつくし全身にいきわたるのを感じた。
「バカ、よせ!」
ウルフはウィルの柔らかい腹に足裏をあて、撓めた膝をぐんと伸ばして蹴り飛ばした。力の緩んだ手から、ウィルがカードを浚っていく。
ウルフは亡者のように総身にしがみつく泥のなかから、もがくように立ち上がった。憤懣やるかたなしに、屹度睨みつけると、ウィルは悄然と項垂れている。
ウィルはおずおずと前に進み出た。くぅん、と鼻にかかった鳴き声を出して頭を擡げる。口に咥えたカードを差し出している。
ウルフは勃然とした。ウィルの横面を張り、がなりたてる。
「お前みたいなバカな犬にはうんざりだ! 行け、僕の前からいなくなれ!」
ウィルは小首を傾げた。犬は言葉を理解できない。言葉の羅列と褒美、罰の因果関係から合図を汲み取るだけだ。
しかし、ウルフの言葉に静かに耳を傾け、いつも最適な反応を返してくれるウィルが、言葉を理解出来ずに困惑するようなことは初めてだった。
ウィルはウルフの機嫌を取ろうと脚に頭をなすりつける。ウルフは健気なウィルを今一度、蹴飛ばした。後ろ脚の間に尾を挟み、うろたえるように後ずさるウィルに、ウルフはとどめをさした。
「お前なんか、大嫌いだ!」
ウィルはその言葉の意味を理解しているようだった。黒い瞳に動揺と失望の嵐が荒れ狂う。ウィルは水を恐れる狂犬のように身を捩り、脱兎のごとく駆け出して行った。
胸がすいたのは一瞬だけで、すぐに後悔が大波のようにウルフを襲った。
ウィルはウルフを心配したのだ。自棄になるウルフからカードを守ろうとした。ウルフがカードをジャックに渡すのを楽しみにしていることを知っていたから。
犬が思考するとは思えないが、ウィルは特別なのだとウルフは信じていた。
「ウィル!」
ウルフはおっとり刀で、遠ざかる白い影を追いかけた。雨がずっしりと重く泥が脚をからめとろうと纏わりつく。ウルフは躓きながら走った。どんどん遠くなるウィルの背中に懸命に呼び掛ける。
「待って、ウィル!ごめん、僕が悪かった。待ってくれ、お願いだから」
雨音がウルフの声を掻き消してしまうのだろうか。ウィルは立ち止まらない。ウィルはとうとう道を外れ、暗い森へ飛び込んで仕舞った。
悪魔が潜むと恐れられている、黒い仔山羊の森。地面には靄が漂い、永遠の黄昏に閉ざされているかのように薄暗い。
ウルフは尻ごみした。悪魔に攫われる、なんて大人が子どもを躾ける為につくった作り話だ。しかし、黒く硬化した木が互いの領地を争うように枝を伸ばしもつれあう様は、さながら悪魔が両腕を広げて招いているようだ。
迷っている時間は無い。ウィルの後ろ姿を見失わないうちに、ウルフは臍を決めて森に踏み込んだ。
霧は黒い仔山羊が吐きだす溜め息だと言われている。この魔物はいつも切なく腹を空かせているそうだ。それが本当なら、魔物はは意地悪くウィルの姿を隠し、ウルフを己の腹の中に誘いこもうとしている。
木々の文目に目を凝らし、ウルフはウィルを追った。だが、追いかけることに集中するあまりに足元の注意がおろそかになった。毛細血管のようにはりめぐらされている木の根に躓き転んでしまった。
ウルフはすぐに上体を起こしたが、痛みに呻いて崩れ落ちた。肘はずるむけ、脛は木の根に皮膚を削りとられ、血と泥に塗れている。
悲惨な有様に目頭が熱くなったが、すぐに火急の用件を思い出す。目を前に向けるが、ウィルの姿は無かった。
見失ってしまった。ウルフは愕然としたが、まだ遠くには行ってない筈だと心を持ち直す。慎重に立ち上がり、痛みから気を逸らせようとあたりを見回した。
蔓植物の茨はあざやかなグリーンで、その蔦に締めあげられ緩慢な枯死を迎えつつある黒い幹がなお鮮やかに見せている。
木々の領地争いは頭上でも展開されていた。旺盛に茂った林冠は何重にも重なりあい、曇天を擦り抜けた僅かな日光すら遮断している。じっと見つめていると何か恐ろしいものの影を見てしまいそうで、ウルフは視線を下げた。
とにかく進もう。ウルフは決意した。後ろは敢えて振り返らない。恐怖心にかられて逃げ帰りたくなってしまう。
歩み出そうとしたとき、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。心臓が胸の内側で小鳥が羽ばたくように跳ねた。
悲鳴は、はっきりと聞こえた。近い。ウルフは悲鳴のもとへむかった。