くるみの家のレイチェル
ここの住人たちは自宅の施錠をかかさない。犯罪者ではなく悪魔から身を守らなければならないと考えるからだ。レイチェルもまた、そのように考え、くるみの殻に閉じ籠るように、自宅にひきこもっている。レイチェルは偏屈な老婆だけれど、ウルフがどんなに無愛想でも気にしない。与えられる食事と寝床に見合う働きは求められるだけだ。
レイチェルの家の内装は、鳥やリスが木の洞に拵える巣のようだ。古びた家具は色褪せメッキがはげ、がらくたのようだ。リビングに敷かれたカーペットは、パイルが摩耗し靴底から足の裏にざらついた感触を伝えてくる。湿気でずっしりと重いダークグリーンのドレップカーテンが、霜がかかったように曇った硝子窓を三分の二を覆い隠している。その脇には頼りない木の揺り椅子が置かれていた。
方形のアーチの先には食堂がある。丸テーブルは脚の長さが不揃いで、新聞紙を丸めたものを踏んでやっとバランスをとっていた。かけられたクロスは、元は白地にグリーンのタータンチェック柄だった筈だが、今は目を凝らさなければその名残さえよくわからない。
レイチェルはその奥のスイング・ドアを押し開き、キッチンに消えた。「飲み物でもどう?」なんて言って、ウルフを持て成す為ではない。中断していた家事の続きをするのだろう。
ウルフはウィルを連れて食堂から伸びる薄暗く狭い廊下を渡った。突き当りに樫の木のドアがある。ウルフは真鍮のドアノブを掴み、回した。立てつけの悪いドアは枠を軋ませて開く。
正方形の部屋には泥の水たまりのような模様が入った絨毯が敷かれている。片流れ天井から吊るされた豆電球に被さったシェードには、埃が雪のように降り積もっていた。縦長の書棚が壁に嵌めこまれ、その隣には荒々しいつくりのデスクが獲物を待ちかまえる蜘蛛のように蹲っている。
この部屋の主がジャックだった頃は学習机として使われていたものだ。
脚を半分に折り畳んで収納しやすい作りになっている。脚を折っても、立て掛けられていないので、蠅が飛びまわるスペースが増えるだけなのだが。毛羽立った天板には、カッターナイフで文字や落書きが彫られている。それは緑の目をした可愛い少女へのラブレターだったり、成功した大人の自分を思い描いた空想だったり、意味の無い妖精の迷路だったり、こどもらしい落書きだったりした。
目立つのは、真ん中にでかでかと描かれた絵だ。大きな丸い頭から棒の体が伸びていて、手足が伸びた棒人間がふたり、丘を背にして並んでいる。右の棒人間の額にはJ、左の棒人間の額にはSと刻まれており、Sの髪は腰までありスカートを履いている。Sの双眸はJより大きく、睫がかきこまれている。拙いこどもの画力で出来る限り、精一杯、Sを可愛らしく描こうとした努力が伺えた。
恐らく、JことジャックはこのSなる少女に熱を上げていたのだろう。ラブレターは、Sにあてたものかもしれない。棒人間が立つ丘の中腹には、ぽつぽつと丸いものが描かれ、頂上には小さな家がある。微笑ましい絵は、しかし、大きくばつ印で潰されている。深く抉れた天板は、幼いジャックの猛烈な苛立ちと失望を感じさせた。
ひょっとすると、失恋でもしたのかもしれない。そう思って画を眺めると、くすくす笑ってしまう。彼がここで成長していった証だ。薄暗い室内でほんのりと明るく見える。ウルフはこれまで、現在は遠い父の過去に思いを馳せて、うんざりする程の暇をつぶして来た。
ウルフは、クリーム色のカーテンの引かれた窓辺に配置されたシングルベッドに腰掛けた。じっとりと汗ばんだマットレスから水が染みて来るようだ。壊れたスプリングが薄い尻を突きあげている。
見上げた天井はくすんだ色をしていて、沈んでいた。ところどころ凹んでいるのは、ジャックがやらかした、やんちゃの爪痕かもしれない。
ドアの横手でおすわりしていたウィルがとことこと歩いて来て、すっくと伸びあがった。ウルフの膝に前足を置き、頭をのせる。「元気をだして」と励ましているような仕草だ。その意図が無かったとしても、ウルフはこの愛らしい仕草に心を和ませる。はじめてこれをしてくれたとき、ウィルはまだ仔犬だったから、ふらふらしながらつまさきだちをしていた。
去年のクリスマス・イブの夜のことだ。裏面に「好きなものを頼んで食っていい」と薄情な書き置きが認められたクリスマス・カードをにぎりしめたウルフの膝に、ウィルは頭を載せた。表情の読み取れない黒い目は「泣かないで」と心配してくれているようだった。
「泣かないよ。泣くもんか。こんなの、へっちゃらだ」
ウィルがいるから、その言葉は強がりにはならなかった。ウルフは、ウィルの罪の無い仕草を愛していたから、この仕草と優しさが損なわれる事のないように躾けていた。
ウルフは微笑み、胸からさげたクリッカーを鳴らした。ウィルの耳がぴくっと動く。ウルフはその耳をかいてやり、首輪からリードを外した。バックパックを下ろし、中からご褒美のクッキーが入った袋を取り出す。差し出すと、ウィルは行儀良く、がっつかずにまずにおいを楽しみ、上品に頬張った。クッキーのかすはほとんど落とさなかった。
くつろいでいると、レイチェルがノックも断りもなしにドアを開いた。レイチェルは誰かに尻を抓られているみたいに不機嫌で、ウルフとウィルを睨みつけている。
「これから世話になろうって奴が、のんびりしていて良いと思うのかい。甘ったれめ。これだから、都会の子は厭なんだよ」
ウルフは口煩いレイチェルから目を逸らし、やおら立ち上がった。その拍子に、僅かに落ちたクッキーのかすを踏みつけてしまう。レイチェルをうかがいみると、目に宿った険が鋭くなっていた。
「その毛むくじゃらが部屋を散らかす不潔な獣のなら、悪魔のもとに叩き返しちまうからね。八年前……ちょうどお前が生まれた頃に、孤児院から赤ん坊を浚ったきりだから、今頃、腹を空かせているだろうよ」
ウルフはウィルの首輪にリードをつけて、その先端をベッドの足に結わえた。部屋に置き去りにされても、ウィルは聞き分けよく留守番をしてくれた。
ウルフは雑巾を放り込んだバケツに水をくみ、家中を雑巾がけして回った。キッチンのタイルは油汚れでべたついていて、手こずっている間に日が沈んだ。
ポーチに出て、バケツの汚水を捨てて新しい不潔な水たまりをつくっていると、レイチェルのだみ声に呼ばれた。食事の仕度ができたから配膳しろという。ウルフは小さく悪態をついた。
「人使いが荒すぎ。だから嫌われ者なんだ」
のろのろとバケツを片づけて、のろのろと手を洗い、キッチンに戻る。待たされたレイチェルは不機嫌だった。反抗して夕飯を抜かれ物置き部屋に放り込まれては詰まらないので、ウルフは急いで配膳をした。
食卓には湯気がたつレンズ豆のスープの皿と、自家製のハムとチーズが盛られた皿、固いライ麦パンが盛られたバスケットと、水の入ったグラスとピッチャー、ナイフとフォークが置かれた。質素な食卓を挟み、レイチェルとウルフは無言で食事を始めた。
テレビもラジオもないレイチェルの家はしんと静まり返っている。風音、葉鳴り、梟のこもる鳴き声が遠く聞こえるだけだ。
ウルフはこの食事に違和感も不満もなかった。音のない食事は慣れっこだし、暖かい食事があることは十二分に恵まれていることだ。デリバリーやデリの惣菜で食事を済ませることに慣れたウルフにとって、手作りの料理が勝手に出て来るだけでも、レイチェルの家でこきつかわれる甲斐がある。
固いパンをレンズ豆のスープにつけてふやかしながら、レイチェルは目を上げずに言った。
「今年もジャックは来ないんだね」
「中旬には来る」
ウルフはフォークをハムに突き刺したまま、すかさず訂正する。レイチェルは陰気に笑った。
「信じてるのかい、バカな子だ。あいつはその場しのぎに適当なことを言って、すぐに忘れる。ろくでなしなんだ。にっこり笑って一言謝れば、全部赦されるって思ってるのさ」
薄情な子だよ、と吐き捨てて、レイチェルはパンを罅割れた唇に押し込む。咀嚼するのにいちいち唇を開いて、くちゃくちゃと音を鳴らす。ウルフは胃がむかむかした。フォークの先からハムを齧りとり、きつい声調で言い返す。
「そんなろくでなしを育てたのは、どこの誰なの」
「あたしら夫婦の仕業じゃないよ。グルーは軽薄な男だったけど、あれほどじゃなかった。ここの連中みんながこぞって、チャーミングだとかホットだとか、ちやほや持て囃したせいで、図に乗っちまったのさ」
レイチェルは鼻先で笑った。ウルフの胃がヘリコプターのように浮かび上がる。みぞおちのあたりを掌で押さえ、席を立った。乱暴に置いたフォークが皿のふちにあたり、剣のんな音を立てる。
レイチェルの双眸に、軽侮と憐憫が融け合っていた。パンをひと口サイズに千切りながら、蚕がいとを吐くかのように、レイチェルは淡々と言葉を紡いだ。
「ジャックは来ない。ここが嫌いなんだ。あたしの言いつけを守らないで、森に入って、怖い目にあったからね。お前をあたしに押し付けて、自分だけ好きなところで好きなように楽しんでる。お前の父親はそういう奴なんだ。いい加減、聞き分けたらどうなの」
ウルフは食器を片づけずに、自室に引き取った。ベッドの脇で丸くなってウィルが俊敏に頭を擡げる。足元に纏わりつくウィルをせめて蹴飛ばさないように気をつけて、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
ウルフは、無愛想で厭世的な皮肉屋で、おまけに人使いの荒いレイチェルのことが嫌いではない。ウルフもレイチェルと同じ類いの嫌なやつだ。レイチェルのひどい態度にうんざりする一方、奇妙な親しみを覚える。
けれど、ジャックのことを悪く言うレイチェルは嫌いだ。陰気なのは町と森だけではない。レイチェルもそうだ。そのせいで、ジャックがくるみの家に寄りつかないのだと思った。
祖父のグルーが存命だったらと、ウルフは時々、想像する。ジャックの容貌と社交的で陽気な性格はグルー譲りらしいから、グルーなら、レイチェルの後ろ向きな性格を笑い飛ばして、顎をつかみ前をむかせてくれたのではないだろうか。ジャックが気紛れに、ウルフにそうしてくれるように。
ウルフがベッドで不貞腐れていると、廊下の床板がきしむ音が近づいて来た。レイチェルしかいない。ウルフは腹をたてていたので、寝たふりをした。
ノックなしにドアが少しだけ開く。それほど重くない何かが床の上で引き摺られる音がして、すぐにドアは閉められた。
しばらくして、レイチェルの足音が遠ざかる。離れた場所でドアを閉める音がして、レイチェルが自室に引き取ったことが知れた。
ウルフは薄目を開けてドアの方をうかがった。注意深く身を起こし、灯りをつける。差しいれられたバスケットの前に屈みこんだ。少し黄ばんでいるものの、石鹸の清潔な香りのするシーツと、バケットと水差し、餌皿が入っていた。
荒い息使いに耳殻を擽られ飛び上がる。ウィルがウルフの肩越しに頭を突き出して、バスケットの中身を熱心に見詰めていた。
ウルフはバケットとウィルを見比べた。ウルフはウィルに餌をやるのを忘れていたが、レイチェルは忘れていなかったようだ。
ウルフは餌皿にバケットをのせ、水をそそぎ湿らせた。ウィルは舌を出してはっはっとせわしなく呼吸している。腹を空かせていることは不憫で罪悪感にさいなまれたが、ウルフは毎度の食事と同じようにきちんと待て、をさせた。日頃の躾けが犬の品格を涵養するのだと、どこかで聞きかじったらしい知識を得意げにひけらかして、ジャックはウルフにクリッカーを与えたのだ。
きちんと言いつけを守ったウィルは、クリッカーの音が天国の鐘であるかのように目を輝かせた。ウルフがよし、と許すと、普段はおっとりしているウィルが、大慌てで晩餐に鼻面を突っ込んだ。