緋色
フェリーは島を離れていく。
いいって言ったのに見送りに来て、なぜか大漁旗を振っている要に手を振り返して。
それも徐々に小さくなっていく。
天気は快晴。今日も夕陽が綺麗だった。風も波も弱く、揺れも少ない。
人生二度目の船旅だが、快適になりそうだ。さすがに、気持ちは晴れ晴れ、とはいかないが。
緋奈子
「こんな、感覚なんですね」
緋奈子さんがつぶやいた。
それは、船のことなのか、それとも、島を離れることなのか。
まさか、島を出ることなんて、考えたこともなかったろうに。
なんだかしんみりとするのは嫌だったので、適当な話題に変えてみる。
修人
「今さらだけどさ、緋奈子さんの名字って、なんなの?」
我ながら、本当に今さらな質問だ。
緋奈子さんは細い人差し指をやっぱり細い顎に当てて、少しの間考えて。
緋奈子
「お家は、近見 (ちかみ) の家と言っていたような気はしますけど」
修人
「島の名前と同じなんだ。じゃあ、近見 緋奈子だね」
やっぱり、母の記憶も受け継いではいるのか。実感からは遠いようだけど。
緋奈子
「なんだか、緊張しますね。島主様になったみたいで」
修人
「いや、今は普通だから」
こんな話をしながら、少しずつ緋奈子さんの存在を日常に近づけていく。
日常といえば、緋奈子さんの服装もようやく女性ものになっていた。
昨日、事情に気づいた工藤さんが買い物に連れて行ってくれたのだ。
島のスーパーではあったけど、歳上に見える緋奈子さんに世話を焼く工藤さんは、なんだかとても楽しそうで。世話を焼かれているひなこさんは恐縮していて、でもやっぱり楽しそうだった。
当然、オレはすぐに帰されたけど。
修人
「そう言えば、少し聞きにくいんだけど、年齢、っていくつになるのかな?」
生まれてからで数えると、とんでもない数字になっちゃうから、それはマズいし。
緋奈子さんはまた少しだけ考えると、なぜか頬を赤く染めて。
緋奈子
「あの、修が、姉さん女房を覚悟するなら、ちょうどいいくらいだ、と言ってました。七葉さんが」
年齢を聞いただけなのに、まさかの展開。
修人
「……あ、あ〜、そう、姉さん、女房ね。じゃあ、それくらいで。って、七葉さん、いつの間に?」
どうやら、一昨日の夜、実際に封印を行う直前に七葉さんが繋がってきたらしく。
『繋がる』というのは、思念だけでやり取りをするテレパシー的な、便利なヤツで。
力はなくなってしまったから、もう使えないらしいけど。
緋奈子
「あと、私がどれくらい生きられるのかと聞いたら、修と同じくらいじゃないか、って言ってました」
修人
「軽っ。相変わらず適当だな〜」
って、最後に会ってから、丸二日弱しか経ってないけどさ。
緋奈子
「でも、私の望みには、それで十分ですから」
語尾が霞むような声で言ってから、再び顔を真っ赤に染める緋奈子さん。
なんだろう。この、むちゃくちゃ美人のくせに、すっごい可愛いとか。凶器か。
七葉さんには、一応、今日の昼間に挨拶に行った。
姿を見せてくれるとは思わなかったけど、あの一升瓶を手土産に。
岬の祠まで行って、お酒を奉納して。少し考えたけど、柏手は打たずに帰ってきた。
うるさい、って叱られそうな気がしたから。約束の魚を添えられなかったことを内心詫びて。
傍に、一筋の黒い若木が生えていて。緋奈子さんはそれに手を合わせていた。
今の社会を生きるには、他にもいろいろと面倒なことは多いけど、あとはその都度適当に決めていけばいい。誕生日とかも決めたいけど、どうせ戸籍なんてないんだし。
……あ、じゃあ、結婚できないじゃん。
緋奈子
「どうしました?」
頭を抱えるオレを、心配そうに覗き込んでくる。
そんな緋奈子さんの顔を見ていたら。
なんだか、そんなこと、どうでもいいように思えてきて。
修人
「ーー緋奈子さんの方が歳上なんだから、敬語やめたら?」
ちょっと意地悪を言ってみる。
緋奈子
「え? 今さらですか?」
修人
「今さらって、最初に会った時は敬語じゃなかったじゃん」
敬語どころか、片言だったけど。
緋奈子
「あ、あれは、身体も小さかったですし。そう、ひなでしたから」
逃げたな。
修人
「あ〜、ひな、ってのもかわいいよね。ね、ひな、って呼んでいい?」
それは何気ない冗談、のつもり。
しかし、なぜかドン引く緋奈子さん。
緋奈子
「え、と、そ、それは、あの姿の方が、いい、と? ひょっとして、修人さん、やっぱりロリ————」
修人
「いやいやいやいやいやいやいやいや、それは違うよ? 誤解だよ? ちょっと呼び方的にかわいいかな、とか思っただけで、身体、っていうか、姿はもちろん今の方がね。で、やっぱりって、なに?」
慌てて取り繕うオレを、緋奈子さんはなおも上目遣いに、
緋奈子
「七葉さんが、ひょっとして、と言ってたんです。その、修が、あの夜、寝屋に、来なかったので」
おい、姐さん! 緋奈子さんになんてこと吹き込んでやがる !!
……って、緋奈子さん、今けっこうきわどいことおっしゃりませんでした?
修人
「……それ、じゃあ、もしもですけど、オレが行ってたら、緋奈子さん的には、アリだった、とか?」
こんな質問、卑怯だと知りつつ、好奇心となにやらに負けて、恐る恐る、聞いてみる。
しかし、緋奈子さんは小さく首を傾げて。
緋奈子
「ひな、みかん食べたい」
少し鼻にかかった幼い声で、甲板でみかんを売っているおばさんを指差す。
……ごまかしやがったな。
緋奈子
「みかん、食べたい」
修人
「はいはい、今買ってきますよ」
とはいえ、やっぱりこの声には勝てる気がしない。大人しく財布を出すオレ。
————あれ? ってことは、ひょっとして、オレって?
緋奈子
「……やっぱり、こっちの方がいいのか」
修人
「そんなことないってば !!」
否定と苦悩に塗れるオレを尻目に、ころころと微笑う緋奈子さん。
こんないたずらっ子だったとは知らなかったぞ。
じゃれ合っているうちに、近見島はもうずいぶんと小さくなっていた。
夕焼けに映える、緋い、緋い島。
きっと、二人とも、あえて見ないようにしていたのだろう。
思い出と割り切ってしまうには、まだ少し重すぎたり、生々しかったり、淋しかったりする記憶たちを。
でも、オレたちは、そうしてやっていこうと思う。
過去を封印するのではなく。
未来から逃げるのではなく。
現在に牙を剥くのではなく。
全てを恨み壊すのではなく。
どれでもないけど、ちょっとずつ、そのどれでもある。
そんな風にして、生きていきたいから。
普通の、人間らしく————




