悪霊
暴風があふれる。
視界が奪われるほどの風が全身に打ちつけられた。
頭上では早くもぶ厚い雲が渦を巻き始めている。すぐに叩きつけるような雨が降り始めた。
雷鳴が轟き、稲光が輝く。風はますます激しくなり、岸壁を超えて波が押し寄せている。
軛を解かれた影の姫は、両手を開き、天を仰ぎ、声にならない叫びを上げ続けている。
それは、怒りなのか、恨みなのか、苦しみなのか、痛みなのか。あるいは、悲しみなのだろうか。
ひなはその足元で母にすがりついていた。無残に破れた白絹は、雨を吸ってもう見る影もない。
それを巻きつけたひな自身もまた、豊かな黒髪を白い肌に張り付かせて、萎れたように。でも。
ひな
「母さま! お鎮まりください! 母さま !!」
声を限りに叫び続けていた。
自分を見ようとも、声を聞こうともしない母に、懸命にすがりながら。
修人
「ひな!」
オレは顔の前に腕をかざし、なんとかひなの元へ駆け寄ろうとする。
が、そこはまさに暴風の中心地。風に押し返され、濡れた岩場に足を取られ、近寄ることすら難しい。
修人
「ひな !!」
ひな
「——修!」
それでも、風をついて、ようやくオレの声がひなに届いた。
ひながこちらを振り向く。
危険だから下がっていて。そんな思念が伝わってくる。ただ、その向こうに、より温かい心を感じて。
オレは足を踏みしめた。歯を食いしばり、風をかき分けるようにして、一歩一歩足を進める。
ひな
「修 !!」
ひなが、もう一度オレを呼んだ。
もう明瞭な思念は届かない。いずれにしろ、オレに足を止めるつもりはないから同じことだ。
それよりも、ひなから伝わる温かい想い。それがオレの足を動かしていた。
姫
「————お前か」
ふと、姫の視線が、こちらへと向けられた。
姫
「緋奈子 (ひなこ) を誑かし、妾の封印を解かせた。なおも逆らおうとする。皆、お前が悪いのか !!」
ひなを捉えていた影が解かれ、すぐさまこちらへと伸ばされた。
風と雨に満足に動けないオレは、すぐに全身を縛り上げられる。
修人
「うぐぁっ !!」
式蛇に首を絞められたことはあったが、これは段違いだった。
とっさに首はガードしたが、腕や脚の骨が軋み、胸を締め上げられて息も吸えない。頭蓋骨まで悲鳴をあげる。
ひな
「やめて、母さま !!」
視界を塞ぐ影の隙間から、ひながオレの前に立ちはだかるのが見えた。
ひなの全身が、淡く赤く輝き、その光が少しだけ影の締め付けを弱めてくれる。
だが、ひなのその行動が、さらに姫を逆上させた。
姫
「やはり、この男か! コイツが緋奈子を苦しめる。コイツさえいなければ !!」
ひな
「母さま! 修は私を苦しめたりしません。修は———— !!」
姫
「お前が、死ね !!」
オレの全身を包む影が、弾けたように感じた。
修人
「ーーーーっ!!」
締め付ける力が瞬時に消え、同時に、思い切り後方へ突き飛ばされる。
身体が宙を舞い、暴風に飛ばされて、断崖の上から、逆巻く海へと————
ひな
「修っ!!」
振り向いたひながとっさに伸ばした両手。撃ち出されるように影が伸びて。
ひな
「修! 大丈夫ですかっ !!」
修人
「……なんとか。ね」
ひなの影は素早くするりとオレの手首に巻きついて、ほとんど崖下へ落ちている身体を支えてくれた。
しかしいつまでも頼ってはいられない。岸壁へ足をかけ、自由になる左手を取っ掛かりとなる岩にかけて、濡れた岩場を登り始める。
姫
「緋奈子、やっぱり、お前ーーーー !!」
修人
「ひな、後ろ!」
崖から半身を上げたところで、ひなの後ろに湧き上がる、より猛々しさを増した影が見えた。
再び影がひなを取り巻いて、さっきよりもなお強く締め上げていく。ひなの顔が苦痛に歪んだ。
修人
「ひな、こっちはいいから! 早く自分を護るんだ!」
ひな
「大丈夫、ですから、早く、上がってください、修」
オレは強引に右脚を持ち上げると、転がり込むように崖の上へと上がった。
オレとひなをつないでいた影が、するりと解けてひなへと戻っていく。
ひな
「ーーーーう、くっ!」
だがひなのすべての力を向けても、締めつけてくる姫の、母の力に対抗するのは容易ではない。
せめてひなへと駆け寄ろうとしたところで、一瞬視界が閃光に染まり、地をも振るわす轟音が響いた。
島のどこかに、雷が落ちた。
嵐を起こし、雷を落とし、海を逆巻かせ、木々をもなぎ倒す。それが、天候すら操る姫の力。
そんな力を前に、一体オレに何ができるのか。
目の前では、姫の影に取り巻かれ、全身を締めつけられて、ひなが苦しんでいる。
影を操るどころか、触れもしないオレには、ひなを救うことはもうできないのか。
ーーーーいや、そんなはずは、ない!
修人
「ひな! 迷うな !!」
吹きつける風を押しのけて、ひなの元へ駆け寄る。
締め上げられている肩を、影の上から抱き寄せた。
修人
「ひな! お前の気持ちを、望みを、強く願うんだ !!」
ひな
「望、み?」
ひなの反応は小さく、か細い。それでも。
修人
「そうだ! お前はこれからなにがしたい? どうなりたい !!」
オレにできることは、語りかけることだけだった。
術師でも勇者でもない俺にできることは、心を伝え、引き出し、そして信じることだけだから。
ひな
「わた、し。私はーーーー」
ひなの力は、姫の力。つまり、両者の力に差はないはずだ。
もし、そこに大きな差があるとしたら、それは意志の強さ。
ならば、ひなの願いが、姫の怨みを超えることができればーーーー
修人
「姫として、巫女として、島の民の願いを神に祈りたいのか! 母とともに、封印されて眠りにつきたいのか! それともーーーー !!」
返答は、か細いながらも、強い意志。
ひな
「ーーーー私は、人として、生きたい」
ひなの瞳がこちらを向いた。真っ直ぐに、オレを。
ひな
「人として、生きて。人として、死にたい。できるのならーーーー」
ーーーー修と。
修人
「なら、島を出よう! 島を出て、まっさらの人生を生き直すんだ !!」
ーーーーオレと一緒に。
ひなが、瞳を閉じた。
ひなの全身をあの赤い光が包む。
ひなの願いが、そしてオレの願いが。ひなを通して、祈りへ変わる。
決して強くはなく、眩しくもないけれど、その赤光は取りまく闇を確実に打ち消していって。
姫
「う、あ、うわぁ、ああぁっーーーー !!」
影と化した姫が、光を避けるように手をかざし、顔を背けた。
広がっていた影が、柔らかな光に押されて、その勢力範囲を狭められていく。
ひな
「ーー修」
ひなが立ち上がった。
もう姫の影はひなには届かない。
オレも立ち上がる。ひなの肩を抱いたまま。
修人
「ひな。もう、いいな?」
最後に、わずかに残る迷いを断ち切るように。
オレの顔を見つめて、ひなが強く頷いた。
修人
「よし。ーーーー七葉さん! 約束通り引っぺがしたぞ! 姫の封印を !!」
七葉
「ーーーーは?」
完全に気の抜けた声が返ってきた。
修人
「だから、姫の封印! ひなも離れたし、そもそも封印を望んでる姫だけになったんだから、なんの問題もないでしょうよ!」
七葉
「そんなこと聞いちゃいないよ! あんた、あたしにあんだけのことをぶち上げといて、結局、最後はケツを拭けってのかい !?」
修人
「ケツもなにも、オレはひなを救う、としか言ってないじゃないすか。元々、オレにアレはどうにもできませんよ!」
ひなの光で抑えているとはいえ、姫の力はまだ健在だし、天候だって荒れまくっている。
どこからどう見ても、ただの人になんとかできるもんじゃない。そりゃもう無理だ。黒いし。
七葉
「……あ〜。まぁ、確かに、そっか。それは、そうだけども」
あのときの会話を反芻でもしているのか、七葉さんは明後日を見ながらほっぺたをぽりぽり。
ひな
「私からもお願いします! 母を、封印してください!」
両手を組んでお願いするひなを横目でチラリ。
明らさまに、気が乗らない。そんな風だったが。
ひな
「贄が必要なら、私の力を使ってください! お願いします !!」
と、七葉さんの指が止まった。
七葉
「ーーあんたの、力を?」
ひな
「はい。私にはもう必要のない力ですから」
ひなは躊躇なく頷く。しかし。
修人
「そんなこと、できるんすか?」
七葉
「姫の力なら、あたしにゃ無理だけどね。ひなは私が生み変わらせたんだ。造作もないさ」
七葉さんの口の端が、ニヤリと上がって。
七葉
「後悔は、しないね。母親も、お前の力も、二度と戻っちゃこないよ?」
ひなは、にっこりと微笑んで。
ひな
「それが、私たちの望みですから」
七葉
「……よぉ〜し。ようやく、割に合う話がやってきたねぇ」
七葉さんは身体を低くし、姫に狙いを定めるように、強く睨みつけると。
助走もなく、一気に姫へと迫った。
走る、いや違う、身体が伸びている、長く、長く。その肌が、白銀に輝く鱗へと変わり。
太く長く伸びた身体が、七つに分かれた。さらにそれぞれが元の身体よりも太く膨れ上がり。
やがて顕現する、七首をもたげる大蛇の姿。これが、七蛇。
七葉
「大人しくしなぁっ !!」
七蛇は姫を包み込むように、七つの首を展開した。それは、影の姫を閉じ込める、蛇の檻。
七方向から絞り上げるその首は、しかし閉じ切ることはなく、抵抗する影の力に押し返される。
七葉
「ちぃっ、力押しではいかないか!」
檻の柱の一本、七蛇の首のひとつが、急にこちらへと向けられる。
七葉
「あんたの力、ちょいと前借りさせてもらうよ」
そう言うと、大きく開いた顎が、ひなの身体を咥え込んだ。
修人
「ひな !!」
ひな
「……だ、大丈夫です。力を、吸われている、だけで」
確かに、ひなの身体を咥えた蛇の首が動くたびに、ひなを包む赤い光がその首へと移っているようにも見える。その力は徐々に蛇の全身へと広がっていき、影の領域はさらに狭められていく。
七蛇がひなを放した。その七つの首の間には、いつしか光る薄い膜のようなものが張られていて。
姫
「や、やめろぉっ !!」
ついに、姫が叫んだ。
七葉
「どうした! 封印されたいのだろう? 何を逆らう!」
姫
「妾は! 妾の力が! 妾の子どもが! 残しては、行くものかぁっ !!」
子どもが、と言いつつ、姫はひなの方を見ていない。
もう、正常な判断力さえ失われているようだ。
七葉
「安心しな。お前の子どもの力は私がもらう。お前の力もね。あとは気にせず、ゆっくり休みな」
姫
「うあぁぁぁっ!! やめろ、やめろぉぉぉっ !!」
優しい声に送られて、悲鳴じみた雄叫びが夜闇をつんざいた。
最後の抵抗に、幾本かの首が揺らぐ。しかし、それだけで。
七葉
「お前は神へ人の願いを祈るモノだろう。だから神たる私がお前の祈りを叶えてやる! 今度は、二度と解けないようにね !!」
七つの首が、姫を檻の中へと閉ざしていく。
光が、膜が、収縮していき、影はもう見えなくなっていて。
七葉
「……ふぅ〜。」
長い一息ののち、するりと巻き取られるように消えていった七つの首のあとには、薄く光る小さな繭だけが残されていた。
ひな
「ーーーー母、さま」
ひなが、ぽつりと呟いた。
母であり、姫であったものは、もう小さな黒い珠のようにしか見えず。
七葉
「これはもう、母でも姫でもないさ。ただの悪霊だ」
人型に戻った七葉さんの口調には、どこか淋しさがにじんでいた。
修人
「ただの悪霊、ですか」
七葉
「姫だのなんだのという意識を残すと、また思い出して怨みを強めるからね。もうそんなものは捨てさせて、ただの悪霊にした方がいいのさ。そうすりゃ、やがて消えてなくなる」
姫が、姫だったものが、やがて泡のように消えてなくなる。
オレですら感じる寂寥感。娘であるひなと、永く付き合ってきた七葉さんの胸中はいかばかりか。
七葉
「名前なんて付けるからさ。名をつけりゃ、いずれ人格を持つ。やがて母から離れていくもんだ」
そんな言葉も、ゆっくりと風に流されていって。
気づけば、雷は止み、雨も弱まって、雲も少しずつ吹き散らされていく。
静かに降り下りた月光を浴びて、七葉さんはいつものようにニヤリと笑う。
七葉
「さて、これはあんたの力を使って、封印を施しておく。これ以降、力を使うんじゃないよ」
ひな
「はい。」
神妙に頷くひな。
七葉
「もう、あんたに力はない。病にもなれば、歳もとる。三十年もすりゃシワシワだ。それで、いいんだね」
ひな
「はい。それこそが、私の願いですから」
七葉
「はん。酔狂なもんだ」
言いたいことは言ったと、後ろを向く七葉さん。最後に、ちらりとオレの方を見て。
七葉
「……島を出す、とまで言えるとは思わなかったね」
修人
「え、そうですか? 悪い思い出が多いなら、その方がいいかと思ったくらいなんですけど」
まるで言い訳のように付け足すオレに。
七葉
「島や村が一種の結界だった時代は、もうとっくに過ぎ去っちまったのかねぇ。。。」
そうつぶやくと、七葉さんはそのままふらりと歩き出した。岬の祠を目指して。
ひな
「ーーあ、七葉さん!」
そんなひなの呼びかけにも、ひらひらと軽く手を振っただけだった。




