木下家の人々(前)
※非常に今更ですが、方言や時代的言葉遣いはスルー推奨
うっかり長くなったので、弟妹編はのちほど
木下仲は途方に暮れていた。
ぺたりと座り込んで、どこか遠くを眺めている。薄汚れた木綿の着物も、ほつれた髪も、使い古してボロボロになった帯やら紐やら、とにかく憐れな様子を全身で表しているように見えた。
戸口は開放されたままだったので、包みを放り出して娘が駆けてくる。
「お母ちゃん!? ど、どうしたのっ」
「あ、ああ……ともかい。おかえり」
「うん、ただいま」
常日頃のくせで返してから、ハッとした。
「そうじゃないでしょ!」
「お前はやかましいねえ」
「お母ちゃんが、おかしいのよっ。どうしちゃったの、本当に」
「あれ、あれをご覧よ」
仲の指は節くれ立って、日に焼けている。
田畑の世話をしていれば、誰だってこうなるものだ。筋の浮き出た腕も、ごつごつの骨が出っ張った足も、とても見せられたものじゃない。だが、これが当たり前なのだ。仲は恥ずかしいとは思わなかった。
あの方を、この目で見るまでは
「仏様がねえ、恵んでくださったんよ」
「ほ、仏様? お母ちゃん、今日はもう寝な。後はあたしがやっとくから、朝までぐっすり寝た方がいい。疲れているんだよ、きっと」
「観音様は、本当にいらっしゃるんだよ」
「お母ちゃん……」
困ったように眉尻を下げる娘は多少ふっくらしているが、所詮は村の人間だ。
色白の肌には程遠いし、鼻の天辺や頬は荒れ放題。ぱっちりした瞳と厚めの唇が、愛嬌といえば愛嬌か。夫・弥助には可愛がってもらえているようで、無事に男児も生まれている。
「日吉は、どこまで行っちまうのかねえ」
「あの子は那古野城に奉公へ出たって、お母ちゃん言ってたじゃない! なんだっけ、草履持ちだか、草履取りだかしているんでしょ。前に帰ってきた時、偉そうに言ってたわよ」
「馬廻り衆だよ、とも」
確かにそう言っていた。
「は、はあああぁ?!」
「頑張った褒美だって、さっき置いていったんだよ。仏様がねえ」
「いやっだから、え? はあ? 何、よくわかんな……え?!」
よいしょと腰を上げる。
湯を沸かして、出涸らしの茶をいれた。二人分用意して、ともに渡す。さっきから騒いでばかりの娘は喉が渇いていたようで、ごくごくと熱い茶を飲み干してしまう。
「お母ちゃん」
「ん~」
「葛籠の中身、見た!?」
「見るわけないじゃないか。恐れ多い」
「だよねっ」
母娘揃って、そおっと振り返る。ばばっと姿勢を戻すのも同時だ。
それだけで一財産になりそうな籠細工が、ぼろぼろの畳に鎮座している。板の間が通常の家において、一段上の畳は家長くらいしか座れない特別な場所だ。それなのに葛籠が立派すぎて、畳が貧相になって見える。
「お母ちゃん。本当の、ほんっとーに仏様がいらっしゃったの?」
「こんな嘘を言うもんかい」
「わ、分かった。じゃあ、その仏様の名前は? 名乗ったりしなかった?」
「…………とも」
地を這うような声に、娘が背筋を伸ばす。
じろっと睨めつければ、母の怒りに触れたくない娘が愛想笑いを浮かべた。へらっとだらしなく笑う顔は、猿と呼ばれる弟にそっくりだ。
「あんた、日吉の姉だねえ」
「ちょっとお!!」
「恐れ多くて名前なんて呼べるか。そうさねえ、どこをどう間違えたら……あんな子があんな素晴らしいお方に気に入られてしまうんだろう。わしはもう、生きた心地がしない」
「え、嘘。じゃあ、もしかして若様がいらっしゃったの!?」
見たかったと叫ぶともを、じいっと見る。
「だ、だって素敵な方だって皆が噂するんだもの。あたし、日吉の姉なのに一度も見たことないんだよ。おかしいって、皆に笑われるんだから」
「お嫁に行ったんだから、仕方ないじゃないか。ああ、そういえば今日はどうしたんだい?」
「遅い!! 聞くの遅すぎるよ、お母ちゃんっ」
「ああ、いちいちやかましい子だねえ。耳がおかしくなっちまう」
「鍛冶屋の血を引いてるからじゃない?」
怒られても、けろっとしているのがともという娘だ。
豪胆というか、能天気というか、とにかく深く悩むことがなさそうな性格である。深く悩むことも苦手で、思ったことをぽんぽん口に出す悪癖もあった。日吉が家を飛び出したのは、貧しい生活に耐えかねただけではないのだろう。
「あ、鍛治といえば……加藤のおじさん、とうとう折れたみたいだよ」
仲は顔をしかめる。
加藤のおじさん、とは加藤清忠のことだ。仲の従妹の伊津を娶り、刀鍛冶を継いでいる。ともの大叔父にあたるのだが、細かいことは気にしない娘なので「おじさん」だ。
最近、しつこいお武家様に絡まれて困っていると相談された。
「刀鍛冶が折れてどうするんだい」
「お母ちゃん。あのね、刀が折れたんじゃなくておじさんが折れたの。意味わかってる?」
「あんたはこの先、絶対に苦労するよ。子供をどこかに預けた方がいいんじゃないかねえ」
「酷いこと言わないでよ。子供と離れて暮らせっていうの!?」
とんでもない、と唾を飛ばして抗議する。
そんな風だからだよ、とは賢明にも言わないでおいた。
「武士が刀を打ってどうするんだか。偉い人の考えることはよく分からないよ」
「刀じゃなくて、どかんってやるみたい。家を壊すのかな?」
「家は作っているんだろう? あんたは、何を言っているんだい」
先日炊き出しの手伝いに行ったばかりだ。
あの方は村の子供たちによく懐かれている。子供だから、身分の違いなど気にならないのだろう。あの死にかけていた村の大人たちも、どこか打ち解けた雰囲気がある。さすがに羨ましいとは思わないが、あの村は特別なのだと強く感じる。
最初は若様の気まぐれだと思った。
自分たちの食い扶持でも精一杯なのに、あの村の面倒まで見ることになるのかと気鬱になったものだ。しかし若様は、何でも自分でやろうとする。周りが慌てて止めるのだが、今度は何やら変わったことを始める。もっと便利に、扱いやすくするとか不思議なことを言う。
今あるものをあるがまま使うのが、仲たちの「当たり前」だった。
もっと暮らしが楽になれば、と思ったことはある。
だが「どうすればよくなるか」を考えたこともない。そんな学はないし、考えている暇があれば働いた方がいい。手足を動かさなければ、今日食べるものも得られないのだ。
日吉は、あの若様の手足となって働いている。
見るたびにいいものを着て、泥だらけにしている。
「そういえば、日吉の奴。この間、饅頭を山ほど置いていったの」
「ほお、饅頭を」
「とても食べきれないから困っていたら、近所の皆に取られちゃった」
「家族の分は確保しておいたんだろう?」
「もちろんよ! でも朝の支度、楽になると思ったのになあ。若様だって、楽をするのがいいって仰るんでしょう?」
「あんたみたいな馬鹿娘は、楽をする資格なんてないさね」
「ひっどーい! あ、そうだ。忘れてた、お母ちゃんに伝言あるの」
仲の眉がぎゅっと寄る。
日吉はさんざん仰天する何かを持ってくるが、姉のともも油断ならない。さて今度は何を持ち込んできたのかと心構えしているところへ、能天気な声が届いた。
「おばちゃんが大量に桶を作ることになって、手伝いしてほしいんだって」
「桶……ってぇと、市兵衛さんかい?」
「うん! 桶屋が儲かると湯殿が吹っ飛ぶらしいよ」
「へえ」
市兵衛の店が儲かると、どこの湯殿が吹き飛ぶのだろう。
「姉ちゃん、風が吹けば桶屋が儲かるじゃ。母ちゃんがもう完全に、遠い目しとるわ」
「あ、日吉!」
「藤吉郎ちゅーとるやろ。いつまで子供の頃の名前で呼ぶつもりかのう」
そんなことを言いながら、仲に「大丈夫か」と労わっていく。
心遣いは嬉しいが、さっさと中へ入って葛籠を開けようとする手を叩いた。
汚れた指で触れようなど無礼千万である。仲やともの着物とは比べ物にならない仕立てのいいものを着ておいて、どうして汚せるのか。本当に息子の考えることは分からない。
「あーやだやだ、口調ばかり年寄り臭くなって。まあまあ、若様の小者風情が随分とお偉くなったものですねえ?」
「おう、偉くなったぞ。もうすぐ、わしの屋敷が建つんじゃ」
「は?」
冗談で言ったともも、仲も開いた口が塞がらない。
「え、今……なんて? お嫁さんもらうことになったの? 誰!?」
「嫁は、まだじゃ…………そのう、フラれて……しもうた」
「またかよ!!」
「姉ちゃん、声がでかいわ。そうじゃのうて、信長様から直々のご命令じゃ。すぐに駆けつけられるよう、那古野の城下に屋敷を持つように言われた!」
ふふん、どうだと胸を張る。
ともは気絶した。仲は気が遠くなりそうになりながら、ふるふると首を振る。
「こんな家なんぞいくつも入る、でっかい屋敷じゃ。姉ちゃんとこの家族も、わしらもみんな一緒の家で暮らせる」
「わしは、わしゃあ行かんぞ」
「なんでじゃ。冬は寒くて辛いと言っとったじゃないか」
「じょ、城下なんぞ恐れ多くて行けるか! 嫌じゃ、わしは行かん。ここがええ。この家から離れんぞ。だが日吉、お前はきちんとお勤めしろ。若様を仏様と思って、真面目に働け」
「そりゃあ、信長様に逆らったら痛い目に遭うし……痛いのは嫌じゃからのう」
「逆らったことあるの!? ばかなのしぬの?!」
「やかましいわ」
気絶したはずのともが飛び起きて、日吉に食ってかかる。
もう三度目には叱る気力も失せて、仲の方こそ気絶してしまいたい。
若様に逆らってもなお生きていられるのなら、あの方はよほど出来た方だ。自分たちのような下々の民を、同じ人間だと思っていない。武家とはそういうものだと思っていた。
「日吉ぃ」
「じゃ、じゃから藤吉郎と……」
「もっぺん逆らってみろ。若様が許しても、わしが許さん。この家はおろか、一族の誰にも頼ることは許さんぞ。分かったか、分かったかこの馬鹿息子が!!」
「い、痛い痛いわ、馬鹿になっちまう」
叩かれて小さくなる日吉を、更に叩く。
「とっくに大馬鹿じゃ、馬鹿息子! 家も継がんと飛び出しおって、こっちがどれだけ苦労したかも知らんと」
「それは――…っ、今は少し良くなったじゃろ? 屋敷に来れば、楽な生活ができるんさ。そこの褒美も、母ちゃんたちがどんな風に使ってもええんじゃ。皆で分けてもいいし、大事にとっとくんもええ。信長様が、母ちゃんたちでも使えるものは何か考えて」
「は? 日吉、今なんつった」
「その葛籠の中身は、……普通の日用品なんさ。信長様が、母ちゃんたちのために普段使いできそうなのを買って」
「なんですってえええぇ!? ふごおっ」
ともを手拭で黙らせ、絶叫で気絶しそこねた頭を抱えた。
日吉の言っていることが確かなら、葛籠よりも安い品物が収められていることになる。突然の訪問に、礼の一つも言えなかったのが悔やまれた。てっきり日吉への届け物だと思っていた。
こんな高価なものをもらう身分になったのか、と怖くなっていた。
おっかないのは自分だった。
「日吉ぃ」
「な、なんじゃ」
「返してこい」
「は!? お母ちゃん、何言い出すのっ。せっかく若様がくださったものを突っ返すなんて、無礼どころの話じゃないよっ」
「葛籠だけじゃ。こんな立派なもんがウチにあっても仕方ない。物盗りに持ってかれるくらいなら、若様にお返しした方がええ」
「分かった。わしが責任持って届けるわ」
「日吉!? か、返すくらいなら……あたしがもらってあげてもいいけどっ」
「物盗りに子供が殺されてもか」
ともはぐっと詰まる。
子供はまだ幼く、誰かが見張っていないと危険だ。
知らない人間が入ってきても、泣きわめくくらいで抵抗らしい抵抗もできない。大仰な話に聞こえるかもしれないが、盗みに入ったついでに殺しも行うのは珍しくなかった。
仲が覚悟を決めて、葛籠に手を掛ける。
一気にひっくり返せば、ざあっと様々な道具があふれ出た。宝の箱だ。真新しい蓑や草履、穴の空いていない鉄鍋、色々な長さの竹筒に大量の端切れまである。糸玉がころころと転がっていく。
確かにすぐ使えるものばかりで、仲はその場に崩れ落ちた。
織田の若様は、那古野城におわす嫡男様だ。
その奔放な性格により「うつけ」と笑われているが、多くの人間に傅かれる立場にある。日々の食べ物に困ったこともなければ、繕いをした着物に袖を通したこともないだろう。
再建中の村では、何一つさせてもらえないとしょんぼりしていた。
若様だから当たり前だ。仲は疑問に思うどころか、そうとしか考えられなかった。
「こ、こんな…………こ、んなに……っ」
声を震わせる仲の背中に、ばさりと何かがかかる。
「わあ! 見て、日吉。これ、お母ちゃんの体に合わせて作ってあるわ。すごい」
「母ちゃんは小さいからのう。大きすぎると邪魔になるからじゃな」
「うーん、一つくらいもらおうと思ったけど、我慢するわ」
「姉ちゃん、何か悪いもんでも食ったか?」
「そうね、悪い饅頭にあたったかもね」
「あっちゃあ、そうくるか! じゃあ、もう饅頭は止め」
「わああ、ごめんなさい! とってもおいしかったですっ」
能天気な会話に、涙も引っ込むというものだ。
仲は見つけてしまった。ばらばらと散らばった日用品の中に、どう考えても日々の生活に必要ない武器のようなものがある。一見して紙のようだが、触ると固い。
ぱしんと鳴らせば、なんとなく使い方が分かった。
日吉が見る間に青ざめる。
「あっ。わ、わしは報告に戻らんといかんから、また今度な!」
「日吉ったら、へんなの。急に慌てだすとか、ねえ」
「やかましいって、言うてるやろが!! この馬鹿娘、馬鹿娘」
「い、痛いっ。なんかよくわからないけど、すごい痛い! これ痛いっ」
後日、これが仕置き道具であると判明した。
名を「ハリセン」という。
後に木下家の嫁となったおねねへ譲られることになる。
木下なか(仲):後の大政所。旭、秀吉、秀長の母親。父は鍛治師だが、夫は足軽(平時は農民)として織田家に仕える
木下とも(智):日秀尼。農民の弥助と結婚して秀次・秀勝・秀保を生んだが、秀吉の出世と共に数奇な運命を辿ることになる
加藤清忠:加藤清正の父。なかの従妹と結婚し、刀鍛冶として働いている。木下家の子供たちからは「加藤のおじさん」と呼ばれる
福島正信:福島正則の父。なかの妹と結婚し、桶屋を営んでいる。木下家の子供たちからは「市兵衛おじさん」と呼ばれる