仁義なき戦い(鰻編)
永禄11年1月の話になります
他者視点にしようと思ったら、語り部が又助さんになっていた不思議
パタパタと団扇を叩く音がする。
白く細く立ち昇る煙は得も言われぬ香りを伴い、範囲内の人間を足止めする効果を持っていた。足を止めた者は例外なく、吸い寄せられるように煙の元へ向かう。そこに並ぶ顔ぶれを見るや、夢から覚めたがごとく腰を抜かす軟弱者もいたが、香ばしい匂いからは逃れられない。
驚きも過ぎれば、彼らが仲良く並んでいる理由を知る。
酒をちびりちびりと舐めながら、その一点を見つめているのだ。
「まだか、三郎」
「まだだ」
「焦げてしまうぞ」
「そんな勿体ないことをするか」
くるり、くるりと串を引っ繰り返す手に迷いはない。
いくつもの七輪に網が乗せられ、鋭利な串に貫かれた平たい肉を焼く。人々が生活する上でこれでもかと見慣れた茶色が、これほど魅力的に見えたことがあるだろうか。
艶々とした照りはもう、美味しそうとしか思えない。
皮とおぼしき部分ですら茶色だ。
どぼん、と音がする。今まさに焼いている串をまるごと、隣にあった壺へ突っ込んだのだ。ああっと悲鳴を上げるのは後から来た者で、ずっと見ていた者はごくりと喉を鳴らす。黒く見える汁を滴らせ、再び串が網の上に戻る。
じゅわ~っ
素晴らしい音と共に、盛大に煙が立った。
「これはたまらん」
そう呟いたのは誰だったか。
まだか、と急かしていた者も大人しく席へ戻り、七輪を睨みつけている。よくよく考えれば、この構図はかなりおかしい。五つある七輪に、一人ずつ焼き手がいるのは当然としよう。七輪の並びに並行して長い卓があり、やんごとなき方々が座っている。
卓上には酒と、指先程度の小皿があるだけ。
飢えとは、食べるものが何もない時に感じるものだ。目の前に食べられそうな何かがあり、百薬の長と呼ばれる酒があってもなお、強烈な空腹という飢えを感じる。
七輪の前にいる男たちは皆、汗みずくで串の世話をしていた。
そのうちの一人が織田信長であると気付いたなら、またかという表情に変わる。何度となく尾張国で食の革命を起こしてきた男だ。そして彼自身が手掛けているものなら、確実に美味いだろうと誰もが思う。かといって、随分前から待っているであろう面子を見ると分け前はなさそうだ。
諦めて踵を返した男の背に、声がかかる。
「又助」
「は……、あつっ」
返事をしようとした矢先、口の中に何かが入った。
本能的に吐き出そうとするのと、大量の唾が溢れだすのは同時である。小さな塊が暴力的な風味でもって、脳髄を刺激した。美味い、熱い、しか考えられない。
ぼろぼろと涙が出てきた。
滴すら零さないように手で口を覆い、ひたすらモグモグしている。軽く火傷したらしく、口の中が痛い。だが噛むのを止められない。崩れて溶けて、なくなっていくのが勿体ない。これは一体何だと思いながらも、美味いとしか考えられない。
「どうだ?」
信長の問いかけに、コクコクと頷く。
我ながら酷い顔になっているだろうが、死んでもいいと思える味だった。菓子類はあまり好まない又助だったが、しょっぱさと甘さが手を組むと恐ろしいことになる。あの壺に入った黒っぽい汁が大問題だ。香ばしい匂いは醤油主体なのは間違いない。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
「俺を拝むなよ。大袈裟だな」
「もっと感謝してください。兄上の発想は歴史を変えるんです」
「……変えてないから」
げんなりとした信長の隣には、信包がいる。
七輪を囲んでいたのは信長の弟たちなのだった。確かに尾張国にもたらされた数々の発明は、信長だけが生み出したものではない。全て信長の功績にされているだけで、側近や信包たちも大いに貢献しているのだ。
それはそうと、又助は聞かねばならぬことがあった。
「これは何ですか?」
「鰻だ」
「……え」
それらはようやく焼き上がったのだろう。
串が抜かれて、皿の上に並ぶ。小皿に入っているものをかけているので、あれは酒の肴ではなかったようだ。ほとんど皿ごと、豪快にかぶりついている者もいた。箸を使えと怒られているが、当の本人はまるで聞こえていない。
「鰻、ですか」
「鰻だ」
ほらよ、と信長が魚籠を見せる。
確かに鰻である。やや細い筒のような体をくねらせて、狭い中を動き回っていた。琵琶湖から離れているのに生きているのは、水もたっぷり入っているからだろう。
「又助が食ったのは肝だ」
「肝!?」
鰻の臓腑は、あんなに柔らかいものだったろうか。
ダンッ
不穏な音に振り向けば、別の卓にて鰻が串刺しにされていた。
頭を貫かれても、その長い体を激しく動かしている。鱗のないヌメヌメした体は掴むのが大変なのに、全く問題ないとばかりに包丁が入った。あっという間に血抜き、解体が進められる。
「背開きと腹開きの二種類があるんだが、俺は背開きが好きだな」
「は、はあ」
「宇治丸はよく白焼きにするそうだ。蒲焼にする場合は、蒸す」
信長の説明を実践するように、捌かれた鰻は蒸籠に入れられた。
湯の入った鍋に竹細工の籠を入れて、蓋をする。これまた大きな鍋と籠だ。特別に作らせたのは明白で、信長はこういう方面に関して全く妥協しない。造酒丞と呼ばれた織田信房も、信長と知り合わなかったら様々な酒を生み出すこともなかったと語ったものだ。
蒸した鰻は白い。
解体した時点で串が入っているので、串を上手く操って壺に沈める。
これを七輪で焼き、また壺に入れては焼くを繰り返すのだ。かなり手間暇がかかっているし、鰻のためにそこまでするものかと思ってしまう。だが、非常に美味かった。
肝だけであんなに美味いのだ。
客人が堪能している鰻の身は、天上の美味であろう。
「信長様、あの壺は何ですか」
「鰻のタレだ」
「何度も漬けておりますが、薄くならないのですか」
「薄くなるどころか、鰻の風味が溶けだして一層美味くなる……とテレビで言ってた」
「なるほど」
てれびというものは何か分からないが、又助は深く頷いた。
「三郎! 鰻が足りんぞ」
「食うの早すぎだ。もっと味わえ!」
「琵琶湖の鰻もなかなか美味ですね。このタレを持ち帰れませんか?」
「鰻のタレか? そんなことしなくても製法を」
「兄上」
信包の笑顔が怖い。
手つきは変わらず鰻を焼き続けているのに、目線は信長に固定されていた。それも兄と、呼んだだけである。底知れない恐ろしさに、又助も身震いした。
「……後で小分けする」
「ありがとうございます。とても楽しみです」
「私はこの酒を持ち帰りたいものですな」
「今年の分はそれで最後だ。来年まで待て」
「おや。それは残念です」
気に入ったらしい徳利を振りつつ、笑う男。
その向こうでは完全に酔い潰れた者がいて、上質そうな羽織をかけてやる優しい男は「公方様」と呼ばれていたが、もちろん気にしてはいけない。三郎、三郎と気安く呼ばわっている男は「公方様」と面影が似ている。かなり呑んでいるはずなのに顔色一つ変わらないのと、生え際まで真っ赤に染めながら上機嫌で酒と鰻を交互に楽しんでいる男も、それなりの身分だろう。
「待たせたな、又助。お前の分だ」
「えっ」
「肝だけじゃ物足りんだろ」
「あの……信長様は、それだけですか」
「ん?」
いつの間にか白飯が出てきていた。
信長とその弟たちは、鰻の小さな欠片を混ぜ込んだ飯を手にしている。ちょこんと乗せられた三つ葉と柚子の色がとても美しい。鰻の蒲焼を一皿もらったのに、ごくりと喉が鳴った。
同じく蒲焼を手にした信広が叫ぶ。
「ずるいぞ、三郎! それは何だっ」
「ひつまぶし」
「それも食べたいぞ!」
「鰻がもうない。お前らがどんどん食うから、売り切れだ」
「な、んだと……」
愕然とした者が何人か。
彼らの視線から、さりげなく隠された鰻たちを又助も見なかったことにした。おそらくそれは、城にいるであろう信長の家族へ届けられるのだ。蒲焼を城外で行ったのは、できるだけ琵琶湖に近い場所で調理したかったからだろう。
美味い物は鮮度が命、とは信長の言だ。
「獲りすぎて絶滅危惧種になるのも嫌だから、養殖したいな。そうすれば夏でも食える」
「夏にこだわる理由が分からないんですが……まあ、考えてみます」
「さすがだ、三十郎!」
「タレは改良の余地あり」
「任せた、又十郎!」
「……これが織田家の結束か」
「間違っても喧嘩を売ろうとは思わないでくださいね、公方様」
「わ、分かっておる」
あちらで不穏な会話が聞こえた気もしたが、又助は忘れた。
炊き立てご飯の上に蒲焼を乗せ、更にタレをたっぷりかけて山椒をぴりっと効かせた「うな重」に比べれば、どんなことも些細な話である。しかし信包から鰻の蒲焼について厳しい校閲が入り、信長の半生記からほぼ削除されてしまったのは悔やまれてならない。
肝吸いや茶漬けも美味ですが、やはりひつまぶしが一番好きです。
鰻巻は女性陣にウケそうだなーと思いつつ、なんか色々間違っている感があってもツッコミ不可です。この後、長利監修「鰻のタレ」は同盟国に配られ、各国の特色を得て更なる進化を遂げたと思われます。信包たちはノブナガのためなら、奇跡も起こすのです…




