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VR-Debug 仮想世界と共に生まれる諸問題
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「…………」
返事はすぐに帰ってこなかった。
怖い瞳が俺の顔にスライドしてくる。
何なんだ、怖いよ。
「すまない、デバッグ状況が気になって勝手にのぞき込んでいたよ。君がNくんだね。今回の初期調整を単独でこなしてくれてるそうだけど、それは間違いないかい?」
「ええ、そうですけど……」
何でこんなことになったんだろう。
おかげでこっちは家に帰った記憶が無いくらい忙しい。いや、たぶん二日分は戻ってない。
「聞きたいことがあってね、それでわざわざ出向いたんだ。少しいいかい」
「何ですか、まさか最初から作り直したいとか言わないで下さいよ?」
「そうじゃない。ただ……」
冗談のつもりではなかったのだが、T氏はおかしそうに笑った。
かと思えばまた、いやさらにその顔を青ざめさせて何かを言おうとする。
職業柄か、細部を観察する癖がついている。
T氏は両方の手を強く握り締めて、それを背中側に隠してごまかした。
「ダイブ中に……変なものを見なかったかい?」
穏やかに装ったその言葉は、その凍り付いた表情からはどう見たって浮いていた。
「変と言われましてもね。そんなの日常茶飯事過ぎて、気にしてたらキリがないですよTさん」
なんだそんなことか、気にするなと俺はコーヒーカップに手を伸ばす。
今後も仕事を円滑に進めるためだ、愛想笑いもしてやった。
「何も見ていない……それは、本当にか?」
彼は納得しなかった。
まあ珍しいことではない。
だが普通ならメールで済ませるところを、わざわざこうやって出向くくらいだ。
よっぽど何かを知られたくなかったんだろう。
「守秘義務があるのでご安心を。万一どこかに漏れれば俺の責任になりますし。というかですね、人の深みに潜り込んで自分の精神を浸食されるくらいなら、何も考えずまとめて削除しますよ」
これも業務の一つだろう。
休憩延長の口実にもなる、何でもないのだと俺は彼に説明をする。
それでもT氏は納得しないようだった。
仕方ない。
「例えば……。見るからに怪しい、個人情報のつまっているタンスがダイブ中に現れたとしますよね。だいたいそういうのには、開封厳禁の札とか、グルグル巻きの鎖だとかで封じられてるんです」
VR世界にそんな思わせぶりな物体があれば、本当は気にもなる。
でも必ず開けると後悔する。
そこには興味もない、プレイヤーからすると実に下らない個人情報しか入っていないのだから。
「そこにどんなえげつないお宝が入っているのか、人によってはそりゃ強烈な興味も覚えるでしょう。で、するとそこには開けるヤツと、開けないヤツの二通りが発生するんです」
ゲームより人が好きなヤツは開けてしまう。
人よりゲームが好きなヤツでなければ、VRデバッカーにはなれないとも言える。
「で、まあ開けちゃならんのですよ。そのタンスを開けた瞬間に、ソイツの精神は多かれ少なかれ他人に浸食されるんです。VR世界が生み出す、他人の深い深いストーリーに触れて、ソイツと作者の境界が崩壊します」
それがVRデバッグの恐ろしいところ。
のぞき見を楽しんでいるつもりが、気づいたら浸食されて精神を乗っ取られる。
思考回路や価値観が変わって、それが本人とせめぎ合い、生活にも変調をきたしてしまう。
「そうなったらTさん、こんな仕事落ち着いて続けられませんよ。他人の頭の中を覗き見し過ぎると、頭がバカになってしまうんです」
「そうか……」
T氏がやっと俺から目線を外した。
そうすると次にどこを見ればいいのかと、彼は視線をさまよわせる。
「つまり、何も見ていないのだな……?」
納得とまではいかないが、T氏はようやく妥協してくれた。
念押しの言葉は語気を弱めており、確認というより自分に思い聞かせるものだった。
「ええ、変なものなら毎日見ていいます。だから大丈夫です。いちいち気にしてもしょうがないですし、仮に見たとしてもそんなもの即削除しますのでご安心を」
まだ何か言いたそうにT氏はうろうろしていた。
だがどうにもならないことを悟ったのか、情けない自分の姿に気づいて元の紳士に戻った。
元から多忙なのだろう。彼は面倒をかけたと謝罪すると、足早に仕事場を立ち去っていった。
また来ると言い残して。
・
デバッグ作業を再開した。
ダイブ前に窓の向こうをのぞくと、夕闇の世界に気の早い街灯が輝き始めていた。
今夜も帰れそうもない、仕事だし仕方ない。
それにどうせ戻ってくる頃には朝日が拝める。
さあ始めよう。汎用VR装置を起動して新作ゲームの世界にダイブする。
淡々とそのファンタジー世界を飛び回って、バグというバグを駆除し続けた。
一度進んだ道をわざわざ逆走してエリアアウトする。そこからまた元の座標に戻り、先に進んではまた後に戻る。
片道の三倍分の作業も、プレイヤーキャラを加速させれば道のりは何でもない。
でもテンポは最悪だ、ゲームをゲームとして楽しめるものじゃない。
(このへんのストーリーラインは大丈夫そうだな……)
進行不能になることはなさそうだ、しっかり繋がっている。
続いて周辺エリアを飛び回って、無作為にバグの発生源を探した。
オープンワールドのVR世界とはいえ、データ上は区切り区切りでエリア分けされている。
エリアジャンプそのものはお手軽操作なのだが、ひっきりなしに風景が飛ぶので楽ではない。エリア一つ一つにノイズはないかとコンソールを確認して、肉眼でも二重のチェックをする。
そんな作業が黙々と、黙々と続けられた。
美しい草原も、おどろおどろしい魔の森も、宗教美溢れる大神殿も、全ての風景が飽きを通り越して無関心に通り過ぎてゆく。
(あれ、ここは……。ん、んん……?)
どれくらいそれが続いただろう。
俺は妙な空間にまぎれ込んでいた。
ファンタジー世界の一角に、現実の生活空間が広がっていた。
(ここはT氏の家かな……となるとこれはノイズバグか)
仕様書に目を通す。
もちろんこんな場所あるはずない。
ならばこれはT氏の個人情報だ、何も考えずに全て消してしまうことに決める。
(げ……)
ところがだ。
ところがとんでもないものを見つけてしまった。
……血痕がある。
床に血痕がたれ落ちて、それがバスルームに向かって伸びている。
『 変なものを見なかったかい? 』
彼の言葉が脳裏をよぎった。
間違いなくコレのことだ。この空間のことだ。
チリチリと静電気が走り、ヤバイヤバイヤバイと思考より肉体が俺に警告する。
果たして、これは消してしまっていいのだろうか。
さすがの不干渉主義も、こんなものを見てしまっては貫き通せるか疑わしい。
俺はしばらくリビングルームに立ち尽くしていた。
でもボケっとしてても解決しない、現実世界のネットワークにアクセスして、彼について検索する。
(Tさん、アンタこれ……これ何しでかしたんだよ……)
嫌な予感がひしひしとする。
ざっと検索したところ、彼は10も年下のデザイナーと結婚していた。
業界でもちょっと話題になったみたいだ。
結婚した妻はそれっきり活動を止めて、家庭を持ったT氏はその後さらに活動を活発化させている。
ネットも万能じゃない。
たかがカリスマ開発者の私生活なんて、その程度の情報が関の山だった。
ソーシャルネットワークの本人アカウントにも、無難な投稿しか見当たらない。
そうとなると、困ったことに俺の好奇心がなおさら刺激される結果となった。
なぜなら、彼の妻は行方不明になっていたのだから。
これまで彼のゲームをデバッグした時に、その奥さんとの光景も目にした気もするが……これがいちいち覚えちゃいないし、自分のためにもこれまで即デリート《削除》をしていた。
(血痕、血痕、ああ、これ本物だ、鉄の臭いじゃん……)
この臭いはT氏が実際に嗅いだものが、仮想現実世界にコピーされたもの。
彼の精神に飲まれないように俺は気を強く保つ。
意識を別に向けよう。コンソールを閉じて周囲をあらためて確認する。
やはりここは彼の自宅だろう。
分厚いガラス窓からは、高い高い夜景がそびえている。かなりの高層マンションだ、わからないけど15階くらいは越えてるんじゃないだろうか。
ここ、居間は驚くほど広々としている。
居間だけでこれだけ大きいと、他もきっととんでもない。
(血痕、血痕、血痕……事件。見られてはいけない事件……)
次に現実のことを考えた。
そうだ事件だ。仮に事件性があるとなると、当たり前だけどこの計画はお蔵入りになる。
会社にも俺の利益にもならない。
ならば全ての良心と疑惑を捨てて、この空間を今すぐデリートしなくてはならない。
でなければ、デバッカーたる俺にも責任が及ぶ。
(そりゃ、そうなると事件を見過ごした罪ってのも生まれるけどさ……)
(Tさん、こりゃ……勘弁してくれよ……)
どうなのだろう、内務規定について確認してみる。
フォルダの深いところに押し込んだまま、今さらまた見ることになるとは思わなかったものだ。
(ダメだこりゃ……)
クリエイターが犯罪を犯していた場合、なんて特殊自体の規定なんてあるわけがない。
営利を優先せよ、そう書いてあるといえば書いてある。それに従うのならば、この空間を削除してしまうのが正解だ。
出来ればバックアップデータにも手を回して、跡形もなく消しさらなくてはならない。
(いや、でも待て……落ち着くんですよ、Nくん……)
(だが、これが、もし……殺人だったとしたら……?)
(血痕、行方不明、青ざめたT氏……。ああ、ダメだ、ダメ過ぎる……)
彼は俺を疑っている。
この彼の記憶を俺が見たのではないかと思われている。
彼が殺人を行うような人間性だとすれば、果たして、これを目撃した俺を放置してくれるだろうか。
間接的に俺を左遷させることだって出来る。
もしかしたら、口封じにとんでもない直接行動を取るかもしれない。
消せばビジネス上の問題が解決する。
だがT氏という問題が俺に降りかかる。
この血痕の奥を見れば、もう俺はしらを通すことが出来なくなるだろう。
少なかれ殺人者の精神に侵されてしまう。
T氏の殺人ストーリーを、読み説いて疑似体験することになってしまう。
そんな気持ち悪いものを望んで見たくない。好奇心がないといえば嘘になるが……。
(やはり気になる……見たい。少しだけ見たい。そうだ、俺の身を守るためにも、ちゃんと見ておくべきかもしれない……)
そうか、いっそこのまま上に報告するべきかと思い付く。
だが仮に報告するにしても、結局は今ここで何が起きたのか見届けなくてはならない。
でなければ報告にならない。
簡単なことだ、この血痕の後を追うだけでいい。
それだけで何からこの、おびただしい血が吹き出たのかわかる。
(彼が何をしたのか確認するだけ、危険はない、危険はまだない……)
彼の精神に飲まれないよう、こちらが気をつけるだけ。
俺は覚悟を決めて血痕をたどり、廊下からバスルームの前に立つ。
血は扉の向こう側から伸びている。
そこでうめき声に気づくことになった。
絶え絶えで弱々しいものが、向こう側から漏れてくる。
(う……っ、やべぇ……これ、やべぇし……っ)
声はまるで人を責めるようなものだ。
T氏の罪悪感が俺の脳に刷り込まれてゆく。
気持ち悪い。全てが気持ち悪い、必死でそれを拒絶する。
力のままにバスルームを開いた。
「ぁぁ……見ちまったし……」
丸裸の女が腹を刺されていた。
どう見たって助かりそうもないし、手当もされていない。
西洋風の優雅なクッキングナイフが深々と刺さり、おびただしい返り血で風呂場中血塗れだ……。
おぞけを覚える。もやもやとした感情が、T氏の怒りのようなものが胸に混じる。
「……っ?!!」
真後ろから低い声がした。
驚いて振り返ると、そこにはあのT氏がうつむき両手をだらりとたらして立っていた。
血塗れのシャツとズボン。突然その右手にあのクッキングナイフが現れて、見れば死体から消えている。
「は、ははは……あはははは……ひ、ひひひっ、うひひっひっ」
幽鬼のように男がリビングに立ち去ってゆく。
当たり前だが俺のことは見えていないらしい。
その後ろを追うと彼は無表情で包丁をキッチンで洗い流し、それからソファでそれを握ったまま頭を抱え込んだ。
しばらくの後に、何かを思い付いて電話をかける。
「とんでもないことになった、助けてくれ……」
電話先に一言そう告げて何度かうなづく。
それからほどなくして、男二人が現れて死体を回収した。
「他の誰にも見られてないですよね?」
「僕一人だ……悲鳴も上げさせていない……。一つ懸念もあるが、それは自分で何とか出来る……」
「わかりました、後はお任せ下さい」
彼らは死体を袋に詰めて消えた。
慣れた手口で、人相からしても普通の商売の人たちではなかった。
ともかく死体が消えた。
彼の一安心が俺にも伝播する。
「……見ているんだろう」
(ぬうぉっっ?!!)
押し黙っていたはずの彼が急に口を開いた。
こっちが見えているのかと驚いて尻餅をつくが、彼はでも振り向きもしない。
「懸念が一つある。僕の職務上、この記憶がゲーム世界に混じり込む可能性がある」
(そういうことか……うはぁ、びっくりしたわ……)
つまりこれは殺人鬼からのメッセージだ。
T氏が俺のところにやって来たのは、コレのためだったのだ。
「なので今後の第一デバッグは君一人に絞ることにしよう。無理な仕事になる、まずはそれを謝らせてくれ」
彼はうつむいたまま語り続ける。
あらぬ方角に語りかけるより、そちらの方が俺の正体を理解していて気味が悪い。
「もし、君がこれを見てしまったのなら……頼みがある」
「見逃してくれ、脅さないでくれ、でなければさっきの連中を差し向けなくてはならなくなる……」
「僕の今の地位と、会社の利益を守るために、全力で抹殺しなくてはならなくなる。何より僕は、まだまだ作りたい構想が山ほどあるのだから」
落ち着かないのだろう。
彼は戸棚からブランデーを取り出して、瓶のままそれを傾けた。
「僕は……君に問うだろう……。変なものを見なかったかい? と」
「僕は君をうかがうだろう。その反応をもって、君がこれを見たかどうかを判断するだろう……」
また強い酒を胃に流し込む。
ゴクリゴクリとその喉が鳴って、俺まで腹の底が熱くなる。
「妙なことに巻き込まれたくなかったら全て忘れてくれ。君が何も考えずに、この空間をデリートしてくれる人だと信じている……」
彼の一人語りはそこで終わりだった。