表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

森の中で(改)

作者: 諸林 瓶彦

 かつて、別のペンネームで「小説家になろう」様に投稿した「森の中で」という作品を大幅に改編したものです。

 あの頃から、大して進歩していないのだと実感させられました。

 少しでも楽しんでいただければ光栄です。

 大学生になった僕は、小さい頃住んでいた町に、ある用事があって訪れていた。

 行政側の掲げる町のコンセプトは「緑の丘と青い川と、沢山の屋根の町」というものだったが、まさにその通り、坂道の多いでこぼことした土地柄で、住宅街に細切れにされた林が点在していた。多分、戦前までこの町の殆どは森だったに違いないが、やがて首都圏へのベッドタウンという機能を有するにいたり、大きな森は失われていったようだ。

 だが、そんな町の北側には端から端まで歩くと一時間ほどかかる広大な森が残されていた。一応国立公園に指定されているらしいが、あまり管理の手は行き届いていないようで、草木はぼうぼうであった。なぜ、こんな場所に国立公園があるのか、大学生になった今でもよく分からない。

 首筋を汗がひとしずく流れた。小学校最後の夏休みのあの日も、こんな陽気だったことが思い起こされる。

 その森――小学生からはお化け森と呼ばれていた――には奇妙な噂があった。冒険と称して森の中を歩いていると、すすり泣く女の声が聞こえてきたり、同級生の姉が森の中を散歩しているとオレンジ色に輝く小さな光の玉が木々の間を無数に飛び交ったり……、まことしやかに怪奇現象が語られたのだ。

 そして、その噂は、小学生の間だけではなく、僕達の両親や、そのまた両親の世代においても語られていたのだった。

 友達の祖母は言ったものだ。お化け森は時々あの世に通じることがあるのだ、と。

「わしの伯父さんが話してくれたんじゃが、若い時分に薪を取るために森の中を歩いていたんじゃと。ちょうど夏の終わり……冬の準備を始める時分にな。そうしたら、どうも道に迷ってしまったらしい。帰り道が分からないようになってしまった。今まで迷ったことなどない森で……。それでもがむしゃらに歩いていると、ふと、開けた場所に出た。そこにはなんだか珍しい花が一面に咲いており、川が流れていた。狭い川幅だったそうじゃ。その、川の向こう岸に、死んだはずの親爺さんが立って、手招きしていたんじゃと。これは三途の川に違いない! 恐ろしくなった伯父さんは、反対方向へ向かって一目散に駆けだした。気がついたときには、森を抜けて、街道に立っていたそうじゃ」

 だから、あの森にはむやみにはいるな、あの世へ連れて行かれて、二度と戻ってこれないぞ……、そう友達の祖母は脅かした。僕は当時、妖怪とか幽霊とか、とにかくそうした怪異を信じ切っていたから、背筋が凍りつく思いがして、しばらく夜中一人でトイレに行けなかったものだ。流石に、大学生となった今は、そうした話しを安直に信じるほどナイーブではないが。

 だが、お化け森の伝説の全てが単なる噂ではない。過去の新聞記事を読みあさってみると実際にあの森に入ってかえってこなくなった人が何人かいるのだ。

 そして、僕も、あの夏、実際に帰ってこられなくなりかけた。

 いま、僕は随分変わってしまった町を歩きながら――駄菓子屋はコンビニエンスストアに代わり、長屋のような建物があった場所には高いビルが建っている――夏のことを思い出してみた。

「ねえ賢ちゃん、夏休みのいつかで、お化け森を冒険してみない?」

 夏休みに入る一週間ほど前、昼休みの教室でそう言いだしたのは幼なじみの涼子だった。

 臆病だった僕は、額の汗をぬぐいながら、首を横に振った。

「嫌だよ。お化け森には入っちゃいけないって、お父さんもお母さんも言っているもの。あそこは土地がならされていないから、木の根に躓いて転んだりするし、普段人がいないから、誰も助けに来ないかも知れないって」

「何言ってるの。もう六年生でしょ、他のみんなだって一度はあの森に入っているわよ」「知ってるよ。だけれど、入ったって何にもないぜ。ただ、雑草だの木だのががむしゃらに生えているだけで」

 僕は映画に登場するアメリカ人のように肩をすくめた。その頃、パーティを作って旅するRPGが流行していたので、その登場人物の口調や動作や敵を倒す技を真似しながら町や森の中をうろつく遊びがはやっていたのだ。でも、その「勇者」や「魔法使い」達は口をそろえて、「あの森はつまらない」と言うのだった。

 もし、涼子も彼らと同じようにRPGの影響を受けて冒険などといいだしたのであれば、止めるべきだろう。

「別に、男子みたいに幼稚な遊びがしたい訳じゃないのよ。ただ……」

 そこで涼子は、少し俯いて珍しく口ごもった。

「何だよ。何かあの森の中に忘れ物でもしたか?」

 その頃、国語の授業で「一度も手に入れたことのない忘れ物を、一度も行ったことのない場所に忘れてしまった」という句を含んだ詩を習っていたので、それに掛けてみたのだ。

 涼子は笑い出すかと思ったら、真剣な顔をしてこちらを見てきた。

「そう、忘れ物。取り返しのつかない忘れ物を取り返すために行くの」

 取り返しのつかない忘れ物、と聞いて、僕に思いつくことは一つだけだった。

「まさか、信じている訳じゃないだろうな? お化け森が、あの世に繋がっているってことを」

「……わたしね。インターネットで占いをやってみたの。そうしたら「遠く離ればなれになっていた思い人に会える」って」

 一年前、僕たちの共通の幼なじみ、翔が交通事故で死んだ。翔の家から涼子の家へ遊びに向かう途中、酔っぱらい運転の乗用車に轢かれたのだ。

 学校の勉強を良く教えてくれたし、いじめっ子から守ってくれたし、僕の親友だったのに。

「……もちろん、お化け森があの世に繋がっているか何てわたしには分からない。でも、遠く離れた思い人に会うために出来ることって言ったら、わたしにはあの森に行くしかないの!」

 会ってどうするんだ、まさか連れて帰ってくる気じゃないだろうな、そう言いたいのを僕は飲み込む。

「僕も、会えるのなら親友に、翔に会いたい。一緒に行くか」

 僕の同意に、涼子は表情一つ変えず、

「当たり前よ」

 と言った。だが、彼女の目が笑っているのを見て、僕はしてやったりという気分になったのだった。

 八月一日の昼間、という日程以外、僕たちは何も計画を立てていなかった。ただ、森の中をうろつけば何とかなると思っていた辺りに、小学生の限界があったのだろう。あるいは単に僕たちが馬鹿だったのか。


 僕たちは、昨日の雨で黒く濡れた市道に面した入り口から、お化け森に入った。

 森の中は、土と葉っぱと、それから何かの生き物の匂いがした。公園を貫く歩道は、しばらく手入れがされていないのか鋭い刃先を持つ雑草で一杯だった。

 真夏だというのに長袖長ズボンという出で立ちなのは、一応知識として、森の中を歩くのに肌は露出しない方が良いということを知っていたからだ。

「わっ、蜘蛛の巣」

 涼子は顔についたそれを、手で振り払った。見れば、木々の間に巨大なジョロウグモの巣があった。

 それから一時間、森の中をがむしゃらに歩き回った。森の奥に進むと、生えている下草の種類が変わったのが分かった。街道沿いはススキなどのスラッとした植物が多いのに対して、森の奥はシダやゼンマイなどの何となく陰気な植物が多い。

 時々土の中から露出した岩にはカタツムリが這っていた。聞いたことのない鳥の声が森の中を谺する……。

 太陽は今まさに南中に輝かんとしているところだったが、うっそうとした林冠に遮られて光はほとんど届かない。見あげると、木々のあいだから漏れる光がキラキラと輝いていた。

「……、だめ、なのかしら」

 涼子は肩で息をしながら僕の方を振り返っていった。僕も彼女も、かなり体力の限界がきていた。僕は背負っていたリュックサックから水筒を取り出すと、一口麦茶を飲んだ。

「諦める必要はない。日が暮れるまでこの森をうろついてみよう」

 僕は、一度乗りかけた船を下りるのは嫌だった。たとえ失敗しようとも、足をかけた場所から後退するのは時分の信条に反している……少年漫画の影響をもろに受けていた僕はそう考えていた。

 単純なものだ。多少の人生経験を積んできた今では、引く勇気も必要だと実感しているが。

「そうね。おなかもすいたことだし、昼ご飯でも食べましょうか」

 涼子は最近倒れたとおぼしき木の幹に腰掛け、リュックサックから弁当箱を取り出そうとした。母親になんと言って弁当を作ってもらったのだろうか、それとも自作か?

 自作だとしたら、どんな料理の仕方をするのだろうか、僕は無意識のうちに彼女の手の動きを追った。

「ん……、何か匂わない?」

 涼子はふと顔を上げると、きょろきょろと辺りを見回した?

「匂うか? 僕が持ってきたお菓子の匂いかな?」

 僕は時分のリュックサックを開けて匂いを嗅いでみたが、何も感じない。

「……何か、花の匂いがするんだけれど。どこからするのかしら」

「そうかな?」

 僕は鼻をひくつかせて、ようやく彼女の言う匂いを感じることができた。

「確かに、何か匂いがするな。……花と言うより、おばあちゃんが使っていたお香の匂いみたいだ」

「……そう、そんな感じもするわね。なんだか心が落ち着く良い感じ。どこから来るのかしら」

 彼女はチャックを開けっ放しにしたままリュックサックを背負うと、ふらふらと歩き出した。僕は、チャックを閉めてやりながら、後を追いかけた。

「お、おい。どこへ行くんだ。弁当、喰うんじゃなかったのか?」

 涼子は、蛍光灯の光に誘われる蛾のように、この不可解な匂いに吸い寄せられていくようだった。

 一本の木の枝を踏む音が、やけに強く響いた。

 それが合図だったように、涼子は走り出した。それは、テレビのドキュメンタリーで映し出された、鼻の穴から入り込んだウジ虫が脳にまで達してしまった水牛が狂って走るシーンを思い起こさせた。僕は、全身の汗が突然凍りついたかのような悪寒を感じて、彼女の後を追いかけた。

 突然、映画が始まったかのように、薄暗い森が開けた。

 一面、僕の膝ぐらいの高さがある白い植物が、やはり白い花を咲かせていた。それは、図鑑で見た蛍草によく似ていたが、薄い蝋細工のように透き通り、葉っぱも萼も皆白いのだった。

 今まで薄暗いところにいた僕は、そのおかしな白の光に目眩を感じた。

 光? 僕は空を見あげた。

 空には太陽はなく、ただ真っ白な天井が世界の終わる場所まで伸びている風だった。

 あの、白い天井が光を放っているに違いない。だから、太陽がないのにこんなに眩しいのだ。

「川」

 涼子が百メートルほど先を指さした。

 確かに、おかしな植物の合間を縫うように、一本の青い川が蛇行して流れていた。彼女はその川に向かって駆けだした。僕も慌てて後を追う。

 ものすごく広い川幅だ。そして、水は透き通って河床がはっきりと見える。

 どうやら、膝よりも大分浅いようだ。 

 そして、僕は川の向こう岸に目をこらした。

 向こう側も同じように白い植物が生えているが、明らかに異質な存在が目についた。

 何人か、植物を踏みつけて人が座っているのだ。

 桃色の和服を着た老婆と、青い袈裟をまとった老人、それから眼鏡をかけた青年と、僕と同年代ぐらいの男の子……。

 遠目にも、四人が何かに熱中して、盛り上がっているのが分かる。あの男の子はこちらに背を向けているが、もしかすると。妙な予感がこみ上げてくるが、自分でもその予感の正体が分からなかった。

「翔! 翔でしょ!」

 涼子が、いつにもまして大声で怒鳴った。

「馬鹿野郎……」

 僕は小声でそう呟いた。相手の正体が分からないのに、うかうかと自分たちの存在を知らせるのがどれほど危険か、分からない歳ではあるまい。お化け森の噂で囁かれているような、恐ろしい化け物だったらどうするのだ。

 だが、涼子の目は涙で濡れており、それを見た僕は、激しい自己嫌悪に襲われた。彼女は、危険を冒してでも翔に会いたいのだろう。

 向こう岸の少年が振り向いた。

 涼子はめいっぱい大げさに手を振る。そうでもしないと、気付いてもらえないとでもいうかのように。

 少年は立ち上がると、彼も手を振った。どう見ても、翔そのものだった。

 彼と一緒に何かやっていた老人や、青年達もこちらを振り向いた。

「翔、あなたに会いに来たの。ずっと思っていて、言えなかったこと伝えるために」

 よくもまあそんな恥ずかしいセリフが言えるなと思った。

「そうだぞ、親友。勝手に天国へ行っちゃうなんてずるいぞ! まだまだ、話すべきことがいっぱいあったんだからさ!」

 僕も、涼子に負けないぐらい恥ずかしいセリフを言ったのだった

「やあ、また会えるなんて思っても見なかった! 懐かしいなあ」

 翔は透き通った大きな声で叫んだ。

「そっちへ行っても良い? その人達は、天国の友達!?」

 その涼子の問いに、翔は答えなかった。代わりに、はだけた着物を着た老婆が立ち上がって、口を開いた。

「お前達が望むのならば、こちらへ来る通い。ただし、帰れるかどうか保証はないぞえ」

 それは、地の底から響き渡るような恐ろしい声だった。

 どういう意味だろう、僕が思ったときにはもう、涼子は向こう岸に向かって走り出していた。

 何て何も考えない女だろう、仕方なく僕も後を追う。

 川の水は、冷たくなかった。だからといって暖かいというわけでもなく、まるで濃い霧の中に足を踏み込んだかのようだった。それでも、上流から下流に何かが流れていくのは感じて、その感覚が足に絡みつくのが気持ち悪かった。   


 涼子は涙を流しながら翔に抱きついた。

「翔、会いたかった、会いたかったよ……」

 その衝撃で、翔の手から何枚かのカードが落ちた。それは、トランプだった。

 なぜ、こんな場所でトランプを手に持っていたのか、僕には不可解だった。

 涼子に抱きつかれた翔は、一瞬迷惑そうな顔をしたが、やがて笑顔になり、

「ああ、こちら側では僕は孤独だった……。涼子、賢治、来てくれてありがとう」

 と言った。そして、いつまでも抱きついている涼子から身を剥がした。

「照れくさいから、あんまり抱きつくなよ」

 そう、顔を赤らめながら言った。


 僕と涼子と翔は、小学校に上がって以来ずっと友達だった。クラスは違うことも多かったが、学校の昼休みはいつも体育館で遊んだり、図書室で本を読んだりした。

 だが、五年生に進学した頃だろうか、涼子と翔は、僕の知らないところで二人だけで会っているようだった。もちろん二人の口から直接的に聞いたわけではないが、何となく雰囲気で分かったのだった。

 翔ではなく僕が死んだのなら、涼子は必死になって僕に会いに来てくれるだろうか。多分、そんなことはないだろうと思う。


「翔、帰るわよ……」

 涼子は翔の手を握りながら、そう言った。その時の涼子の目つきは、何かに取り憑かれたように恐ろしげだった。

「帰るって、どこへ」

 翔は答える。先ほどまでの笑顔はなく、凍りついたような無表情だった。その時、僕は何となく、本当にこいつは翔なのかという不安が立ち上がってきた。

「どこへって……。あの川を越えれば、向こう側はあのお化け森……」

 そう言って涼子は、自分たちの来た方向を振り返った。

 彼女は驚愕し、それから泣きそうな顔になった。

 何が起こった? 僕も振り返る。

 川の向こう側には、何もなかった。ただ、虚無なる闇が広がっているだけだ。これは想像に過ぎないが、多分、無理矢理川を越えようとすれば、身も心も闇に飲み込まれて消えてしまうに違いない。

 僕は、その場にへたり込んだ。

「何故、森が消えている? 戻れないのか?」

「まだ分からぬか。そこに流れているのは、三途の川じゃ。その川を渡ってしまえば、死んだのと同じこと。二度と、生者の世界には戻れぬ」

 老婆が不気味な声で、絶望的なことを言った。

「しかも、お前達は肉体を持ってこの世界に来てしまった。肉体を持ちながら死者の世界にいることは出来ぬ。お前達は、地獄の鬼達の餌となるのだ!」

 老婆は、カッと目を見開いた。その表情は、羽を広げ小動物を威嚇するフクロウのようだった。

「な、なに、何を……」

 涼子は完全に脱力している。いかに小学生といえども、地獄の鬼がどんな風に恐ろしく語り継がれてきたものか知っていた。

「ふざけるな!」

 僕は、老婆の着物の襟を掴んだ。

「何故、川を渡ろうとしているときに、僕たちを止めなかった!」

 老婆は僕の剣幕に少し驚いたようだが、微塵も動じていなかった。

「この川を渡るかどうかは本人の意志だけだ。儂がどうこう左右できる問題ではない」

「おかしな花の匂いで涼子を誘い込んだじゃないか。婆さん、あんたが涼子を、僕を、おびき寄せたんじゃないのか」

「この花の匂いは誰をも誘惑するものではない。元々、こちら側に来たいと欲している人間のみが触発されるのだ」

「どういう意味だ」

 その僕の問いに答えたのは、今まで押し黙ってそっぽを向いていた老人だった。

「お前は服を着ることと、服が自分の身体に覆い被さってくることの区別がつくか?」

 僕は握りしめた拳に汗がにじむのを感じた。だが、老人が何を言っているのか理解できない。

「例えを変えよう。誰かに蹴飛ばされて空中を飛ぶサッカーボールに意識があったとするなら、サッカーボールは自分の意志で飛んでいると思うだろう。それと同じだ。お前達の意志でここに来たのか、花の匂いがお前達を誘ったのか、誰にも区別はつかない。ならば、結局お前達は、行動の責任を自ら取らねばならないのだ……。肉体を持ったままここを訪れたものは、地獄の鬼どもに、骨の髄まで食い尽くされねばならない。それが、この三途の川の掟だ」

「何をわけの分からないことを言っているんだよ! 僕たちはそんな掟は知らない」

「知らないことを理由に逃れることは出来ぬ。人間の法では、人を殺してはいけないことを知らなかったのならば、人を殺しても良いというのか!」

 老人は、身体の芯から突き抜けるような声で、僕たちを恫喝した。あまりに恐ろしい声に、僕は腰を抜かし、涼子は涙を流し始めた。

「さて、我に着いてこい。地獄の釜に突き落としてやる」

 老人は、へたり込んでいる僕の手を掴み、凄い力で引っ張った。力の抜けた僕は、ただ老人のなすがままだった。

「まあ、まあ、お待ち下さい、老師様」

 先ほどまで、超然とした顔で僕たちを見ていた青年が、老人の肩を掴んだ。

「何だ。こやつらを助けろとでも言うのか? それは出来ぬ」

「わたしは、殺さないと約束してくれたではありませんか。わたしも、生身の人間であるのに」

 老人は恐ろしい形相で青年を睨みつけた。涼子を連れていこうとしていた老婆も歩みを止め、青年を威圧した。

「それは、貴様がババヌキという面白い遊びを教えてくれたからじゃ。名前は気に喰わん遊びだがな。だが、その子供らが儂らに、何か貢ぎ物をしてくれたか?」

 老婆の顔は、怒りを通り越して奇妙なものに変質していた。まるで、毒蛾の羽の模様のようなものが、顔に浮かび、それが蛍のように明滅しているのだ。だが、青年は動じない。

「しかし、事情を知らなかった彼らを、このまま鬼の餌にしてしまうのは、可哀想です」

「では、どうしろというのだ?」

 老人の顔は、悪路王の面のような形相になり、やはり忌々しい文様が明滅している。

「彼らと一緒に、ババヌキをしてはどうでしょう。そして、彼らのうちどちらかが最後まで残ってしまったのならば、彼らを鬼の餌とし、逆にお二人のうちどちらかが負けたのならば、彼らを救う、と」

 青年は余裕の表情で、むしろ微笑んでいるようにさえ見えた。

 老婆と老人はお互いに顔を寄せ合って、何かを小声で話している。不気味だ。

「よかろう、その条件、飲んだ。ただし、男、もしお前が負けたとしたなら、お前もそいつらも、地獄の釜へ放り込んでやるからな!」

「構いませんとも」

 老婆は、カタツムリのように目玉を突出させ青年を威圧するが、彼が動じた様子はなかった。

 青年と老人達が会話をしているあいだ、翔は心配そうに見守っていたが、一言も言葉を発しなかった。この場で一番不気味なのは、実は翔なのではないかと、そんな疑いが僕の心の中に浮かんできた。

 青年は、立てないでいる僕たちに向かって微笑んで、皆の輪の中に入って座るように促した。僕はその顔が、どこかで見覚えのあるもののように思えてならなかった。何か僕たちを助けてくれるそぶりを見せているが、何を企んでいるのか分からない。

 ただ、他に選択肢はなかったようなので、僕は砕けた腰を引きずり、這うようにしてババヌキの輪の中に入った。涼子も腰が抜けていたようで、老婆に引きずられるようにして、無理矢理輪の中に加えさせられた。僕の右隣が涼子、そのまた右隣が老婆、老人、翔、青年、つまり僕の左隣が青年ということになる。

「君たちが来るまで、僕たちはババヌキをしていたんだよ。じゃあ、仕切り直しということで」

 青年は、老人達と翔からトランプを回収し、再び分配しようとした。

「おっと、お前には配らせぬぞ。「いかさま」をするかもしれんからな」

 老婆は青年からトランプの束を奪うと、以外に器用な動作で切り始めた。

「そんないかさまなんてしませんよ」

「お前は、ババヌキをしながら、人間世界で流行してるいかさまについて、我らに語ったではないか。つまり、おまえはいかさまの方法に熟知していることになる。そんなお前にカードを配らせるのは危険だ」

 やがて、僕の目の前にもトランプの束が配られた。

「待ってくれ、翔が、翔が最後まで残ったときはどうするんだ?」

 僕は大事な質問をした。これを聞いておかないと、後で罠にはめられる可能性がある。

「その、翔というガキはあの世の側の人間、つまり、翔が最後に残ったのならば、我らの負けじゃ」

 老人が言った。妙なところで筋を通す奴だなと思った。

 僕の人生史上空前の恐怖を感じながら、ババヌキが始まった。スタートは老人で反時計回りにカードを引いていく。ババヌキというのは、最初にカードを引く人間が若干有利で

つまりこのゲームは僕たちにとって若干不利なのだ。


「さて、僕はお先に上がらせてもらいますよ」

 僕からダイヤの1のカードをもぎ取った青年は、トランプを花畑の上に投げ出した。そして、輪から抜けるために立ち上がろうとしているとき、僕の耳元で囁いた。

「そのうち、君と涼子と老婆の三人になる。そうしたら、涼子のトランプの向かって右側を引け。最後に、君と老婆の一騎打ちとなる。その時、常に向かって左側のカードを引き続けろ。そうすれば、勝てる」

 言った後、青年は何事もなく輪から抜けて、離れた所で花畑に寝転んだ。老婆と老人は、以前にこの川を生きたまま渡ってしまった権力者が、地獄の鬼の餌になるという話を聞いた後の醜態について笑いながら話しており、青年が囁いたことに事に気がつかなかった。

「ちっ、一人獲物を逃したか……。だが、まだ二人いる」

 翔が僕から一枚カードを引いた。スペードの3……これもそろったようだが、まだ上がらない。

 また、一周する間に、翔と老人が上がった。

 ゲームをしている最中、ずっと翔が無言だったのが、やはり不気味だった。生きているときの翔だったら、自分が取ったカードの種類で一喜一憂し、上がったのならば大げさに喜んだというのに。人は死ぬと、こうも変わるものなのだろうか。

 翔は輪から外れると、やはり離れたところに体育座りした。僕が見ていることに気がつくことはなかった。

 ひょっとすると、翔からは僕らのような感情が失われているのではないだろうか。喜びも悲しみもなく、ただ喜んでいるふりを、悲しんでいるふりをしているだけなのだ。川の対岸で僕らを見つけたときの笑顔も、ただのふりなのではなかったか? この老人達か、もっと上の誰かかは知らないが、そいつに心を殺され、ただロボットのように……。

「何をボーッとしているのじゃ、さっさとカードを引け!」

 老婆ががなり声を上げて、ようやく僕は外界に意識を引き戻された。僕は青年の言葉を思い出す。涼子のカードは全部で二枚、その向かって右側のカードを引く。

 それは、邪悪な笑みを浮かべたジョーカーだった。僕の背中に冷や汗が流れるが、あくまでポーカーフェイスを貫き通しているつもりだった。

「その顔は……、ババを引いたようじゃな」

 だが、老婆には見抜かれていたようだ。老婆はまるでジョーカーの顔生き写しのように笑った。

 僕の三つあるカードのうち一番右側を老婆は引いた。それはハートのジャックだった。

 老婆は鼻息をはきながら、カードを二枚捨てた。

 涼子は老婆のカードのうち真ん中を引いた。それは10のカードで、これで涼子は上がりだった。

 青年の言ったように、僕と老婆の一騎打ちとなった。

 老婆は不敵に笑いながら、ジョーカーを引き、舌打ちした。露骨だ。

 老婆はカードを背中側に持って行き、かき混ぜると、僕の前につきだした。

 あの青年が信用できるかどうか分からない。だが、僕はまるで催眠術にかかったかのように向かって左側のカードを引いた。それは、ジョーカーだった。

 僕は、後ろを向くと、カードをかき混ぜて、精一杯の虚勢を張りながら老婆につきだした。

 また、老婆はジョーカーを引いた。舌打ちし、またカードをかき混ぜる老婆。

 あの青年の言ったことは信用できるのだろうか? あいつも、老婆達とグルで、僕たちが陥れられるのを楽しみながら見ているのではないか? そんな猜疑心が心に浮かぶ。

 僕は、青年の方をちらりと見た。彼の顔は、人を陥れるようなものではない、そう感じた。その自分の直観を信じよう。

 僕は自分の全運勢をかける気持ちでカードを取る。それは、スペードのエースだった。

 僕はカードを捨てた。

 老婆はカードを持った体勢のまま、悪鬼のような形相となる。

 顔には蛾の模様のようなものが表れ明滅している。それは老婆の全身にまで波及し、まるでパチンコ屋のネオンサインのようになった。

「許せぬ、儂が勝負に負けるなど、許せぬ」

 その姿は、脱糞してしまうほどに恐ろしかった。地獄の悪鬼ではなくて、この老婆が僕たちを喰らうのではないかと。

「だつえば、落ち着け」

 老人が老婆の肩を叩いた。

「我ら地獄の判官が、約束を違えること、あってはならぬ。我も怒りが収まらぬが、彼らをもとの世界に返してやろう」

「しかたなしか」

 老婆は歯を食いしばった。

老人が、川向こうを指さしたので僕は振り返った。

 見ると、川の向こうに、薄暗いお化け森が広がっているのが分かった。

「さあ、消えるがよい! 我らの気が変わらぬうちにな」

 老人はひときわ甲高い声で言った。僕は、涼子の手を引き、あの不思議な川の方へ歩き出した。だが、涼子はその場を動かなかった。

「待ちなさい、お爺さん、お婆さん!」

 涼子は、いつもの高飛車な涼子に戻っていた。

「あなた達は勝負に負けたのよ。その代償が、ただ、わたし達を生きて返すだけですって? そんなこと、あり得ない」

 涼子は僕の手を振り払うと、胸の前で拳を握りしめた。

「なんじゃと?」

 涼子の剣幕に、流石の老婆も目を丸くしたようだ。

「あなた達が勝ったら、あなた達に得るものがあったように、わたし達が勝ったら、わたし達にも得るものがないと、釣り合わないわ」

 老人は腕を組み、眉をひそめた。それと反対に、老婆は大声で笑った。

「なんと、こんな度胸のある人間は久しぶりじゃわい。で、何を望むのじゃ」

「翔を連れて帰るわ! 生者の世界にね」

 僕は離れたところに立っている翔の顔をじっと見つめたが、やはり彼は無表情だった。

「ほう……、成る程な」

 老婆はにやりと笑い、翔の方に向き直った。

「翔とやら、お主自身の気持ちはどうなのじゃ。生き返りたいのかえ」

 それを聞いて、翔の顔に久しぶりに表情らしい表情が浮かんだ。だが、それが何を意味する表情なのか、僕には分からなかった。

「出来れば、また二人で遊びたいと思っている。こちら側は、死者達の世界は、嫌なこともない代わりに、あまりにも静かすぎる。だけれど、そんなことが出来るのか」

 成る程、翔の顔から豊かな表情が消えたのは、死者の世界が「静かすぎる」からなのだろう。それでも、川の対岸にいて僕らを見つけたときのように、たまには喜びを表すことも出来るのだ。

「そうか、おぬしもそれを望んでおるのか。成る程、確かに我らは負けた。お前達の言うことにも一利ありそうじゃの。のう、けんえおう」

 腕組みをし、目をつぶって何かを考えていた老人は、ゆっくりと口を開いた。

「連れてけ」

「は?」

「そんなに、そのガキを生き返らしたいのならば、連れて帰るが良かろう」

「本当に?」

 涼子の声は、喜びのあまり裏返っていた。

「ただし、そのガキを先頭に立たせてはならぬ。帰り道が分からぬから、後から着いてこさせろ。そして、川向こうの森を抜け、人間界に完全に戻るまで、決して後ろを振り返るでないぞ」

 老人達はやけに素直に涼子のことを聞いた。そこに、なにがしかの罠があることを疑うのは当然だろう。

 だが、涼子は既に、翔の手を取って川に向かって歩き出していた。

「ああ、手を握ってくれなくても大丈夫だ、俺を先導してくれればいい」

 翔は涼子の手をそっと振り払った。

「そう。じゃあ、わたしは何があっても振り返らないから、ちゃんと着いてきてね。賢治……賢ちゃん、あなたも前を歩いて」

「待てよ、翔を現実世界へ連れて帰るとしても、帰った後でどうするんだ? 住むところは、食事はどうする。学校に通うのか、死んだ人間が。翔のお父さんお母さんには何て説明する。こんな話し、信じるか?」

「そんなことは、翔を連れ戻してから考えればいいわ。あのお婆さん達の気が変わらないうちに、行くべきよ」

「そうか……、涼子が本当に望むのならば、仕方がないな」

 僕は、悔しくて仕方がなかった。涼子が必要としているのは、いつも彼女のことを考えて行動している僕ではなくって、とっくに死んだはずの翔なのだから。

 僕たちは、川の流れに足をつけた。行きとは違い、何か金平糖大の粒子が、さらさらと流れるような感触だった。だが、水面を眺めても、透き通った水にしか見えない。かなり強い力で下流へと向かっているので、転んだらそのまま流されてしまうだろう。

「悪いが、僕も一緒に帰らせてくれ」

 青年は、僕を追い越すと、涼子のとなりに並んだ。

「あなたは、あちらがわの人間なの、それとも現実世界の人間なの?」

 涼子は、川を危なげない足取りで歩いている青年にたずねた。もちろん、決して首を横には向けずに。

「少なくとも僕は、あの世の――川向こうの――人間ではないな。でも、厳密に言うなら、君たちの暮らす時空の人間でもない」

 この男も、なんだかわけが分からない。ひょっとしたらあの老人達よりも、邪悪な存在かも知れない。でも、少なくとも僕と涼子を助けてくれた。だから、信用してみようと、子供心に思った。

「じゃあ、どこから来たの」

 涼子が川から足を上げ、お化け森の地面に足をつけた。続いて、青年、僕、そして多分翔。

「それは、君が知る必要のないことだ」

「ふん」

 それから僕たちは、黙って森の中を歩き続けた。あの、川向こうの世界が今もあるのか、それとも消えてしまってただの森になっているのかもの凄く気になったが、後ろを振り返ることは出来なかった。

 木々の合間からは陽光が降り注いでいるのが見えるから、まだ昼間なのだろう。あちらの世界に行ってから大して時間が経っていないか、それともその間、現実世界では一秒も時間が進んでいないのか……。もしかすると、日付を跨いでしまって、実は数ヶ月も数年も経った日の昼間なのかも知れなかった。

 突然、温州蜜柑を足で踏みつけたような音が背後でした。僕は振り返らなかったが、青年は歩きながら首を回転させ、後ろの様子を見た。そして、思い切り舌打ちをした。

「おい、振り返っちゃいけないって」

「振り返ってはならない、だと? それこそ老婆の罠だ。君も後ろを振り返ってみろ」

「嫌だ……」

 青年は、拒む僕の頭を両手でつかまえると、無理矢理後ろを向かせた。

「うわー!」

 後ろから着いてきていたのは、もはや翔ではなかった。

 頭部の骨格を突き破って、二枚貝の腕足のようなものが、ぬるりと突き出している。それは、出たり引っ込んだり、細かくピストン運動を繰り返していた。 

 口からは、ヤスデのような形をしてぞわぞわと動く舌ベロが垂れ下がっている。目は落ちくぼんで、眼窩があらわになっており、時折ゴキブリのような生き物が顔を覗かせる。

 全身の皮膚には、フジツボのようなものが付着しており、そこからイソギンチャクのような触手がひらひらと顔を覗かせている。

「ば、化け物だ」

 僕は、よろめいて、木の根に足を取られて転んだ。

「君、君たち、逃げるぞ!」  

 青年は僕を抱き起こすと、走り出した。僕も慌てて走る。

「涼子、後ろを振り向け、走るんだよ! 化け物だ、着いてきているのは、化け物なんだよ!」

「うるさい、黙れ! わたしには見なくとも分かる。着いてきているのは、翔よ!」

 逃げようとしない涼子の手を僕は掴み、無理矢理引っ張る。だが、決して走らない。

「逃げるんだ!」

 青年が、涼子の手を掴むと、引きずるように前へ進ませる。流石に大人の力にはかなわずに、涼子もよろめきながら走らざるをえない。

「ちょっと、離してよ。走ったら、翔が着いてこれないじゃない」

「走るんだ。後ろを振り向け」

 だが、涼子は決して後ろを振り向かない。この時、僕には涼子の気持ちが分からなかったが、今なら理解できる。世界は、人間が認識することによって存在を許される。そこにあるそれを、"それ"と認識する人間がいて始めて、それは"それ"として存在できるのだ。

 この理屈は大人になった今でもよく分からない形而上学的なものだが、小学生の涼子は直観でこの事に気がついていたのだ。

 だから、後ろから着いてくるのが翔だと信じていれば、それは翔なのだ。

 だが、もう僕たちは後ろを振り向いてしまった。

「ふりむいたなぁ……振り向かないと約束したのにぃ」

 翔だったものの声。まるでどぶ川から立ち上る泡が弾けるときのような声だ。

「良いな、僕に着いてこい。絶対に助けてやる」

 青年は強い口調で言った。今は、彼を信じるしかない。

 足がもつれる。まるでこんにゃくの上を歩いているような感じ。時折、張り出した木の根などに躓き、転びそうになる。

 涼子もよろめきながら走っている。

「お願い、立ち止まって! 翔が着いてこれなくなる」

「良いから、走れ! 後ろを着いてきているのは翔ではなく、化け物なんだよ!」

「いや、いやよ」

「気絶させてでも連れていくぞ! それとも君一人、この森の中に残るか」

 青年は恫喝ともとれる大声を出す。

「君は、あの川向こうの異様な連中を見ただろう。後ろから着いてきているのは、化け物なんだ。見ろ!」

 青年は突然立ち止まると、涼子の身体を無理矢理回転させて、後ろを向かせた。

 涼子の、金切り声が森の中に響いた。彼女はその場にへたり込んでしまった。

 僕も後ろを振り返る。

 後ろから着いてきているのは、もはや人間の姿をしていなかった。

 生ゴミのような異臭。どぶ川のヘドロや人間の排泄物を混ぜて、ゼラチンで固めたような、異様な物体が、ミミズのように身体を顫動させながら、突き進んでくる。

 そんな身体だから進むのは遅いが、このまま立ち止まっていると、三十秒もしないうちに追いつかれるだろう。

 だが、僕の足は、割り箸のように固く硬直し、動けなくなってしまった。

「どうした、もう走れないか」

 青年の問いかけにも、声を発することが出来ない。金縛り。

「どちらにしろ、奴をこの森から出すわけにはいかない。ここで待っていろ、武器を持ってくる。喰われるなよ」

 そう言い残すと、青年は木々の間に姿を消した。

 化け物は、僕の目の前まで来た。

 よく見ると、汚物の固まりのような中に、翔の顔の名残のようなものがあった。その顔は、泣いているようだった。

「翔、もし翔なら、僕たちを喰らうのは止めてくれ……」

 僕は、歯の根がかみ合わない口で、それだけ言った。

 化け物の身体は所々半透明に透き通っており、細かい泡が身体の中から少しずつ立ち上っている。自分でも驚いたことに、まるでジンジャエールのようで綺麗だ、と思ってしまった。

 化け物の身体から、電気コードのような太さの触手が、突然無数に放出された。

 それは、放たれた矢のような速さで、僕の身体にまとわりついた。

 暑さで溶け出したあめ玉のようにねとついている。

 化け物の身体に、大きな穴が空いた。ゆっくりと、そこに向かって引き込まれていく。多分、口だ。ああ、あれに喰われるのか……、僕にはもう、抵抗する気力が残っていなかった。

 だが、突然化け物の動きが止まる。触手の締め付ける力が弱くなり、僕は地面に転げ落ちた。

 化け物はもだえ苦しんでいる。その背後に、どこかで見た顔……、あの青年だ。

 化け物の身体の内面から、細かい泡が大量に立ち上り、ついには表皮を突き破って弾けるのが分かる。その泡は、次第にこぶし大になり、やがて人間の頭ぐらいのものに変わっていった。

 体中から泡の立ち上った化け物は、奇声を発すると、爆発した。

 異常な匂いのする破片が、森の中に飛び散る。三人とも、体中にそれを浴びる。

「ふう、間に合って良かった」

 一人だけ、立っていた青年がため息をつく。

「ここから少し行ったところにある、シイの木の大木に、ビニール紐で武器を括り付けておいたんだ。それで、化け物の身体の真ん中を突き刺したのさ」

 青年は、化け物の残骸の中を指さした。確かに、長い木の杭が転がっている。

「あれは、桃の木から作った杭でね。結構手に入れるのに苦労した」

「桃……」

 僕はぽかんとしているように見えたに違いない。

「黄泉から甦った死者を倒すには、桃が必要だと、日本神話では決まっているのさ」

「あ、あなたは何ものなんです?」

 僕は、顔についた汚れをぬぐいながら言った。

 青年は、僕の左耳に顔を近づけ、囁いた。

「僕は、八年後の君だよ。正確には、八年後の八月一日、午後一時十分の世界から来たのさ」

「何ですって?」

「八年間、僕はずっと調べ続けたんだけれどね、この「お化け森」はどうも、時折時間と空間がこんがらがるらしいんだ。そう言う現象があり得ることは物理学でも検証されていて……、まあ、君に難しいことを言ってもしょうがないか。だから、ここより未来にいるはずの僕と君が出会ったり、三途の川の向こう側が出現したりするわけさ。そして、今度、そうした現象が発生するのは、八年後の八月一日、午後一時十分頃なんだ」

「そんなことが」

「あるんだよ。そして、もう大丈夫だ」

 僕は脱力した。何て途方もない出来事に巻き込まれてしまったのだろうか……。

「では、そろそろ僕も、もとの世界に戻るときが来たようだ。じゃあね」

 青年の身体は次第に透き通っていき、やがて霞のように消えてしまった。


 気絶している涼子に、水筒に入れてきた水を掛けてやると、彼女は目を覚ました。

「あんた……」

 彼女は呆然と辺りを見回していた。

「翔は、駄目だったの」

「ああ……」

 涼子は僕の胸に額を押しつけると、声を上げて泣き始めた。

 真夏だというのに、なんだか酷く寒い気がした。


 そして大学生になった今、僕は再びお化け森に足を踏み入れた。

 右手には、桃の木で作った長い杭を持ち、鞄の中にはトランプを入れている。

 あの三途の川にいた老人達はおそらく「奪衣婆」と「懸衣翁」だろう。そして僕は、自分たちがあいつらとババヌキで勝利することも知っている。翔の姿をした化け物を、この杭で倒せることも。

 そう、僕はあれから八年後、八月一日の僕だ。

 

   

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。あっという間に読み終わってしまいました。 [気になる点] 例えの使用が多く、若干くどさを感じました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ