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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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白紙に沈む

掲載日:2026/07/01

「夜が明けなければいいのに――」


そう願うたび、世界はきちんと朝を連れてきた。

王都の外れ、死者の名を記すためだけに存在する塔で、書記官の女は一人で働いていた。戦争、疫病、処刑。人は日々死に、女はその全てを羊皮紙に写し取る。名前、年齢、死因。生きていた証は、乾いたインクに還元される。

女は眠らない。眠ると夢を見るからだ。

夢の中では、死者たちが名前を返せと泣く。返したところで、彼らが甦ることはないと分かっているのに、胸の奥に腐臭のような後悔が溜まっていく。

女には名前がない。

正確には、かつてはあったが、もう思い出せない。塔に連れてこられた日、管理官は言った。「ここで働く者に個人は不要だ」と。女はそれを受け入れた。拒む理由も、帰る場所もなかった。

死者には名前が要る。

記録には名前が要る。

だが、記す者に名前は要らない。

塔の中では、時間が沈殿する。

鐘の音だけが区切りを与え、女はその合図に従って筆を動かし、止め、また動かした。外の季節も、戦況も、彼女には関係がなかった。関係があるのは、机の上に積まれた紙の量だけだった。

少ない日は、落ち着かなかった。

胸の奥に、ひどく嫌な空白が生まれる。

書くべきものがない。埋めるべき欄がない。そう思うだけで、呼吸が浅くなり、指先が震えた。自分の輪郭が、薄れていく感覚に襲われた。

夜、女は眠れず、机に向かったまま、何も書かれていない羊皮紙を何枚も眺めた。


名前。

年齢。

死因。


空欄が、ひどく騒がしい。

埋めなければならない。

理由は分からない。ただ、埋めなければならないという衝動だけが、骨の奥にまで染み込んでいた。

翌日から、女は塔の外に出るようになった。

許可など必要なかった。誰も、彼女の行動に興味を持たない。塔の扉は重く、きしむ音を立てて開き、街の空気を流し込んだ。

外はうるさかった。人の声、馬車の軋み、金属の打ち合う音。生きているものの気配が、濁流のように押し寄せる。

女はその中を、影のように歩いた。

人の流れを観察し、孤立した背中を探す。市場の裏、路地の奥、酒場の閉店後。誰にも気づかれず、消えても不自然ではない存在。

数は多くない。

だが、必要な分だけ、見つかればいい。

女の手は慣れていた。紙と羽根に向けてきた動きが、そのまま、人の体に向けられる。息が止まるまで、長い時間はかからない。終わったあと、女は必ず、顔を確かめた。

見覚えのない顔。

名前を知らない顔。

それだけで、十分だった。

遺体は、塔の裏手に運び込まれた。死者の搬入口は常に開いており、女が何を持ち込んでも、誰も咎めなかった。

机に戻ると、胸の内のざわめきが、ようやく静まる。


名前。

年齢。

死因。


名前の欄には、書けるものがない。

それが、何よりも心地よかった。

空白は、彼女自身の輪郭と重なった。書けないことが、正しさになった。

女は、そうした記録を増やしていった。

塔に積まれる「名のない死者」は、目に見えて増えたが、管理官は何も言わなかった。ただ、羊皮紙の補充が多くなっただけだった。

やがて、女は外に出る頻度を上げた。

書く量が足りない。

夜明けまで机に向かっても、満たされない。胸の空洞が、埋まらない。紙が足りない。死が足りない。

街の人々の顔が、次第に文字の並びに見え始めた。額に名前の欄があり、胸に年齢があり、喉元に死因がぶら下がっている。

触れれば、書ける。

そう思うと、指先が熱を帯びた。

だが、数が増えるにつれ、失敗も増えた。目撃者が出た。血の跡が残った。噂が広がった。

「夜に、人が消える」

「塔の方角で、変な物音がする」

女はそれを、遠い出来事のように聞いていた。

自分は、書いているだけだ。

記録を、整えているだけだ。

ある晩、女は逃げ遅れた。

路地の奥で、人影に囲まれた。怒声と恐怖と憎悪が混ざった視線が、一斉に向けられる。

誰かが叫んだ。

「そいつだ」

次の瞬間、衝撃が走った。鈍い痛み。視界の揺れ。倒れ込みながら、女は床を見つめた。

石畳の隙間に溜まった黒い汚れが、文字のように見えた。

書かなければ。

その衝動だけが、最後まで消えなかった。

女は、血に濡れた指で、自分の腕をなぞった。


名前。

年齢。

死因。


どれも、書けなかった。

朝、塔の裏口に、女の遺体が運び込まれた。

誰が、どう運んだのかは、記録に残らない。

机の上には、新しい羊皮紙が置かれた。


名前。

年齢。

死因。


管理官は、無言でそれを書き写した。

名前の欄は、空白のままだった。


塔は、その日も静かに稼働し続けた。

死者の名を記すためだけに。

そして、記す者の名を、最後まで必要としないまま。

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― 新着の感想 ―
「名前・年齢・死因」の反復が、書記官から個人の輪郭を奪い、やがて死を作り出す衝動へ変わっていく流れが恐ろしかったです。彼女自身も名のない記録となり、塔だけが動き続ける結末に制度の冷たさが凝縮されていま…
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