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辺境三若記  作者: 芳美澪
55/82

55話 侵略

松明(たいまつ)の炎は息を潜めるように揺れている。集会所の天井に伸びる影が、時間をゆっくりと引き伸ばす。外では時折、見張りの足音が響き、焚火が()ぜる音が駆け抜ける。だがここは別世界だ。ここにいる者たちはただ、報告を待っている。


砦衆に男爵家への侵攻を命じてから数日が経った。頭とイケメンの協議を経てすべての準備は整い、後は子爵家への本格侵攻が始まれば動き出す予定だった。そして、遂に北の男爵家による子爵家への侵攻が始まったとの報せが来た。


そこからは一気に砦が慌ただしくなった。イケメン部隊は子爵家へ、砦衆は主力を北の男爵家へと向けた。ここで想定外が発生した。家将が参加すると表明したのだ。次兄から話を聞き、駆けつけたらしい。気持ちはわかる。前回の敗北で辛酸(しんさん)を舐めさせられたのだ。一矢報いるにはここしかない。


そうなると自動的に次兄たちも部隊に編入された。砦衆四十名、次兄と家将たちの二十五名、総勢六十五名による北の男爵家領への侵攻が開始された。


松明の灯りが届かない隅で、うさ耳が茶を淹れている。湯気が薄く立ちのぼり、すぐに夜気(やき)に溶けた。犬耳は外の気配を確かめるように何度も扉の方を見る。委員長は地図を広げては閉じ、開いてはまた閉じる。誰もが何かをしていないと、心の置き場を失うのだ。


令嬢は壁際の椅子に腰掛け、両手を膝の上で重ねていた。目を閉じて祈っているようにも見える。その姿は気丈だが、震える指先が、彼女もまた「待つことしかできない者」のひとりであることを語っていた。


――命を懸けられるか、と言ったのは俺だ。覚悟を問うたのも、言質を取ったのも、他でもない俺だ。けれど、いまこうして何もできずに座っているのは他でもない俺だ。


命を懸けるという言葉の重さを、あの時わかっていたとは言えない。“命を懸けれるか”と口にしたのは、まるで他人事のようだった。命令する側の覚悟――それが何か、ようやく思い知りはじめている。


戦っているのは彼らだ。俺の言葉を受けて、北の戦場に踏み出した者たちだ。そして、ここに残って息を潜めている俺は、ただの臆病者だ。令嬢は自分を臆病者だと卑下(ひげ)したが、本当に臆病で卑怯なのは俺だ。何もせず、何も覚悟せず、何も代償として差し出さず、その上で偉そうに他者を死地に向かわせた。


この戦いは勝てる━━と思う。なぜそうなったかは不明だが、北の男爵陣はこちらを全く見ていない。今回の奇襲は完全に裏をかいたはずだ。そしてイケメン部隊の援軍も同様だ。まさか侯国側で味方の子爵が襲ってくるとは夢にも思わないはずだ。だが、それでも戦場に絶対はない。思わぬ伏兵や流れ弾に当り、誰かが死ぬかもしれない。


仮に勝ったとして、主力が領地を取り戻そうと攻めてこないとは限らない。そうなれば激戦となる。誰かが死ぬ。そうさせたのは俺だ。


うさ耳が俺の前に茶を置いた。湯気が立ち上り、そして消える。それを眺めていると犬耳が入口を気にする仕草を見せた。直後に砦衆の男が入ってきた。


「ご報告します。男爵家への侵攻が始まりました」


遂に始まった。作戦は簡単だ。砦衆の息がかかった浮浪者数人により、領地内で火を付けて騒ぎを起こす。領地内が混乱したのを見計らって、一気に攻め込むだけだ。主力部隊と違い、留守を預かっている兵のほとんどは農民のはずだ。数は負けるが、質はこちらの方が上だ。普段から実戦に身を置くものと、そうではない者との差は大きい。


更に言えば、次兄たち兵士の士気も高い。むしろ高すぎるほどだった。前回の王都出兵時は後方支援だったので、実際には戦っていない。不完全燃焼だったのだろう。ここを出ていくときの兵士たちの眼は鬼気迫るほどだった。


どれほど待ったのか、もう分からない。一時間にも満たぬようでいて、半日ほども座っていたような気もする。松明の炎だけが、確かに時を刻んでいた。あれから報告は来ていない。今頃、戦っているのだろうか、それとも既に占領し終わっているのだろうか。


失敗し、全滅している可能性もある──その考えが頭をよぎる。胸の中の何かが凍り付く。握り締めた拳の血が早鐘(はやがね)のように鳴る。もし砦衆が還らなかったら、この砦は無防備になる。子爵領救援どころではない。北の男爵たちが次に標的にするのはここだ。


だが、守る兵も仲間もいない。村が焼かれ、民が逃げ惑い、蹂躙されるだけだ。想像するほどに、吐き気がするほどに現実味を帯びてくる。


俺は何を期待していたのだろう。噂と誤解に乗じて敵の目を逸らし、巧みに勝利を掴む――そんな劇的な勝ち筋を。だが現実は、絵空事ほどに綺麗ではない。奇襲が上手く行くこともある、しかし穴もある。伏兵が現れるかもしれない。主力が引き返してくるかもしれない。


この戦いは本当に必要な事だったのだろうか。やるべきではなかったのではないか。


後悔は遅れてやってくる。本当に遅い。命令を出した瞬間は確かに冷静で、理屈を積み上げているつもりだった。だが時間が経つと、理屈は薄くなり、生の重さだけが顔を出す。それはなぜか。俺が知ったつもりだったせいだ。わかったつもりだったせいだ。


なにもわかっていないくせに━━


そこへ、扉が勢い良く開いた。土埃を纏った男が、一息に駆け込み、胸を押さえながら言葉を吐き出す。


「ご報告します! 男爵家、陥落しました!」


開け放たれた扉から見えた空は既に明るさを取り戻していた。

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