水の通知
午前2時すぎ。
カップに入れたインスタントコーヒーが
湯気を立てていた。
パソコンの画面には
「ホラー作品の脚本指導:提出課題」
と書かれたPDF。
律は溜息をひとつ吐いてから、スマホに目を移す。
そのときだった。
バイブ音が、机の上で控えめに響いた。
【水の使用量:昨日より23.2L増加しています】
見慣れない通知。
送り主は「miz-no」とだけ表示されている。
そんなアプリ、インストールした覚えはない。
不思議に思ってアプリ一覧を開いたが
どこにも“miz-no”のアイコンはなかった。
律「……は?」
再度通知を見るが
そこにはもうひとつ追記されていた。
【深夜2:12 シャワー使用】
律は、顔をしかめて浴室に目をやる。
扉は半開き。中は真っ暗。
でも──かすかに、水の音がしていた。
律「……水の音……?」
律は立ち上がり、ゆっくりと浴室の扉に近づいた。
ドアノブに触れる指先が、無意識に強張る。
ギィ……と音を立てて扉を開ける。
中には、誰もいない。
シャワーも蛇口も止まっていた。
ただ──
床のタイルが、うっすら濡れていた。
翌日朝9時。
部屋の隅から差し込む日差しが眩しすぎて
律は腕で顔を覆いながら起き上がった。
頭がぼんやりする。
けれどスマートフォンの通知だけはしっかりと
目に飛び込んできた。
【水の使用量:昨日より21.9L増加しています】
【午前2:14 洗面台使用】
律「……またかよ」
miz-noの通知は、昨日だけじゃなかった。
日付をまたいだ今も、相変わらず
“水の使われた記録”を送りつけてくる。
しかも時間がどんどん具体的になっていた。
“何時に”“どこで”“どの水を”使ったのか──
律「本当に誰か入ってるのか……??
いや、でも鍵閉めてるし…てかこのスマホ
どうしてこんなバッテリー減るの早くね??」
律はロック画面の表示に目を細めた。
たしかに昨夜は動画もゲームもせずに
寝たはずなのにバッテリー残量は30%を切っていた。
設定を開いても
夜中に何かをしたような履歴は見当たらない。
水の音、通知、濡れた床、バッテリーの異常。
どれもひとつひとつは“勘違いかも”で
片づけられるけれど全部が連続していることに
律の中の“脚本家としての嗅覚”がひっかかっていた。
──あの夜中の音。たしかに、聞こえてた。
──「ぽた…ぽた…」って、水の滴るような音。
考え込んだ末に、律はスマホを手に取った。
録音アプリを起動し、バスタオルの下にセットする。
カメラじゃない。ただの音声。
誰かに見せるつもりもない。
それでも、“何か”が録れるかもしれない
そんな気がしていた。
そしてその日の夜──
深夜2時。
律は、ベッドに横になりながら目を閉じていた。
録音はスタートしている。
あとは、待つだけ。
時間が過ぎていくにつれ
部屋の空気が妙に湿ってきた気がする。
窓もエアコンも閉め切っているのに、空気が重たい。
──ぽた…ぽた…
始まった。
昨日と同じ音。
どこか遠くけれど確かに
浴室の方向から聞こえる水音。
律は目を開けず、そのまま呼吸をひそめた。
何も考えないようにしていた。
けれど耳だけは、鋭くその音に集中していた。
──ぴちゃっ……
シャワーの水滴が床を打つような音。
それが、一歩ずつ近づいてくる。
──ぴちゃ…ぴちゃ…
足音?
水に濡れた足の裏が、床を踏むような音。
──それがスマホのすぐ近くで、止まった。
律は、何も言わず朝を待った。
眠れなかった。
翌朝。
録音を再生する。
最初は静寂。そして…水音。
確かに録れていた。
ぽた…ぽた…
ぴちゃ……ぴちゃ……
そして、ラストに録れていた音。
──くぐもった声のような
女の何かを囁くような“濁った音”
律「……これ、何?」
録音した音声を繰り返し聴いて
律は机に突っ伏した。
あの最後の音。
確かに、水音と足音の後──
“何かを囁く声”がかすかに残っていた。
それは機械のノイズとも、外の雑音とも違っていた。
耳にまとわりつくような、濁った女の声。
律は映像学部の学生だった。
“見ること”を恐れてはいけない。
恐怖と少しの好奇心から
そう、自分に言い聞かせるようにして
アクションカメラを手に取った。
*
夜。
午前1時45分。
浴室の前に三脚を立て、カメラの電源を入れる。
浴室の扉は、10cmだけ開けておいた。
レンズの向こうに見えるのは
明かりの灯る脱衣所と、その奥の鏡。
録画スタートのランプが赤く点灯する。
律はそのまま、ベッドに戻った。
寝るつもりはない。
ただ目を閉じて音に集中する。
──ぽた…ぽた…
まただ。
2時を過ぎたあたりで
決まったように“あの音”が始まった。
昨夜と同じ“ぴちゃ…ぴちゃ…”という足音が
ゆっくりとカメラのほうへ近づいていく。
……律の心臓の音だけが、やけにうるさい。
*
朝。
録画は、正常に終わっていた。
再生バーを少しずつ動かしながら確認していく。
最初の15分は何もなかった。
けれど、2時12分。
シャワーのフックが、ゆっくりと揺れた。
──ガタンと音がして
シャワーヘッドがわずかに傾く。
誰も触れていないのに。
その直後、
鏡の中に **“濡れた長髪の女の頭が
鏡越しにだけ”**映っていた。
律は一時停止し、画面を拡大した。
浴室の中には誰もいない。
でも鏡には、確かに自分の姿と
**“自分の隣に立つもう一人の姿”**が映っていた。
背後には、誰もいなかったはずなのに。
その瞬間、スマホが震えた。
miz-noからの通知が届く。
──【午前2:13 鏡の前に“あなた”と、もうひとり】
*
午前中の講義が終わったあと
律は教授に声をかけた。
映像の課題とは別に見せたいものがある、と。
「ちょっと、変な動画なんですけど──」
そう言って、アクションカメラの映像を見せる。
録画時間は深夜2時すぎ。
映っていたのは誰もいないはずの浴室と
鏡越しに浮かぶ“もうひとりの女の姿”。
再生中、教授の表情がピタリと止まった。
目線は画面に釘付けのまま、息を呑むように。
教授「……この子、見覚えがある」
律「え?」
教授は律のスマホを手に取ったまま
ゆっくりと続けた。
教授「去年、この部屋に住んでた学生
たしか名前は──佐久間瑞季。」
彼女も映像学部の子だった。
卒業制作でホラー映画を撮ってて……
この子急に音信不通になって
そのまま行方不明になったんだよ」
律の背筋に冷たいものが走った。
律「それって、もしかして
……俺の部屋に住んでたんですか?」
教授はうなずいた。
教授「住所まで把握してないけど
たしかに“風呂場で撮影中に異変があった”
って話は、聞いた」
そのとき、またスマホが震える。
──【miz-noからの通知】
律は恐る恐る画面を開く。
【午前2:13 鏡の前に“律”と、“瑞季”】
指先が、止まった。
通知の中に──“女の名前”がはじめて明記された。
鏡に“自分じゃない自分”が
映ってから2日が経った。
律は録画も録音もやめ、浴室にも近づかなくなった。
miz-noはあいかわらず毎晩、通知だけを送ってくる。
──【午前2:13 洗面台の曇りを拭う音】
──【午前2:14 鏡の前に律と瑞季】
──【午前2:15 瑞季、律を見つめる】
通知の文面がまるで
誰かの日記のように変化している。
律はもうスクリーンショットすら
撮ることができなかった。
“miz-no”のアイコンは突然ホーム画面に
現れ、削除もできなくなっていた。
水の使用量はゼロのはずなのに
通知は毎晩増えていく。
──まるで“律の記録”がmiz-noの中で
書き換えられていくみたいに。
その夜律は鏡の前に立った。
浴室の照明をつけ曇ったガラスに
自分の指で言葉を書いた。
──“誰だ”
数秒後、鏡の曇りがふっと拭われた。
律が書いた文字は消え
代わりに水滴でこう書かれていた。
──“わたしは みずの なか”
その瞬間、スマホが震えた。
miz-noからの新しい通知。
──【午前2:16 鏡の中の律が笑った】
律はもうわかっていた。
miz-noは、ただの怪異じゃない。
これは、“人を記録するための器”だ。
名前を、動作を、姿を、時間を──
すべてを記録し、鏡の中に閉じ込める。
スマホの電源を切ろうとしても
miz-noだけは消えなかった。
通知は止まらず
律の動きまでもリアルタイムで記録しはじめた。
──【午前2:22 律、鏡に向かって手を伸ばす】
──【午前2:23 律、確認中】
律「……確認中って、なにを」
ふと鏡を見ると、自分が自分をじっと見ていた。
顔は同じなのに、表情が違った。
まるで先に“向こう側”へ行った自分が
こちらを試しているような目だった。
律「……っ」
後ろに下がろうとした瞬間
スマホに最後の通知が届く。
──【午前2:24 鏡の中の“君”は、もう出られない】
そして鏡の中の律が、にこりと笑い、手を振った。
*
翌朝、律の部屋は静まり返っていた。
ただ、スマートフォンのmiz-noアプリだけが淡々と
通知を送り続けていた。
──【午前8:00 律、記録完了】
──【次の記録対象:後任を検索中】
私にとって#夏のホラー2025 は
初めてのイベント参加になります!!
そして初めてホラーに
挑戦させていただいた作品となっております。
もしよろしければ感想やアドバイス等で
ご連絡いただけますと嬉しいです!!