言っても伝わらない気がする
3月◯日 曇り
朝一番か遅い時間に行ってみたらどうだろう。
注文を取りに行った帰り、店の裏手の細い通りに若い女性がいた。見たことの無い顔なので近隣の住民では無さそうだ。
その女性の足元に黒と白の二色模様の猫がいて、尻尾を立て女性の足に体や頭を擦り付けていた。ずいぶんと女性に慣れているなと思った。
この猫は確か「竹籠」という喫茶店で飼われている猫だったはず。額に小豆ほどの大きさの黒い点々模様が二つあるので、名前は「小豆」という。
うちの店よりかなり離れた場所に喫茶店はあって看板猫だと聞いたことがある。店から離れたこんな場所まで小豆の縄張りなのだろう。たまに小豆をこの辺りで見かける時があった。
女性と、その女性にじゃれている小豆の横を通り過ぎようとした時に、ふいに女性が声を掛けてきた。
「この子、小豆って言うんです」
自分に言ってるのだろうかと立ち止まると
「この子、もうこの場所からいなくなっちゃうんですって」
「え、そうなんですか?」
女性は誰かにそのことをどうしても伝えたかったのだろうか。立ち止まり少し話を聞いてみることにした。
「あっちの方にある喫茶店の猫ちゃんなんですけど、お店をしめちゃうそうなんですよね」
「そうなんですか……」
それは知らなかった。
うちはこちらの喫茶店とはあまり付き合いがなかったが、確か夫婦で経営をしていたと思った。一度だけ家族で行ったことがある。店は少し狭かったが落ち着いた雰囲気の静かで良い店だったと記憶している。
女性はその場にかがむと小豆のあごを撫で始めた。小豆は気持ち良さそうに目を細めてあごを女性に預けている。
「何でも経営がうまくいかなかったみたいで……お店を閉めて田舎に帰るって。来月の末で閉店するそうなんです」
「そうですか……それは残念ですね」
常連客だろうか。通っていた店が無くなるのはさぞ残念だろう。
「私、いつもここに来るとこの小豆ちゃんに餌をあげてて。喫茶店の方にはあまり行かなかったんですけどね。こんなに懐いてくれたのに寂しくて」
「え? あまり行かなかった……」
「お店、席が少なくていつも満席なんですよね」
喫茶店の方にはあまり行かなかった。
この人は何を言っているのだろうかと思った。喫茶店に行かないと店の売上にはならない。猫とここで戯れていても店には一銭も入らないのだが……。
女性はしゃがんだまま小豆のあごをずっと撫でている。
「小豆ちゃんはおじいちゃんの猫ちゃんで。お引越しは体力大丈夫かなって心配なんです」
「これから喫茶店の方には行かれるんですか?」
「いえ、今日は小豆ちゃんと遊んでから帰ります」
「そうですか……」
「お店が無くなっちゃうのはとても寂しいですね。小豆ちゃんともお別れかぁ」
女性は小豆の首を両手で撫で回している。小豆は目を細めたままごろんと横になった。お腹を見せるようにして地面に体をこすりつけている。女性に心を開いているようだ。
『あの……』
声が出かかったが、口には出さなかった。
貴女がここで猫と遊び、喫茶店で飲食しないから店は閉店するのではないかと思った。
たぶん言っても伝わらない気がする。自分で商売をしたことのない人にはこの気持ちはわからないだろう。
「あ、小豆ちゃんもしかしてお腹空いてるかな? こんなに甘えてるもんね。もぅ、本当にこういう時だけ甘えてくるんだから」
女性は赤ん坊をあやすような甘ったるい声を出し、持っていた鞄の中から煮干しを取り出した。
寝転がっていた小豆は待ってましたとばかりに起き上がり、即座に煮干しをくわえるとばりばりとかじりだした。勢いよくかじっているので煮干しの頭や破片が地面にぱらぱらと落ちている。
「食べ残しはちゃんと持ち帰ってます。たまに餌をあげたらあげっぱなしで帰っちゃう人がいるんですよね。本当、行儀がなってないですよね。周りに住んでる人達にも迷惑かけますし」
この女性は自分は正しいと心から思っているようだった。もう、何も言うことはない。
「すみません。もう行きますね」
「こちらこそ、引き留めてしまってごめんなさい」
「引越しが無事に終わると良いですね」
「ええ、本当に」
女性と別れ、細い通りを足早に進み、ふと後ろを振り返る。女性はまだしゃがみながら小豆を撫でていた。
閉店前にもう一度喫茶店へ行こうと思った。その時は珈琲を注文しよう。
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