便所は用を足すところです
12月⬜︎日 晴れ
落ち着くのは落ち着く。
公園の横を通り過ぎようとしていた時だった。
「あーっ! 誠一郎さん! 良いところに」
草履をぱたぱたと鳴らし、慌ただしく駆け寄って来たのは店の裏手に住み込みで働いている弥生さんだった。ひどく慌てた様子だ。
「あの、その! 公園で! 声が聞こえて! 声が聞こえたんですっ!」
「ちょっと、落ち着きましょう。公園で声が聞こえたと?」
「そう! うめき声が聞こえて! そこの公園の」
「公園の中ですか? 外ですか?」
「公園のお手洗いの中で!」
「それは大変だ。行きましょう」
荷車をその場所に置き、弥生さんに連れられて近くの公園の便所までやってきた。中で人が倒れでもしていたら大変だ。
「声が聞こえたんですけど……」
弥生さんが自分の袖をしっかりと掴んでいるので身動きがとりにくい。彼女に頼られているのが嬉しいような、気恥ずかしいような……何とも不思議な気持ちだ。
耳を澄ましながらゆっくりと便所に近付く。自分達の地面の土を踏み締める音に混ざり、かすかに
「ううん……うん。うぅん……」
人のうめき声が聞こえた。
「あのぉ……どなたかいらっしゃいますかー? 大丈夫ですかー?」
「……うん?」
「お手洗いの扉を開けても大丈夫ですか? 手助けはいりますか?」
中からの声はぴたりと止んだ。しかし、人のいる気配がする。声の様子からして男性のようだった。
「男性みたいですね。意識はありそうですよ」
弥生さんの方を振り向くと彼女は静かにうなずき、しっかりとつかんでいた自分の袖から手を離した。
そのまましばらく待っていたが、便所の中から人が出て来る様子は無い。
「どうしましょう?」
「このまま放っておくわけにも……心配なので扉を開けてみます」
彼女は数歩いや、数十歩以上後ろへ移動した。かなり遠くから心配そうに見つめている。
弥生さん……遠すぎやしませんか。
自分に何かあった際に彼女はきっと助けてはくれないだろうけれど、中からはそんな危険な者は飛び出して来ないだろうと無理やり思うことにした。
怖くはないと言えば嘘になるが、弥生さんの手前、少し格好をつけなければいけない気がした。
「あのー、大丈夫ですか? 心配なので開けますよ」
「む……いや、それは困る」
「え?」
先ほどよりもはっきりとした返答が返ってきた。そしてすぐに扉が開き、中からは男が出てきた。男は後ろ手にすぐに扉を閉めた。
「中からうめき声が聞こえたもので。大丈夫ですか?」
男は両腕を組み、じっとこちらを見つめている。
「……特に問題は無い。私はここで書き物をしていた」
どこか憮然とした表情に見えた。まるで男に声を掛けたのが迷惑だと言われている気がした。自分は間違ったことをしたのだろうか……。
いや、そんなことは絶対にない。人を心配する気持ちに間違いなどあるものか。
「今、片付ける」
中から男が出てきたのを見て、遠くにいた弥生さんは近付いて来た。
「何かあったんですか?」
「いえ、中で書き物をしていたとか……」
「えぇ? 何ですかそれ」
小声で話していると、便所の中から再び男が出てきた。手には書物と紙や文房具を持っている。どうやら本当に中で作業をしていたらしい。
「外の音を聞きながら落ち着いて……はかどっていたのに。もう、よいです。帰ります」
男は悪びれる様子もなく捨て台詞を言いながら便所の扉を力任せに閉め、足早に立ち去って行った。
「えーっ! 聞きました! 今の? まるで私達が悪いみたいな言い方!」
「何でこんなところで……ちょっとよくわからないですね」
「声を掛けて無かったら、あの人ここで暮らすつもりですよ! 信じられない! 汚い! 変ですよ。変な人!」
弥生さんはぷりぷりと怒っていたが、とにもかくにも大事に至らなくて良かった。
「こんな外にある便所で何を書いてたんですかね」
「ここ公園ですよ。あんなのがいたら怖くて子供達が近寄らなくなっちゃう」
「別の用を足してたみたいですね。驚きです。あはは」
「笑い事じゃないですよ。会長さんに言っておこうっと。あー、やだやだ。腹立つし!」
便所は用を足すところだが、何やら別の使い方をする人もいるようだ。自分の思いもよらない発想をする人もいるのだと驚いてしまう。
しばらくして例の便所の前を通りかかった時、便所の扉には張り紙がされてあるのを見つけた。
『別の用途で使わないで下さい』
その後、便所の中からうめき声が聞こえてくることはなくなり、公園からはいつも子供達の賑やかな声が聞こえていた。
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