次から次へと出てくる
四月二十日 晴れ
なぜそんな風に考えたのだろう
午前中に行きましょうと時間の約束をして、まだその時間にはなっていないのに目が覚めて起きてからずっと落ち着かない。
今日は店も休みで母親は朝からどこかに出掛けてしまった。父親はまだ起きて来ない。弥生さんは時間になったら店に立ち寄るとのことだった。
住まいは店の奥にある。
奥にいたらきっと人が来たのに気付かないだろうと、こうして誰もいない店内に一人でいる。やる事も無いので帳簿をめくっては眺めているが何にも頭に入って来ない。ただ書かれている数を眺めているだけだ。
時々、すりガラスの戸に人影が映るが通り過ぎるばかりで人影が見えると顔を上げ、そしてまた帳簿に視線を戻すことを何度も繰り返している。
ふと人影が戸の前で立ち止まり手を掛けた。明るい朱色の帯をつけているようだ。弥生さんだ。慌てて立ち上がると同時に、手にしていた帳簿がばさと床に落ちた。
店の戸が少し開けられ、人懐こい顔が隙間から見えた。
「あ、誠一郎さん。おはようございます」
「おはようございます」
近付き戸を開けると、朱色の帯に水色の着物が目に入った。普段の装いとは違う彼女の姿に面食らってしまった。
いつもは草色の着物に薄茶色の帯をつけている。それはそれで慎ましく愛らしい姿をしているが、見るからに上等な帯と着物で特別な装いをしたのだとわかった。
「見て下さいこれ。ご主人に貰ったんです。どうです?」
弥生さんはそう言いながらその場でくるりと一回転をした。
「とても似合ってると思います」
これはお世辞でも何でもなく本心から出た言葉だった。
彼女はそれを聞いて満足そうに微笑んだ。
下に落ちた帳簿を拾いながらそう言ったが、顔を見て目を合わせてしまうと照れてしまいそうで、ぽつりとそう言うので精一杯だった。聞こえていないかもしれない。
「混むといけないですし行きましょうか」
「はい」
店を出て、二人で北の方へと向かう。喫茶竹籠は商店街から少し離れた場所にある。
自分の歩幅で歩くと後から弥生さんがついてきた。
どうも自分の歩く速さが早いらしい。これは彼女の歩く速さに合わせないといけないと思い、少しもどかしいなと感じつつも弥生さんの歩幅に合わせることにした。
並んで歩いている弥生さんをふと見ると、小柄で自分なんかよりもずっと華奢だと思った。自分はそんなに背の高い方でもなく、身体つきも立派ではないが、彼女は自分よりもさらにほっそりとしていて、重い荷物を持つのはさぞかし苦労するのではないかと感じた。
もし、店で働くとしたら店番だなと思う。算盤は得意なのだろうか。朗らかな人だからきっと店のお客さんとも上手くやっていけそうだ。
「誠一郎さんは何か食べたいものとかあるんですか?」
話しかけられ、我に返った。
「え、あ……閉店すると聞いてたので最後に行っておきたいなと」
なぜ自分は弥生さんのことをあれそれ考えているのだろうと我に返った。まるで将来のお嫁さんになるみたいじゃないか……。
そんな気持ちを悟られまいと、視線は前を向けたままだった。
「そうなんですね。私はオムライスとパンケーキ……お金はご主人から貰って来たのでご馳走様してもらわなくて大丈夫です。ご馳走様してもらうだなんてお給金を払ってないみたいだからやめなさいって止められました」
「そうですか……でもここは払います。付き合ってもらってますし、それに……」
わざわざ素敵に着飾って来てくれているし、そんな姿を見て自分も嬉しくなった。
「あれ? 竹籠ってあそこですよね? お店やってないんですかねぇ……」
立ち止まった弥生さんが不安げに言ったが、入り口には看板が立て掛けられていた。看板には「竹籠」と書かれている。
「いや……やってはいるみたいですけど……」
店の入り口前には陶器に入った植物がいくつか置かれているが全て枯れていた。
店の横にはすっかり葉桜になりつつある桜の木があり、入り口に置かれた枯れた植物と相まって不気味な雰囲気を醸し出している。
この店は営業しているのかと弥生さんがいぶかしく思うのも無理もない。
入り口の枯れた植物をそのままの状態で放置しており、飲食を提供するような店構えでは無いと思った。
「とりあえず入ってみましょうか」
自分が先頭に立って店の中に入るには少し抵抗があったが、弥生さんを先に行かせるわけにはいかない。
引き戸に手をかけ、戸を横にすべらせた。
思ったよりもするりと戸はあいた。
「こんにちは……」
中を覗くと、一番奥のカウンター席に一人の人が座っていた。