何かって何ですか
四月二日 晴れ
少しの不安と弾む気持ちと
自分では意識はしておらず、普段通りに過ごしているがこのところお客さんから「何かあった?」と言われることがある。つい昨日のことだ。
「誠一郎さん、何かあった?」
「何かって何ですか?」
「え、何って私が知るわけないじゃないのよお。もう、嫌だわぁ」
お客さんは商品を受け取るとけらけら笑って店から出て行った。
正直に聞き返しただけだったが、自分がおかしな返答をしたのだろうか。こんな事を言われるのが日に数回あった。
「……誠一郎さん」
「ん? はい」
夕方になる前の早い時間から店の隅にある椅子に座り、本を読みながら酒を飲んでいた桜井さんが本をぱたりと閉じた。
「はー、何か春って感じね!」
「そうですね。暦も四月ですしね」
「違う違う。そうじゃないって」
桜井さんは少し酒が回っているらしく声が大きい。
「にやけてるとまではいかないけど、出ちゃってるんだよねぇ。別に良いんだけどさ。私、誠一郎さんが何でそんな春めいてる感じなのか知ってるからなぁんかつまらないなー! つーまらないなー!」
人を見てつまらないとは失礼な。
桜井さんは椅子に座りながら大きく両手足を伸ばした。床に両足をたんと勢い良くおいた反動で立ち上がると、「ごちそうさま」と言って早々と店から出て行った。
出ているとは、何が。何が出ているのだろう。まさかよだれとか……。
急に心配になって口の周りを触ってみたが、よだれは出ていなかった。
こんなに他の人から指摘されるということは何か自分に問題があるのだろう。指摘してくる人達はそんなに深刻そうに言ってもこないので大した内容でもなさそうだ。春は変な人も多く出没する季節なので自分も気を付けなければ。この店に何かあってご先祖様に申し訳が立たない。
「こんにちは。白波って二本置いてあったりしますか?」
店に入って来たのはお隣りの「鮨処岩松」で見習い修行中の修さんだった。店で提供する酒が無くなった時は彼がいつも買いにやって来る。
「いらっしゃい。ありますよ。今日は良く出たんですね」
「皆さん食事と一緒に飲みたいようで今日は本当に良く出るんですよ。こんなに出るのは珍しいですけど」
下り酒の『白波』は料理の味を引き立たせ、すっきりと爽やかで評判が良く、商店街の居酒屋や料理屋などによく卸している。
修さんからお代をもらい、釣りを返すと白波の置いてある棚に手を伸ばした。当店の看板商品なので目の高さの位置にある。
「何か……誠一郎さん、雰囲気が明るくなりましたよね。何か良い事ありました?」
「何か良い事ですか? 良い事……」
「はい。何て言うか、花が咲いた感じって言うか。背中がふわぁと楽しそうに見えますよ」
棚から取った白波二本を修さんに渡す。
「花が咲いた感じ。それはどういう……」
ふと、考える。良い事って何だろうか。
最近は暖かくなってきたからか体を動かすのも気分が良く、いつもより早い時間に配達が完了することだろうか。両親も共に元気だ。健康は何ものにも代え難い。確かに土壌が良くなければ野菜も植物も咲かないだろう。なるほど、花が咲いたような感じとは上手い例えをするものだ。
「確かに健康ですね。健康でいられることには感謝しています」
「ぷっ……ちょっと、こほん」
修さんは吹き出すのを堪え、誤魔化すように咳払いをした。
「健康では花が咲いた感じにはならないと思いますけど。ん? なるかな? まぁそういう人もいるかもしれませんけど、そうですねぇ……俺なら給金が多く貰えた時とか。美味しいものを食べた時。あとは好きな子との逢引きとかですかねぇ」
「あ、逢引き!?」
思わず上擦った声が出てしまった。
「お、大当たり。相手はだいたい分かりますんで言わなくて大丈夫です。で、どこに行くんですか?」
相手がわかるとはどういう事だろう。恋心を抱いている相手はいない。急に心臓がどくどくと脈打っている気がしてきた。
弥生さんとは喫茶店に行く約束はしたが、恋心は抱いていない。しかし、周りの人が見てわかるくらいにうきうきそわそわしていたというのか。花が咲いているように見えるくらいに。
そんな自分に急に小っ恥ずかしくなってきたと同時に、弥生さんに急に申し訳ない気がしてきた。
「で、どちらに行くんです?」
「……竹籠に」
修さんはしばらく考えて、
「お、竹籠ですか。はいからですねぇ。俺、行ったことないんですよね。楽しんで来て下さいね」
軽く会釈をして店を出ようとした時、何かを思い出したように急に立ち止まった。
「そう言えば、竹籠はお客さんから変な話聞いたことあるんですけど。何か店をやってる夫婦が前の人と入れ替わってるんじゃないかって。俺は行った事ないんでわからないですけどね。何でそんな噂が出るんですかね。変な話ですよ。ははは」
そう言って暖簾を押し広げ店から出て行った。
些細なことで噂が噂を呼び、話に尾ひれがつくこともしばしばある。修さんの言っていたこともどうせその類だろうと特段気にもとめていなかった。
自分の生まれ育ったこの町にそんな不可解なことがあるわけがない。
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「喫茶店竹籠」にまつわる話はもう少し続きます。