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アイラブユーの命日  作者: 日逢藍花
第二章 不可能なもの
9/11

iv

「いい月だな」


  街灯が眩しくて、僕は片腕で(ひさし)を作った。


 隣を見ると、ナガシマさんも左手を頭の下に組んで仰臥していた。


 彼はもう片方の手で夜空を指差していた。僕は釣られてそちらを向いた。

 

 満月だった。


 その金塊のように輝く衛星は、街灯にも劣らぬ明るさで煌々と輝いていた。


 人類はついに月面までを開発する技術力を手に入れたが、夜空に浮かぶ姿形の美しさはいつまでも変わることがない。


「……この世界は、そのままでは耐えられない代物だ。だから俺には月がいる、あるいは幸福、あるいは不死、常軌を逸しているかもしれないが、この世のものではない、何かが必要なんだ」


 その言葉はゆっくりと、しかし一言ごとに噛み砕くような力強さが込められていた。


 何かの小説——いや、戯曲の台詞だということは察することができた。


「酔いでも回ったんですか?」

 

 僕は軽口を叩いた。ナガシマさんはいつになく真面目な顔で首を横に振った。


「昔読んだノーベル賞作家の戯曲にあった言葉だ。古代ローマの皇帝だった男が主人公の作品だった。この不条理なこの世界を報いるためには月が必要だと男は言う。彼はそのために、文字通り世界を敵に回した。結局、最期に男は月を手にいれることができたのか?」


 それが僕に向けられた問いではないことは、なんとなく察することができた。


 僕は閉口して、彼の言葉を頭の中で反芻した。いつも飄々としている彼には似つかわしくない酔い方だった。


 水でも飲んでくださいと言おうとしたが、その言葉は途中で誰かの声に阻まれた。


「……何も分かっていない。最後までそれで通さないから、何一つ手に入らない。最後まで理屈を通す、それだけで、たぶん充分だ」


 視界の奥にあった月に人影が落ちる。


 見知らぬはずなのに、どこか懐かしさを感じる顔が僕を覗き込んでいた。


 その正体を認めて、僕は飛び起きて身構える。まさかとは思った。しかし確かに目の前には、池崎さんを殺したあの少女が立っていた。


「望月、どうした?」


 ナガシマさんが怪訝な顔で僕を見た。


 まるで突然現れた目の前の少女に気がついていないかのような反応だ。


 僕の疑問に気づいたのか、少女は口を開いた。


「その人には私は視えていませんよ。〈脳錠〉を含めたBCIを装用している人間に私の姿は視えないし、声を認識することもできないんです」


 彼女は臆せずに近寄っていって、ナガシマさんの眼の前で手を振ったり、頭を小突いたりしてみた。


 きょとんとした顔をして、叩かれた頭を間抜けそうに押さえていた。


「何を言っているんだ。だったら、どうして僕にはお前が視えている?」


 その時は冷静さを失って状況が見えてなかった。


 僕は吠えるように尋ねたが、少女はなおも余裕ありげな無表情を崩さなかった。


「それは分かりません。でも、だからこそ選んだんです。助けてあげたんです」


 確かに僕たちは口約束のような何かを交わした。


 曰く、自分が人を殺すのを手伝って欲しいとか。頭が冷えた今となってはとんでもない約束——彼女は契約などと言っていたっけ——をしてしまったと反省している。


「望月、お前どうしたんだ?」


 我に返って後ろを振り向くと、ナガシマさんの奇異なものを見る目つきが突き刺さった。


 その目に冗談や演技の類はまったく混じっていないように感じた。


「……いや、なんでもないです。アルコールのせいで意識が混濁していたというか」


 適当に誤魔化そうとする。彼が開けたビールの缶は三本目に突入していた。


 ナガシマさんもそれなりに酔っていたのだろう。彼は僕の肩をぞんざいに叩いて言った。


「それもそうか。お前、今日死にかけたんだもんな」


 不謹慎なことを言って呑気に笑う彼を尻目に、「二回も」と僕は心中呟いた。


 彼は缶を公園のゴミ箱に無造作に突っ込むと、ベンチに広げたつまみをビニール袋に集めて僕に手渡した。


「持ってけ。今日は色々付き合わせて悪かったな」


 そう言い残して、ナガシマさんは片手を上げて一方的に踵を返した。


 彼の背中を黙って見送ると、それまで黙っていた少女と自然と目が合った。


 眩しい金髪のメッシュが月の光を跳ね返し風に揺れた。


 彼女は相変わらず外見とは不釣り合いな陰鬱な雰囲気を放ちながら、この世の全てがつまらないと言いたげな表情をこちらに向けていた。


「それよりも、どうしてここに?」と僕が問いかける前に、少女は口が開いた。


「すみませんが何か奢ってください。空腹で今にも倒れてしまいそうなので」


 思わず「は?」と上擦った声が漏れた。


 今まで散々不気味さを振り撒いてきた目の前の少女から出た台詞とは思えなかった。


 僕は探るように彼女の瞳を見つめたが、彼女の仏頂面にはやはり冗談めいたものは何一つ感じられなかった。


 歯痒さを感じながらも、レジ袋の中からすっかり冷め切ったパックの焼き鳥を手渡した。


 彼女は律儀にも「どうもありがとうございます」と一言断りを入れてから受け取ってから、ゆっくりと食べ始めた。


「本当に腹が減っていたのか。どれぐらい食べてなかったんだ?」

 

 ゆっくりと一口一口噛み締めるように食べていく様子は、彼女が本当に飢餓状態であった事実を物語っていた。


「一週間ぐらい、ですかね」


 彼女はなんでもないように答えた。


「一週間?」僕は目を丸くした。


「私、一種の拒食症なんです。水だけはちゃんと摂取できますが、それ以外の物は一切無理なんです」


 食料はともかく、水がなければ人間は一週間ともたない。


 その補足は逆説的に彼女の言葉に一縷の真実味を与えていた。


「でも、そんな長い間何も食べることができないというのは、拒食症なんて生易しい症状じゃない」


 彼女はようやく僕の渡した焼き鳥を食べ終えて、大きく頷いた。


 僕は考える。


 普段何も食べることができないという彼女が、なぜ今だけは食べ残しの焼き鳥を何食わぬ顔で食べることができたのか。


 本来拒食症というものは精神の病であり、絶対的な発症要因を特定することはできない。

 

 何かきっかけがあって本来の食欲を取り戻すといった、明確なスイッチの切り替えがある病気ではないはずだ。


 数時間前、彼女と初めて出会った時を思い出す。


 なぜ少女は突然意識を失ってしまったのか。


 それも彼女が極度の飢餓状態だと知った今なら納得できる。


 そういえば、池崎さんを殺害した後で彼女は言っていたはずだ。


 私は誰かを殺さないと生きていけない。


 その言葉の意味を鑑みて、僕の脳裏にありえない推論が浮かぶ。


「……もしかして、君は人を殺さないと何かを食べることができないのか?」


「信じられないような話ですが、正解です。いつもは何かを食べてもすぐ吐き戻してしまう。どんな物もゴムのような得体のしれない味の異物のようにしか感じられなくて、我慢して喉に通しても自然にすぐ吐き戻してしまう。だけど誰かを殺してしばらくは違う」


 誰かを殺して初めて食べ物が喉を通る


「そんな人間がいるんだったら、まるで……」


 怪物のようじゃないか


 呆気に取られてしまい、無意識に言葉が漏れた。


「そうですよね。まるで怪物みたいですよね」


 彼女は打って変わってうっすらとした笑みを浮かべながら、手に持っていた焼き鳥のパックを震える僕に優しく手渡した。


「でも、思うんですよ。大なり小なりみんな誰かを殺しながら生きていている。あなたも私も動物の命を奪って、死んだ肉を食べて生きながらえている」


「それはあくまで動物の話だ。動物と人間じゃ話は全然違う」


「人間には知性があるから、あなたがたまたま人間に生まれたから、人の命には他のどんな生き物よりも価値があるんですか?」


 僕は言葉に詰まった。


「いいでしょう。動物と人間の命の価値とは、という論点はこの際置いておくとしましょう。それでも、この世に弱肉強食という絶対的な規則が敷かれている以上、私たちは弱い人たちを殺しながら生きている。例えば先進国の経済利益はアフリカやアジアなどの発展途上国に住む人々の犠牲の上で成り立っています。飽食の世界に慣れ切った世界の横でどれだけ多くの人々が飢えで亡くなっているか、あなたにだって想像できないわけじゃないでしょう?」


 左手に持ったレジ袋が途端に重く感じられた。


 きっと彼女の言っていることは正しい。その言葉がどれだけ普通の人間から拒否感を持たれ、不興を買うとしてもだ。


 殺人犯の説く正論に、僕は弁駁の余地もなく押し黙ってしまう。


「道端ですれ違った気の良さそうなおじさんは、過去に部下をパワハラで電車に轢かせているかもしれない。電車で自分の正面に座った美人の女子大生は、昔同級生をいじめ抜いて屋上から飛び降りさせているかもしれない。世の中そんなものじゃないですか」


 ダメ押しのように彼女は言い切った。


「だからって君のやっていることが許されると、そう言いたいのか?」


 ようやく僕は、細々とした声で言葉を紡いだ。


 すぐに何か反論が返ってくるだろうと思っていたが、彼女は視線を上の空にやってようやく返事をした。


「別に自己弁護のためじゃありません。認めてますよ。自分が忌み嫌われるべき存在だってことぐらい」


 もう一度、僕は考える。


 目の前の少女は確かに殺人犯だ。


 しかし、今のやり取りでその印象は多少変わったと言わざるを得ない。


 今まで得体の知れない生き物だと思っていた彼女も、一つの言葉に機嫌を悪くすることがあるようだ。 


 それに待て。


 脳裏でもう一人の自分が喋り始め、僕はその声に耳を澄ました。


 お前だってもしあの時ほんの少し巡り合わせが違ったら——運が良かったら——、汀の仇を自らの手で殺していたではないか。


 お前だけは、彼女を糾弾する権利など持ち合わせていないはずだ。


「ごめん。さっきの言葉は訂正するよ。言い過ぎだったかもしれない」


 僕は素直に頭を下げた。少女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷ややかな無表情に戻った。


「でもだからと言って、池崎さんを殺したことは許すことができない。彼が死に値するような人間だとは僕には思えない」


「やっぱり、おめでたい人ですね。あなた、殺されそうになったんですよ」


「それとこれとでは話が違うだろ」


「彼は凶悪な犯罪者です。私もあの家の中身を見たので知っています。不特定多数の青少年に対する拉致、および監禁。あるいは強姦。もしかしたら殺害。おそらく彼は私と同類です」


 彼女に指摘されるまでもなく、僕自身そんなことは薄々勘づいていた。


「そんなことは分かっているさ。だからって簡単に割り切ることはできない。これだけは知っておきたい。君は相手が犯罪者だから殺すのか? それとも自分が生きるために人を殺すのか?」


「後者です。私は極力自分と同類しか殺したくないと思っていますが、それはあくまで自分が生きるためで、時代劇の真似事がしたいわけじゃない。罪を重ねた相手を殺すのは、彼らが人から外れた存在だからです。彼らの中には心のどこかで死という救済を望んでいる者が多いし、何よりそんな存在をいくら傷つけようが後顧の憂いがない。それに死後は自殺として扱われる可能性が高いし、一番の理由は殺してもこちらの良心が痛まない。一番ターゲットとして最適なんですよ」


「だからって、わざわざ池崎さんのような人間を探し出して殺すには手間がかかり過ぎるだろう。その前に自分が力尽きてしまう可能性だってあるんだから」


「先ほど言いましたよね。私の姿はBCIを装用している人間には見えないし、声さえ認識することはできない。だから幾らでも彼らを炙り出すことができる。それに栄養状態だったら、医療機関から盗んだ点滴である程度誤魔化すこともできます」


「それだったら僕を殺せばいい。勝手に殺されてくれる、都合のいい人間が目の前にいるじゃないか」


 僕は彼女の腕を無理やり握って、懇願するように迫った。


 横腹に微かな痛みが走る。呻き声をあげると、少女は容赦なく僕を蹴り飛ばした。


 地面に仰向けに倒れる。


 彼女に刺されたのかと思ったが、痛みは刹那的でいつまでも続かなかった。


 彼女のポケットから取り出されたナイフはほんの少し白いTシャツを抉り、わずかに赤色が滲んだだけだった。


「失望しました。自分の弱さを武器にして他人を利用しようとする。私はそんな人が大嫌いです。あの時言ったでしょ心配しないでも、いつか殺してあげますよ。私の役に立ってくれればですけどね」

 

 僕は少女を仰ぎ見る。

 

 神経質そうに落ち窪んだ瞳に不釣り合いに、柄悪そうに金色に染められたショートボブ。


 風が吹けば崩れてしまいそうな華奢な身体。


 その耳元にはシルバーのリング型のピアスが煌めいていた。


 月光で映えた彼女の瞳孔には、二十歳を迎えた情けない自分の姿が映っている。

 

 彼女に着いていこうと心に決めた。

 

 それしか道はないと、結局僕は考えることを諦めたのだ。



 不思議な音が鳴った。


 耳をそばだてないと分からないほど微かだったが、それは確かに腹の虫が鳴く音だった。


「そうだよな、まだ腹が減ってるよな」


 僕は地面に転がりながら、当然のように言った。彼女の方を見やると薄く赤面していた。


 こんな少女にもやはり、人並みに羞恥心というものがあるらしい。


 こちらを睨みつけながら「うるさい」と詰ってきた。


 少女の話を鵜呑みにするなら、一週間振りの食事がパックの焼き鳥三本だけで足りるわけがない。


「どこかに食べに行こう。お腹減っているんだろう」


 僕から視線を背けながら、彼女は見るからに不承不承頷いた。


 控えめな手つきで手を差し伸べてきたので、躊躇いながらも僕はその小さな手のひらを掴んだ。


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