ii
「大丈夫か?」
今までおよそ体験したことのない現象が自分の中で起きていた。
まるでとろみがついたかのように、思考の流れが澱んで鈍くなっている。
目の前の景色が微かにぼやけて、緩やかに回転して見える。
停滞した意識の中で、生々しい身体そのものの感覚だけが冴えわたっているようだった
頬に冷たさが走り、少しの間意識が正常に戻る。
押し付けられたペットボトルの天然水と、覗き込むナガシマさんの顔が視界に入った。
「酔っ払ったらとにかく水を摂取しろ。お前のことだからな、今までろくすっぽ酒なんて飲んだこともないんだろ。最初は誰だってそんなもんだ」
「ありがとうございます」
素直に首を振って、ペットボトルを受け取った。一気に半分煽る。
「いい飲みっぷりじゃないか」愉快そうにナガシマさんは笑った。
僕は彼の軽口を無視して、軽く頭痛がしてきたのでベンチに仰向けで寝転がった。
苔むした木の感触が心地良かった。
真篠汀。
幼馴染の顔を思い出す。物心つく頃から隣にいた、僕が大半の人生において恋をしていた女の子。
どこかあどけない顔つきと後ろで編まれた単衣のように艶やかな長い黒髪がトレードマークだった。
誰もが羨むような容姿に類まれな聡明な頭脳、明るく飾らない性格を併せ持った奇跡のような女の子だった。
幼馴染という関係性さえなければ、生来平凡の域を出なかった僕とは縁のない存在だっただろう。
彼女は、一年前に命を落とした。
一年前の六月某日、汀は西域の海水浴場で死体になって発見された。
彼女は自ら命を絶った。
少なくとも世間はそう認識し、彼女の死に「自殺」というラベルを貼り付けて折り合いをつけている。
しかし、その死の原因を僕だけは知っている。
彼女が命を落とす間際、突然僕の携帯に電話がかかってきた。
発信者は確かに真篠汀からだった。
何かを言いたそうだったが、嗚咽の声ばかりが再生されるばかりでまるで要領を得なかった。
汀はそれからゆっくりと、しかし滔々と語り始めた。それが、僕が最後に聴いた幼馴染の声だった。
入学当初、サークルの新入生歓迎会で出会った複数の先輩男子生徒に無理矢理身体を犯されたこと。
そのせいで外出することに恐怖を感じるようになったこと。
周囲の目を気にして誰にもその事実を打ち明かせずにいたこと。
その頃、汀は東京の大学に進学したばかりだった。
僕は彼女が東京の難関校を受けると聞いて死に物狂いで勉強し、なんとか同じ学部に合格した。
地元で有名な中高一貫の女子校に汀が入学して以来、十年以上一緒だった僕たちは疎遠になってしまった。
物心ついてから常に隣にいた存在だ。
毎日相手の家の軒先まで迎えに行き、放課後に鞄を押し付け合う関係は当然のものではなかったと思い知った。
喜んでいられたのは、ほんの一ヶ月ぐらいのものだ。
彼女と一緒に電車に乗って登校ができたのは本当に一瞬の間で、五月に入る頃にはもう汀は精神をすり減らして大学には来なくなった。
これまで停滞していた色んなことを進展させようと奮起する前に、汀は僕の前から永遠に消えてしまった。
大切な人の喪は、毎日を日曜日へと変える。
彼女は不慮の事故で家族を喪い、一年ほど前にも父親が行方不明になって天涯孤独の身だった。
葬儀は親類の間で密やかに行われた。
僕の家族も呼ばれたが、式場に顔を出すことはなかった。遠くから彼女の自宅の前で汀を慕っていた学校のクラスメイトたちが泣き伏せているのを見て、僕はある一つの決意を固めた。
彼女を殺した連中に復讐する。
幸い彼女は加害者の名前を遺品に残していたし、僕は同じ東京の大学に所属している。
そのリーダー格の男は汀と面識があったらしく、彼女と構内で会話をしている様子を見たこともある。
悲しみと憎しみだけを生きる糧と巡る血潮にして、心身を動かした。
一日の大半は犯人の監視にあてがわれ、常に彼を殺す算段を脳内で模索し続けた。
今思えば、僕はあの時完全に狂っていた。
最愛の人を奪われた哀しみに伏すのではなく、殺意だけを冴えわたらせてその好機を見計らっていたのだ。
その結果、どうなったか。
もう分かっているだろう。僕は失敗したのだ。
路上でリーダー格の男が新しい女を連れ歩いている光景を目にして、逆上して路上で鞄に隠し持っていたナイフで襲いかかった。
運悪く、たまたま通りかかった通行人に僕は取り押さえられた。
あれだけ念入りに立てた犯行計画は、一瞬の激情に全て押し流されてしまった。
僕は東京の拘置所に送られて、それからすぐに裁判を受けた。
罪状は殺人未遂。
刑罰は若年犯罪であること、その動機を考慮して三年間の特殊懲役刑。
僕は犯罪者の烙印を押されて、〈脳錠〉によって名実ともに人々の輪から疎外されることになった。
両親は僕を一方的に侮蔑し、裁判所にさえ出席しなかった。
これまで自慢の息子だった僕は突如として忌まわしい不肖の息子になってしまった。
周囲から誹謗中傷を受けるのを怖がったのだろう。事件の後すぐに妹を連れてどこかへ高跳びしたようだ。
全てが終わった後に実家の近くまで寄ってみたが、二十年近く住んだ家はすでに引き払われて伽藍とした売地になっていた。
復讐一つまともにできず、今日まで死にたくても死にきれずに無為な生を重ねている。
優しい人間でいたいと、僕はずっと思っていた。
子供の頃に憧れていたテレビの中のヒーローのように、誰かの笑顔のために生きたいと願っていた。
そのためにはいくら自分が傷ついても構わないと思っていた。
そう信じて二十年間の月日を重ねてきたはずなのに。