xiii
それから、買ってきたものを温めて食事をした。
出来合いの総菜や冷凍食品が、その時だけは今まで食べてきた何よりも美味しく思えた。
炭水化物を腹に詰め込んだことによる満腹感は、秋の台風のように眠気を引き連れてきた。
エイリは調理した五目粥と缶詰のスープを食べ、それから様々な栄養剤を大量に補給した。
いつものように床にシーツを敷いてエイリをベッドに寝かせようと思ったが、いつも僕はそうしていると言っても聞き入れようとしなかった。
彼女があまりにも固辞するので、折衷案で半分ずつスペースを分けて寝ることになった。
どちらも極限まで披露していたので電気を消した途端、妙な煩悩とは無縁にすぐに眠りについた。
夜中、ふとした予感がして目が覚めた。
隣で寝ているはずのエイリがいないことに気がついて、僕はベッドから飛び起きた。
彼女を探して寝室を出ると、トイレから微かな異音が響いていることに気づいた。
照明はついていない。僕はそっと扉を開けてみた。
丁度、深酒をし過ぎた愚か者のように、エイリは便器を抱えるような格好でえずきながら泣いていた。
即座に僕は察する。
僕が言ったように、彼女は冷徹な殺人鬼を必死で演じていたことを。
池崎さんを殺した夜も、東京に初めて来てからあの少女の父親を殺した夜も、僕が知らない多くの人を殺したその夜も、彼女は目の前の姿と同じようにしっかりと苦しんでいたのだ。
「エイリ」そっと呼びかける。
彼女は僕の存在に気付くと、やがてこちらに振り向いてわずかに唇を歪めた。
「……滑稽ですよね。殺人鬼を名乗るには未熟で、人間を名乗るには私は人をあまりに多く殺し過ぎました」
何も言わず、僕は床に膝をつけて彼女を抱き寄せる。
そして、その手のひらを固く握りしめた。
「やめてください。私にもうこれ以上優しくしないで。それは私にとって、便器の中で生きるクモがそうであったように、どんなに蹴られ踏みつけられるよりも、どんなに酷い言葉で詰られるよりも、苦しくて痛いことなのですから」
彼女の言葉の真意を、僕は数年越しに理解する。
欧米の著名な哲学者であるトマス・ネーゲルが書き残したエッセイによれば、ある日彼は大学のトイレで小便器の溝に捕らわれている巨大なクモに遭遇した。
彼はクモを気の毒に思って便器から救い出したが、次の日同じ場所で自分が救ったクモが死んでいることに気づいた。
実情はこうだ。
自身にかけられる尿の栄養素によってクモは生き延びていた。
それが教授の善意によって栄養の補給が絶たれてしまった。
彼は飢えて衰弱して死ぬ運命を辿るしかなかった。
嘘偽りない善意で道路を舗装し続ければ、いつかその道は天国に続くはずだと人は思う。
しかしこの説話は、そんなのは所詮人々の思い込みか虚妄に過ぎないという事実を突きつけてくる。
エイリのぐったりとした笑顔を僕は受け止め続けた。
やがて僕は握りしめる力を強めて口を開いた。
「今は慰めにすぎないかもしれない。だけどいつか必ず、君が誰も殺さなくても生きていけるような方法を見つけ出す。ああ、僕だって生きるのが怖い。もう二度と絶望も失望もしたくない。今ある少しのものさえ失いたくない。それでも、生きている限り僕が君の罪を半分だけ背負う。そう決めた」
「……いいんです。実を言うともうすぐ私は解放される。もう、誰も殺さなくてよくなるんです。初めに言ったでしょう。今年のこの夏だけ生き延びることができればいいって。だから、本当にもうすぐなんです」
「じゃあ、それから君はどうするんだ。君はその後の人生を、どうやって生きるつもりなんだ?」
エイリは俯いて、僕の質問に答えることはなかった。
しかし、もう一度顔を上げた彼女は何かを諦めるかのように微かに笑っていた。
「望月さん、東京を出ましょう。もう私は誰も殺しません。あなたが生まれ育った町に戻るんです。話はそれからにしましょう。だから今は」
あなたの手を握っていてもいいですか?
僕は深く頷いた。
トイレの上方に取り付けられた小さな窓から、半月の微かな光が差し込んでぼうっと煌めいていた。
もうすぐ月が満ちる。




