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アイラブユーの命日  作者: すくも藍
第四章 便器の中のクモ

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35/37

xii

 今はそれ以上何も考えたくなかった。


 冷蔵庫の最上段には、本来の持ち主が買い貯めていたのであろう缶ビールが隙間なくびっしりと並べられていた。


 泥棒みたいで気が引けたが、後で補充すればいいやとその内一本を拝借することにした。


 女性を連れ込む予定でもあったのだろうか。


 ジュースと見間違えそうなチューハイも多少混じっていたので、その中で一番アルコール度数の低いものを選んだ。


 久しぶりに飲んだ酒は、相変わらず取ってつけた甘味の中に苦みがあって変な味としか言いようがなかった。


 半分ほど飲んでようやく顔が火照って、視界の隅がぐらつくような感覚が訪れてきた。


 エイリが風呂場から出てくるまでは起きていようと思ったが、ほどよい酩酊感が眠気を連れてくるまで時間はかからなかった。


 いつの間にか瞼が重くなり、僕はベッドの縁に腰かけながらしばらく意識を失っていたようだ。


 何かが寄りかかるような重い感覚で目が覚めた。


 背後に振り向くといつもとは違うエイリの顔が見えた。


「……エイリ。どうしたんだ?」


 呑気に問いかけた時点で妙な違和感に気づいた。


 それは嫌な感覚ではなかった。


 エイリの腕がベッドの上に横臥していた僕の肩に回されている。


 丁度、彼女に抱きしめられているような格好になっている。


「今日はありがとうございました。あなたがいたから生き残ることができた。あなたがいなかったら、私は今頃死んでいた」


 エイリは耳元で囁くように言った。


「気にする必要はない。本来それが僕の役目だったはずだ」


 僕は早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、努めて冷静に答えた。


 エイリは黙って、さらに身体を密着させてきた。


 唾を飲み、意を決して振り向く。


 エイリは上半身こそシャツを着ていたが、下半身は下着のみの無防備な恰好をしていた。


「どういう風の吹き回しだ?」僕はかろうじて問いかける。


 エイリは終始、僕から目を逸らし続けていた。


 彼女がやましい何かを抱えているのは明白だった。


 やがて、鉛を抱えたような鈍重さでエイリは口を開いた。


「今日だけでいいんです。何も訊かないで、今すぐ電気を消して、私を抱いてください」


 そう言って、半ば強引に抱き着きながらエイリは僕の唇を奪った。


 アルコールを帯びた呼気が彼女の口内へと伝播し、エイリが「未成年飲酒」と小さく呟くように言った。


 その様が無性に蠱惑的に映った。


 頭が真っ白になる。


 以前似たようなことが起こったが、あの時の何かに操られるような様子とは違って、明らかに今の彼女は自発的に行動して僕を誘っていた。


 その状況はあまりにも二年前と酷似していた。


 頭の中でどれだけの時間が経過しただろうか。


「……その言葉に従うことはできない」


 僕はエイリの細すぎる身体を強く抱きしめながら、やっとのことで返答を絞り出した。


「……理由はなんでもいいんです。死線をくぐり抜けたことで生きる感覚が欲しくなったとか、負け犬通しの傷の舐め合いだとかでもいい。それこそ、私があなたに恋をしてしまったとかでも構いません」


 エイリが僕に恋心を抱いている。


 その言葉のあまりの白々しさに、僕は思わず苦笑する。


「それはお気の毒様だ」


「ええ、お気の毒様です。それともやっぱり、こんな貧相で傷だらけの身体に興味はありませんか?」


 それなりに女性らしい起伏のある胸部がシャツの隙間から覗いた。


 露出した彼女の素肌には、斑点のように等間隔で大小合わせて数え切れない傷跡や紫色に変色した痣が刻まれていた。


 僕は無理やり彼女と瞳を合わせて、決然と言った。


「いいか、エイリ。僕が君に手を出さないのはたった一つ、僕が君より少しだけ大人だからだ」


 まさに目を丸くするという表現がぴったりだった。


 虚を突かれたようで、彼女は僕をしげしげと僕を眺めていた。


 そして、突然噴き出した。


「……あなた、本当につまらない人ですね。あんなに人殺しに加担しておいて、まだそんな詭弁が吐けるんですか」


「詭弁なんかじゃない。君だって、今日まで付き合ってきて嫌というほど分かっただろう。望月蒼はそういう人間だ。どれだけモラルというものがその実醜悪で邪悪なものであっても、生きている限り僕はこの性から逃げ出せない」


「ええ、分かっています。全部、分かっています。あなたは――望月蒼はそういう人間です。そんなこと、分かり切っていました」


 いつの間にか、彼女は泣いていた。僕はそっとその涙を左手でぬぐい取った。


「ごめんなさい。あなたと初めて出会った時に言いました。自分の弱さを武器にして他人を利用しようとする人間が大嫌いだって。私はあなたに私が一番嫌いな人間と同じようなことをしようとした。謝ります。私がどうかしていた。そしてどうか、今のことは忘れてください」


 そう言って、彼女は強引に場を切り上げようとするように背を向けた。


「心底納得したよ。やっぱり、君は殺人鬼を名乗るには律儀すぎる。でも、そんな君を今の僕は好ましいとすら思っている」


 僕はその背中から垂れ下がっていた手のひらをそっと握った。


「……どういうつもりですか?」


「考えていた。優しさというものは、本当にすべてが虚妄と傲慢に過ぎないのかって。でも、自分の中で一つ結論を与えることができた」


 僕はそう言って、彼女の手を握りしめる力を強めた。


「持論だけどね、この世には適切な絶望の仕方というものがある」


「適切な絶望?」


「今日君の姿を見て悟った。今まで僕がしてきたのは間違った絶望だった。絶望することが間違いなんじゃない。本当の正しい絶望とは、涙腺が腫れるまで泣き晴らして、心を千々に千切れさせて、それでも過ぎていく時間を杖の代わりにして地面に足跡を刻むことだ。それは決して、世界や私の価値を転倒させるために残りの人生を捧げることじゃない」


「……ご立派な持論ですね。きっとあなたの言うことは正しい。でもあなたが否定するやり方でしか報われない人間もいる。意味さえ奪われた苦悩を、一体どこの誰が贖ってくれるんですか? 正しさに見向きもされない人間を、どこの誰が救ってくれるって言うんですか?」


 握りしめていたエイリの拳の力が強まる。


 爪がめり込んで微かに血が流れる感触があった。


「君が言っていることだって、きっと正しいんだろう。今の僕じゃ、その問いのすべてに反論することはできない。どう足掻いても、僕には君が今まで生きてきて味わった苦しみを理解することはできない。それを君の口から幾ら聞いたって、君と僕の世界の痛みは違う。君の痛みは君だけのものだ。もちろん、僕の痛みは僕だけのものだ。それを覆すことは絶対にできない」


 そう前置いてから、満足しながら言った。


「だけどこうやって、苦しんでいる目の前の誰かの手を握ること。それだけは一部の狂いもなく絶対に正しいはずだ」


 その言葉を聞いて、エイリは笑った。


 笑いながら、彼女は泣いていた。


「まったく、あなたらしい答えですね。……私の負けです」


 エイリはそう答えて、一人納得するように頷いた。


 そして、僕の身体にもたれかかってゆっくり瞳を閉じた。


「……もういいや。今日は本当に疲れました」


「ああ、本当にな」


 他愛のないやり取りを交わして、僕も目を閉じた。


 しばらく立ち上がるまで、僕は彼女の手をいつまでも握り続けていた。


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