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今や追って追われる狩人と狐の立場は完全に逆転していた。
天沼は患部を支え懸命にふらつきながら逃げていたが、あの傷では今すぐ病院に駆け込まない限り助かる見込みはないだろう。
鬼ごっこは数百メートルで決した。
僕たちは、高架に連なるスロープ下の飲み屋が集まる通りの路地裏に逃げ込んだ彼を入り口と出口から挟み撃ちにした。
最後まで暴れて抵抗するかと思ったが、僕たちがにじり寄ると彼は地面に膝をついてそれ以上抵抗する素振りを見せることはなかった。
僕たちは致命傷を与えられ、今やぼろ雑巾のようになって落ちぶれた彼の姿を黙って眺めていた。
怨敵とはいえ、今や零落し切った彼の姿には一抹の同情心をくすぐられずにいられなかった。
「何やってるんだ、早く殺せよ」
天沼は嫌らしい作り笑顔を湛えながら、僕に向かって吐き捨てるように言った。
その言葉に釣られ、エイリが懐からもう一度ナイフを取り出してそろそろと近づいていく。
天沼のことだから最後の最後で何か企んでいるのではないかと思ったが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。
「……俺もお前も一人の女に人生滅茶苦茶にされて、こんな無様に落ちぶれてざまあないな」
彼の言う女が真篠汀を指していることは明白だった。
「お前は真篠汀を陵辱し、死に追いやった。彼女の人生を滅茶苦茶にしたのはお前の方だろ」
僕は激情に駆られることなく静かに言い返す。
天沼は一瞬驚愕したような顔を見せると、次の瞬間には愉快そうに手を叩いて笑った。
「なんだ、そういうことになっていたのか。これは傑作だ」
彼はひとしきり笑い終えると、満たされたような穏やかな顔で首を振った。
「あいつにさえ出会わなければ、俺はこんなに落ちぶれることはなかった。金も地位も揃った親元に生まれて、恵まれた能力と顔、すべて揃って生きてきた。世界は初めから俺のものだった。生まれた時点で天に与えられた、俺はただこの世界で勝ち組の人生をただ享受すればよかったんだ」
彼は遠い目で空を仰ぎながら、訥々と語った。
その様はやはりどこか愉快げな響きを伴っていた。
「昔は自分には手に入らないものなんてないと思っていた。将来も地位も女も、いくらでも高望みすることができた。望みさえすれば、月さえもいつか手にできるんだと信じてきた。でも、それは間違いだと気付かされた。ああ、全部お前のせいだ」
そう言って、天沼は突然僕を睨んだ。
呪うような、深い恨みと憎しみが混じり合った眼差しだった。
今まさに命を奪おうとしている事実を加味したとしても、なぜエイリではなく僕に一段と強い憎悪が向けられるのかは分からなかった。
「早く殺してくれ。今日お前らを殺そうが逆に俺が殺されることになろうが、どっちに転んでも初めから構わなかったんだ。どちらにせよ、もう俺には何も残っていない。お前と俺は同じだ。俺もお前も、一年前のあの日にもうとっくに死んでいたんだよ。だからたった一言、お前に伝えることができたのなら、それだけで本当はよかったんだ」
天沼は突如立ち上がり、僕のTシャツの襟を掴んで引き寄せながら耳元で囁いた。
「――真篠汀は自殺なんかしちゃいない。他ならない、俺が殺した」
それが、彼が発した最後の台詞になった。
背後からエイリが彼の背中にナイフを突き立て、天沼は崩れ落ちるように血を吐きながら地面に倒れた。
その死に様は池崎神父を連想させるもので、微かに緩み満たされたような死に顔もよく似ていた。
「大丈夫ですか?」
エイリが問いかけてくる。
僕自身は天沼に危害を加えられたわけではなかったが、彼が今際に発した言葉が信じられず反応が遅れた。
「何か、最後に吹き込まれたようですね」
ため息を吐きながら、エイリが言う。
今回ばかりは彼女も、この世の終わりのようにぐったりとした顔をしていた。
「……ああ、そしてそれは僕のこれまでの人生を根本的に捻曲げてしまうものだった」
天沼が汀を殺した。
当初、汀が自ら死を絶ったことを知った時、僕はありえないと微かな疑心を持っていた。
あの真篠汀という少女が、無理矢理身体を汚されたというだけで自殺などするわけがない。
すべての肉親を喪っても気丈に生きていた彼女が、そんな最悪の結論を簡単に下すはずがない。
彼女は僕が知る中で一番強い女性だった。
だが当時そんな疑義を呈したとしても、君が彼女を買い被りすぎているだけだと周囲に一蹴されるのは目に見えていた。
それならば、汀が僕に打ち明けた話も全部何かの間違いだったということになる。
それとも、僕への復讐のために天沼が咄嗟に吐いた世迷言にすぎないのか。
しかし、最期に彼はなぜかエイリではなく、僕の方に執着している様子だった。
一体、天沼と汀はどういう関係だったのか。なぜ汀は殺されなければならなかったのか。
しかし、当の二人がすでに死人となってしまった以上、その問いに答えが与えられる可能性は完全に潰えてしまった。
不意に視界が遮られる。エイリの両手が僕の目元を覆ったことに気づいた。
「……今は無邪気に喜びましょう。私はこうして生きている。そして、あなたも」
「ああ、折角保留にしたのに、生憎すぐに殺されるところだった。君がいたから、僕は助かった」
彼女の言う通りだった。
今はそれ以上、汀の死について考えることはやめようと思った。
内実はどうであれ、エイリは天沼の命と引き換えに生き存えることができた。
僕は幼馴染の復讐を果たすことができた。
こうして二人で生き残ることができた。
今はそれだけで十分だと言い聞かせた。
全身に擦り傷を負って血が滲み、纏った服は地面を這ったせいで小さく破れて黒く汚れている。
端から見たらその様は浮浪者にさえ見えただろう。
互いのぼろぼろになった姿を見合わせて、僕たちは笑った。
それが自然のことのように思えたからだ。
思えばこの時、僕は初めてエイリの笑うところを見た。
存外、それは普通の少女と何一つ変わることがないとても素敵なものだった。




