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やった、成功した。
呆然とした頭の中を一筋の悦楽と達成感が駆け巡る。
目の前にエイリが現れ、共に成功を喜ぼうとした。
「……失敗です。逃げましょう」
エイリは早口でそう言って、僕の服の裾を引っ張った。
何を言っているんだ、と思った。
あの状況で天沼が目の前に迫ってくる車を避けられるはずがない。
しかし、交差点に視線を寄せて僕は目の前の光景を疑った。
漆黒のスーツに汚れ一つ付けず、まったくの無傷の姿で天沼がゆっくりと歩いてきていた。
にわかには認められないが、直前でなんとか避けたのか。
それとも使用を予期して備えていたのだろうか。
歌舞伎町で初めて彼と邂逅した時、エイリはメガホンを人散らしために使用していた。
しかし、不意打ちであの音量を至近距離で喰らって、常人に咄嗟にまともな状況判断ができるはずがない。
元々針の穴に駱駝を通すような策だったのは分かっていた。
しかし、天沼が五体満足であるという事実と、成功したと思った作戦が実は失敗していたという事実に耐えきれず、僕の頭は反省と疑問が凝固して固まってしまった。
最優先事項を見失って呆けてしまったのだ。その好機を見逃す相手ではなかった。
追いつかれてようやく僕は「一人で逃げろ」とエイリに声をかけた。
瞬間、右頬に衝撃が走り、僕はその場に倒れ込む。
「残念だったな。ヒーローごっこは楽しかったか?」
不意の怪音によって乱れた交通と人々のどよめきは、すでに正常を取り戻しつつあった。
事故は起きず、二次的な被害もなかった。
この街では小さな非日常や事件は簡単に洗い流されてしまう。
比較的涼しい真夏の夜のことだ。
南口の国道に連なる区画では等間隔で路上シンガーたちがライブを開いて、通行人たちの去っていく背中に向かって歌声をぶつけていた。
途切れることのなく双方向に進む魚群のような人々の中で無様に転がる僕を置いて、彼はエイリににじり寄っていく。
彼女はなぜか一瞬逡巡する様子を見せながらも、背中を見せて逃げる態勢には入る。
だがすでに限界を迎えていた彼女はすぐ足を挫いて地面に転がった。
「鬼ごっこはここまでだ」天沼はそう言って、懐から刃物を取り出してエイリに近づいていく。
僕は最後の気力を振り絞って、「やめてくれ」と叫びながら彼に突進するが、当然気づけば別の地面に転がっている。
二度目の奇跡はそう簡単には起こらない。
終わったと思った。
打ち拉がれながら顔を上げると、天沼はエイリにとどめを刺すその一歩前で静止したように立ち止まって彼女に視線を落としていた。
天沼の信じられないものを見るような目つきがエイリを刺し貫いていた。
彼は数秒固まっていたが、やがて何が面白いのか狂ったようにけたけたと笑い出した。
「……ああ、そうか、分かったよ。この化け物が」
それは実に不気味な光景だった。
今までの比でなく、彼は何かに取り憑かれたように取り乱していた。
「ああ、分かった。分かったよ。一番の邪魔者はやっぱり、あいつだったんだな」
しかし、なぜ彼がそうなったかを考えている暇はない。
これが僕らにとって、最後に残されたチャンスでありロスタイムなのだ。
決死の思いで腿の筋肉を緊張させ地面から這い上がり、今にも止めを刺されであろうエイリを助けるための方法を考える。
「そうだ、決めた。お前だけ殺して手仕舞いにしようと思ったが、やっぱり望月も殺すことにした。お前の思い通りに事が運んでも、俺はつまらない。俺の人生をすべて狂わせたように、お前の計画もすべてご破算にする」
僕を殺すことを宣言し絶望の顔色を強めるエイリを見て、天沼は口元を狂ったような愉悦の笑い声を響かせた。
元々の端正な顔が見る影もないほど歪みきって、そこにいたのは人ではなく一匹の鬼のようだった。
道ゆく人々は相変わらず僕たちを無視して、素知らぬ顔で通り過ぎていく。
街中で倒れている人間や、奇声を発している人間の一人や二人、この町では珍しくない。
再び天沼がエイリの首元の裾を掴む。
彼女は今度こそ観念したかのように瞳を閉じてぐったりとしていた。
その時、僕の中を支配していたのは冷たい絶望ではなく、燃えるような怒りだった。
「エイリ、思い出せ。――君はまだ生きている」
君にはまだ生きて叶えるべき願いがあるんだろ。
だったら最後までみっともなく足掻き続けろ。
色々な思いが脳裏を駆け巡ったが、結局僕が口に出したのは今際の際にカリギュラが発したのと似た言葉だった。
僕の想いは届いたのだろうか。
まな板の上の鯉のように静止していたエイリの瞳が突然開き、自分を地面に押さえつけていた天沼の身体を突き飛ばした。
しかし、不意を突いただけだ。
彼から逃げ切るだけの猶予を稼げたわけじゃない。
そのまま彼女は、這い上がるようにふらふらと歩を進めていく。
そして、数メートル先の道路脇でライブを行なっていたシンガーからマイクを力尽くで奪い取ると、言葉にならない言葉を全力で叫んだ。
ともすると、彼女は錯乱してしまったのかと思うかもしれない。
だけど、僕には分かった。
それがエイリという少女が吐き出した魂の叫びであることを。
この不条理な世界に反抗せんとする一つの勝鬨であることを。
その叫びは人々のどよめきや街頭ビジョンが垂れ流す宣伝――退廃の街の喧騒を一瞬かき消して、浮かれるような暑さの夏の夜にどこまでも遠く響き渡った。
謎の発声源を探し求めて、誰の目にも映らないはずの少女に多くの通行人たちの視線が集められる。
マイクを取り上げられた露出の激しい長髪の女性シンガーは、突如起こった謎の現象に目を丸くして固まっていた。
それはまさしく、もう一度起きた奇跡だった。
BCIを装用した人間には姿ばかりか声すら感知することのできないエイリの叫びを誰もが聞き遂げたのだから。
視線を集めたのはエイリだけではない。
彼女にとどめを刺そうと至近距離まで迫っていた天沼にも同時に人々の視線が突き刺さる。
その中の誰かが彼が刃物を片手に握っていることに気づいて悲鳴をあげた。
エイリの咆哮と、目の前で起きた一連の不可解な現象にさしもの天沼も動転したようだ。
本物の殺人鬼がその一瞬の隙を見逃すはずがない。
一瞬でスカートのポケットからナイフを取り出すと、エイリの刃が天沼の腹部を確かに貫いた。
血反吐を吐き出したような声にならない断末魔を上げて、彼の身体が地面に崩れ落ちる。
しかし、致命傷には至らなかったらしい。
天沼はなんとか片足を着くと、刺された場所を押さえながらその場から走って去った。
「追いますよ」
そう呼びかけられて、僕は初めて現実に戻る。彼女はシャワーを浴びたかのように汗で前髪を額に張りつかせながら、天沼が走って逃げた先を指差していた。
「……信じられない、なんとかなったのか」僕は率直な感想を投げかけた。
「私も流石にもう駄目だと思っていましたから」
大きく見開かれた瞳孔が彼女の動揺を物語っていた。
未だに信じられず狐に摘まれた気分が抜けなかったが、不意にエイリが僕の手を引いた。
「でも、まだ終わっていません」
そうだ。天沼を完全に殺し切るまではまだ何も終わっていない。
僕は頷いて、余力を総動員して彼女に手を引かれるまま天沼の跡を追いかける。




