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アイラブユーの命日  作者: すくも藍
第四章 便器の中のクモ

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 十分ほど走り続けただろうか。


 ようやく遠目に目的地の目印となるバスターミナルが見えてきた。心の緊張が少し緩みかけていたタイミングで、突然横で走っていたエイリの姿が見えなくなった。


 血の気が引いた。振り向くと、彼女は荒い呼吸を繰り返しながら地面に倒れていた。


 僕はその名前を呼んで、急いで駆け寄った。


「……もう限界です」


 握りしめた彼女の手は水に浸したみたいに濡れていた。


 この際、筋道を立ててどうするべきかを考えている暇はなかった。


 未だに天沼は姿を遠くに視認できるほどの距離まで迫ってきている。


 あれこれと迷っている暇は一秒たりとも残されていなかった。


 僕は彼女を抱き寄せる。


 「捕まっていてくれ」とだけ言って肩に乗せた。


 相変わらず女子ということを差し引いても、高校生ぐらいの歳とは思えないほどの軽さだった。


「何、しているんですか」怒気を孕んだ声でエイリが言う。


「言っただろう。君をここで絶対に死なせない。君がこんなことで諦める人間じゃないことを僕は知っている」


 道ゆく誰もが僕らに奇異の目つきを投げかける。


 クラゲが揺蕩うかのように白んでいく意識の中で僕は睨み返す。


 景色の隅で流れていく人々と、世界を。


 こんな弱い少女を見捨てることが正しいというのなら、僕はそんなものは要らないと叫ぶことができた。


 それが罪に対する罰であるというのなら、それを定めた者を僕は決して絶対などと認めたりはしない。


「……ねえ、あなたは祈りと願いの違いって知っていますか?」


 エイリは大人しく無言で僕の首元に捕まっていたが、やがてそんなことを小さい声で尋ねてきた。


 こんな自分の生死がかかっている状態で突然何を言っているのだろうと初めは思った。


「そういえば前にそんなことを言っていたな」


「私も人の受け売りでしかないですが、曰く、祈りとは世界の限界を変えようとする意志なのだそうです。対して願いとは、世界の物事を変えようとする意志。だから祈りとは意志への力であり、願いは意志そのものである。二つは似ているようでいて、まったく異なる相貌だと言っていました」


 僕自身、会話を交わしている体力の余裕などないに等しかった。


 しかしこんな状況下であるからこそ、逆に頭は冷静に働いた。


「前にナガシマさんが言っていた。世界の限界とは、即ち私の限界であるって。究極的には倫理というのは私が幸福であるか、不幸であるか、ただそれだけの問題に過ぎないとも」


「私が幸福であるか、不幸であるか。それは世界が祝福で満たすか、呪いで満たすかという問題と同義です。そしてその絶え間ない緊張と拮抗こそが祈りというものを現出させる」


「でもそんなのは単なる言葉、音の響きでしかない。そんなもので人は絶対に救われはしない。エイリ、僕たちが今すべきことは無用なお喋りじゃないだろう。前にナガシマさんも言っていた。沈黙こそが金であり美徳だ。僕たちはただ意志を働かせ、そのために盲目的に筋肉を動かすべきなんだ」


 背中にかかるエイリの手の力が強まる。彼女はため息を吐いてから言った。


「そうですね。あなたの言う通りです。思弁が所詮、思弁でしかないように、言葉は所詮、言葉でしかない。畢竟、祈りというものは私にはいささか高尚すぎる。かくあれかしと言葉にした祈りは、それが言葉という世界の事実になった時点ですでに死んでいる。だから、私は一つの願いを手に取ったんです。それが決してこの手に届かない月だったとしても」


 その時、背中に妙な感触が走った。


 水に濡れる感触。しかしそこには確かな人の温もりが宿っていた。


「私はこんなところで死にたくない。生きて、約束を果たしたい」


 僕の首元に顔を埋めて、エイリは泣いていた。


 僕は手を伸ばして、等身大の少女の頭を軽く叩いた。


「思い出せ、君はクールで冷酷無比な殺人鬼なんだろ。だったら、最後まで役を貫き通すべきだ。僕の命を救ってしまった。例え一時の思い過ごしだとしても、僕にもう一度生きようと思わせた責任が君にはある」


 ようやく、目の前に駅前の大通りの姿が見えてきた。


 背後から啜り泣く声はもう聞こえない。僕はもう一度手を伸ばして、今度は彼女の頭を優しく撫でる。


 「やめてください」いつもの険のある口調で僕の手を遮る。


 自然と笑い声が漏れる。やがてエイリもくすくすと声を立てて笑った。


 昨日の僕が見たら、それはとても信じられない光景に映っただろう。


 それはまさしく一つの奇跡だった。



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 天沼を相手に僕は物理的に接触することができない。エイリにはその力が残されていない。


 であれば第三者と偶然の力を借りる。


 エイリの改造メガホンを使って、音の暴力を用いて故意に事故を起こせる。


 駅前の大通りを走る車に彼をぶつけて、満身創痍になったところをエイリがとどめを刺す。


 指摘されるまでもなく荒唐無稽な作戦だ。


 もしかしたら、二次的に甚大な被害が出る可能性もあるかもしれない。


 しかし、今やそれぐらいしか僕たちに残された道はなかった。


 再三確認するが、成功する可能性は限りなく低い。


 しかし、僕たちは綱渡りの縄のような細い道を渡りきるしかない。



 駅前の巨大な交差点を前にして、僕は鳩のように突然静止する。


 信号は赤信号で、横並びに人々が立ち止まっている。


 鎮痛剤が効いてきたのか、それとも最後に残された力を振り絞ったのか、エイリは僕の背中から降りて自分の足で地面に立った。


 僕たちは並んで立ち尽くして、追いかけてくる天沼とわざと距離を詰める。


 どちらからともなく手を繋ぐ。


 独り言のように僕は彼女に話しかける。


「死ぬのは保留にしたけど、そうなると僕はこの先何を願って生きていけば分からない。結局、空っぽな人間のままだ。だから、もう少し君の近くにいさせて欲しい。君を見ていればいつか僕にも願いが芽生えるかもしれない」


「だったら、精々役に立ってください」


 いつも通り、高飛車にエイリはそう言う。それは僕がよく見知った彼女の姿だった。


「でも、あなたの本当の願いはまだ死んでいない。私が間違えていました。精々、あなたはそのままのあなたで生きていけばいいんです」


 蚊が飛ぶような小さい声でエイリは続けた。


 そして、僕の手を握りしめる力を強めた。


 およそ初めて聞いた僕を肯定するような発言に、僕は内心で少したじろぐ。


 だが張り詰めた緊張の糸を緩めない。


 行き交う人の群れと交通を睨みながら、一秒のカウントを精緻に数え、最善と思われる頃合いを待つ。


「今だ」僕はそっと言い放つ。


 信号が青に変わるか変わらないかのタイミングで、先陣を切って僕たちは走る。


 依然代わり映えのしない、芸のない奴らだと野次を飛ばされるかもしれない方法を選ぶ。


 天沼がまともに信号を確認したかどうか分からないが、彼も真っ先に僕たちを追いかけてきた。


 交差点の全長は五〇メートルほどだったが、僕たちの距離は十メートルも離れていなかった。


 エイリを先に行かせ、向かいの車線で僕は立ち止まる。


 手には彼女から渡された改造メガホンを握っていた。


 車線上に存在する生身の人間は僕と天沼の二人だけだった。


 ほんの数メートル先に僕からすべてを奪った仇敵が立っている。彼は狂ったようにひたすら笑みを浮かべていた。

 

 気圧されずに、僕も真っ直ぐにその顔を見据える。


 そのタイミングで先頭車がブレーキをかけた。


 僕は願う。


 どうかこの手に携えた道具が機能しますように。


 背後に感触があった。背後にエイリが抱きついて、器械を構える腕を握った。だから僕は安心してトリガーを引いた。


 果たして、偽物の銃声は鳴り響いた。


 鼓膜が破けるかと思うほどの凶器じみた音量は、無差別に近場にいた人間すべてに牙を向く。


 その爆心地の中心にいた僕は、当然意識が飛ぶような衝撃に打ちのめされる。


 鼓膜が破れて耳がお釈迦になったかと思ったが、それを知っていたからなんとか我慢できた。


 喝を入れてすぐさま足を動かしてその場から移動する。


 先頭車は僕らの狙い通り突然の耳をつんざくような怪音に襲われて、足元の操作を狂わせた。


 そのままスピードを殺さず、停止線を越えて十メートルほどスリップしてようやく停まった。


 最後に目視で確認した時には、車の軌跡は中心にしっかりと天沼を捉えていた。


 間違いない。僕たちは人為的に交通事故を起こし、天沼を轢くことに成功したのだ。


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