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アイラブユーの命日  作者: すくも藍
第四章 便器の中のクモ

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 息が苦しい。


 病的に明るく騒がしい街はまるで水族館のようで、水の底に沈んだように空気が薄くて呼吸がしづらい。


 傷だらけでぼろぼろの衣服に血の滲ませた僕らみたいな人間が全力で駆け抜けても誰も気づかない。


 目も暮れない。


 こんな人間だらけの街で僕たちは二人ぼっちだった。


 だから僕は、彼らがとうに溺れた水死体だと思うようにした。


 天沼は、依然としてエイリを始末しようと全速力で追いかけてくる。


 僕たちが置かれた状況は実に厄介だった。


 天沼から逃げないといけないが、完全に逃げ切ってしまえば彼を殺してエイリを救うチャンスを失う。


 二匹の犬が互いの尻尾に噛みつこうと走り回っているかのようなものだ。


 背後からは時々胡乱な口調で恨み言のような彼の台詞が聞こえてくる。


 側から見ればいかにも薬物中毒者じみているが、この街ではそれも「珍しい」「近づくべきじゃない」の一言で済まされる光景に過ぎないのだろう。


 街の真ん中で自転車やバイクを使えないのは好条件だったが、こちらも〈脳錠〉のせいでタクシーを呼び出すことはできない。


 それは互いの命を奪い合おうとしている点を除けば、純粋な鬼ごっこと呼べたかもしてない。


 天沼は僕たちが逃げ込んだ先を空中に目があるかのように予測し、的確に追いかけてきた。


 いくら入り組んだ路地裏に逃げ込んでも無駄だった。


 単に土地勘が強いだけなのか、一体どんなマジックを使っているのか検討もつかない。


 だがこのままではこちらの体力が先に尽きて追いつかれるのは必至だった。


 天沼の勝利条件はエイリを殺すことに尽きる。


 エイリが一般人には姿が視えない以上、大量の人目を考慮せずに彼には殺害が可能だった。


「とりあえず駅前に出よう。あまり意味がないかもしれないが、ある程度開けた場所で体勢を立て直すべきだ」


 僕は揺らぐ意識の中で思考を組み立てる。


 息も絶え絶えで、ほとんど掠れた声で背後の少女に問いかけた。


「分かりました」


 一拍遅れてエイリから返事があった。


「でも残念なことに、僕にはここがどの辺りなのかよく分かっていない。駅に近いのか、それとも絶望的に離れているかの判断さえつきやしない」


 駅の構内ほどではないが、街頭の方も迷宮と呼んでいいほど入り組んでいる。


 複雑に絡み合ったパイプ管のように、至る所に地下の駅構内への接続地点が点在している。


 その上馴染みのない者の目には昼と夜、往復路でまったく違う相貌を呈する。


 エイリは嘆息してから速度を上げて僕の前に立った。


「私が先導するから着いてきてください」


 妙に自信がある様子だったので、僕は素直に従うことにした。


 エイリは過ぎ去る人々の群れにぶつかることを避けようとしなかった。


 正面から衝突しても、通行人たちは妖怪と遭遇したかのような不思議そうな間抜け面を浮かべてエイリに先を譲った。


 一週間近く何も食べない状態で逃走を続ける。


 しかも容赦ない暴力によって多量の傷を負った状態だ。


 それがどれだけの苦痛を伴うのか、どれだけの神経の強靭さを伴うのか想像するだけで気が遠くなる。


 彼女の本懐を知った今、僕には絶対に彼女を見殺しにはできなかった。


 だから僕も考えなければならない。


 この絶体絶命の状況を切り抜ける術を探さなければならない。


 エイリには逃げ続ければいつかチャンスが来るはずだと言ったが、彼女が満身創痍な以上その体力がいつまでも続くものではない。


 何か罠を張れればいいが、この切羽詰まった状態下でそんなものを即席で用意するのは現実的じゃない。


 状況は刻一刻と悪くなって、気づいた時には手の届かない落とし穴に叩き落とされることになる。


「エイリ、こんな時に悪いけど、幾つか君に訊きたいことがある」


 エイリは振り返らずに首をしゃくって続きを急かした。


「一つ目だ。以前君は毒殺や罠を使っての殺人ではなく、直接的な方法で殺さないと意味がないと言っていた。だったら身体の弱った人間、つまり病気や毒とかで弱った人間を殺したとしても大丈夫なのか?」


 エイリは視線を伏して思案する素振りを見せてから答えた。


「……正直、分かりません。私が今まで狙ってきたのは全て健常な人間です。病弱、重病を抱えた人間はそもそも悪事を働くことが難しいので選択肢にも入らなかった。毒で衰弱させることもなかったし、する必要性もなかったんです」


 エイリは胡乱な目つきを僕に向けた。


 僕はその意図をすぐに察して答えた。


「安心してくれ。今さらターゲットを変える必要がある。これから病院に忍び込んで、そこら辺にいた入

院患者を襲うべきだなんて言い出したりしないさ」


「そんなこと分かってましたよ」


 エイリは僕を一睨してから、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。


「ここからは私の推測の話です。なぜ毒殺や罠を使った殺人では駄目なのか、それは私の殺人に対象への明確で純粋な殺意が伴う必要があるからだと考えています。毒や罠では、私の殺意の志向と相手にもたらされる死への時空間的な同定が難しい。なので相手が衰弱しているかどうかは関係ないはずです」


 そう語るエイリの声は以前よりも小さくおぼつかないものだった。


 彼女自身、その論理の実感を得るために言葉を咀嚼する必要があったことは察せられた。


「分かった、じゃあもう一つ。ここに来て最初の殺人の打ち合わせの時、君に改造メガホンを見せられて、僕にも使えるのかって訊いたことがあっただろう。あの時君はケースバイケースだと言っていた。裏を返せば〈脳錠〉持ちでも、加害の意図さえなければ間接的な方法で他者に接触できるかもしれないんだよな?」


「その可能性はあり得ますが、あくまで否定できないというだけで希望は乏しいと思います。あの時も言いましたよね。確かに〈脳錠〉は他人とのコミュニケーションを禁じるBCIであり、その設計思想に装用者を世界から隔絶するという意図はない。それはあくまで結果だけを見た時の解釈に過ぎない。だけど〈脳錠〉は、装用者の意図だけではなく、環境をシュミレートして客観的な合理性を加味して装用者の行動に審判を下すことができる。今のような特殊な状況下で、切羽詰まった状態で何かをしようとしても十中八九無駄です」


「でも、確率は徹底されたゼロじゃない。このままだったらいずれ追いつかれて君は殺されるんだ。使える策は多い方がいい。鉛刀一割の作戦だなんて謙遜している場合じゃない」


 背後からその横顔を覗く。


 額から大粒の汗が地面に零れ、その顔は蒼白に覆われていた。


 やはりエイリは目線を落として逡巡を表明していたが、やがてため息を吐いて振り向いた。


「分かりました。あなたの言う通りにします」


 ひそめた声で咄嗟に思いついたこれからの方針と策を話す。


 エイリは一言も茶々を入れず、黙って僕の話を聞いていた。


 とりあえず僕たちは南口方面の駅前を目指すことになった。


 新宿は大まかに東西南北に改札口が分かれていて、それぞれで駅前の景観は大きく異なる。


 南口は比較的見晴らしが良いし、正面には国道が敷かれバスターミナルがあり、交通が一番と言っていいほど発達している。


 僕たちには都合が良かった。


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