ⅵ
数十メートル逃げるのが関の山だった。
街路を行き交う塵芥のような人混みに紛れてしまえばそう簡単には追いつけない。
被っていた帽子とマスクはとっくに脱ぎ去っていた。
僕は近場の人一人がなんとか通り抜けることができるような路地裏に急いで逃げ込み、エイリを地面に降ろした。
掃いて捨てるほど乱立しているビルによって形成された些細な隙間は、容易に僕たちの姿を隠してくれる。
しかしそれほど時間は稼げない。
奴は必ず僕らを見つける、予感があった。
人一人がようやく潜り抜けられる狭さの空間だった。
配管とダクトだらけで、飲食店から排出された燻されたような匂いと異臭が重なった匂いが立ち込めている。
鼠のような影が視界の奥を走った。
辺り一面には大元から零れた細かいゴミが散らばっている。
とても快適な環境とは言えないが、この際贅沢は言っていられない。
患部を地面につけないようにだけ気をつけて、僕たちは地面に座り込んだ。
腕の痛みと急激な有酸素運動のおかげでひっきりなしに汗が滲んで、いくら深呼吸しても胸が苦しくて堪らなかった。
しかし、どう見てもエイリの方が重症だった。
「大丈夫か?」
「そんな風に見えますか?」
か細い声で、こちらを睨みながらエイリは言った。
「良かった。まだそんな悪態をつける余裕があったんだな」
僕が笑うと、エイリは罰が悪そうに顔を背けた。
「このまま逃げ切ることはできそうか?」
僕は真面目な顔で向き直って尋ねる。
エイリが少しの間思案している様子だったが、やがて頭を横に振った。
「ここで逃げ帰っても、後日彼を仕留めるのは相当難しいと思います。それに私の姿を視認できている以上、相当手の込んだ搦手を使わないと天沼大貴は殺せない。何よりも私が負ったダメージが酷い。今日で前の食事から一週間が経とうとしている状態で、さらに外傷まで負ってしまったのですから、一日二日で再起するのは難しいと思います」
「天沼にどれぐらいやられたんだ」
「幸い骨は折れていないようですが、左手の感覚がほとんどないです。彼にもう一度正面から立ち向かうのは無理でしょうね」
「要するにもう詰みってことか?」
消え入りそうな悲痛な声で僕が言うと、エイリは答えず肩にかけていた自分の鞄を指差した。
「中に外傷向けの鎮痛剤と救護用品が入っていますので出してください」
言われた通り彼女の鞄を開ける。
中には天沼を襲う前に見せた注射器の他にも様々な凶器、病院でしか見たことがない医療用らしい点滴器具などが入っていた。
僕は今一度彼女の痛ましさに同情した。
中身を大きく開いて彼女に見せて、「これです」と指差した錠剤と包帯や消毒薬などがまとめられたケースを取り出して渡す。
薬を飲むことにすら苦痛を感じるのか、エイリはえずきながら渡した鎮痛薬を飲み干した。
それから、彼女は僕が見ていることに一切頓着せずに、制服のワイシャツを捲り上げると片手だけを使って器用に応急処置を始めた。
鮮やかな手つきだ。どれだけ傷を負って体調を崩そうとも通院することのできない彼女は、その全てを自分一人でどうにかしてきたのだろう。
悪いと思ってなるべく視線を落としていたが、微かに視界に入った彼女の素肌は痣だらけで、所々から血が滲んでいる悲惨な有様だった。
「ほら、あなたも」と彼女が僕の右腕を引っ張る。
その時になってようやく天沼に切りつけられたことを思い出す。
やはり慣れた手つきで彼女は消毒をして包帯を巻いていった。
「鎮痛剤はしばらく経ったら効いてくるはずです。これであなたの仇が取れるかはわかりませんが」
「そんなことはどうだっていい。今は自分の心配だけをしろ」
僕は語気を強めて叱るように言った。
彼女はやはり罰が悪そうに視線を逸らした。
「君は僕のことが嫌いなんだろ。それなのに、何で僕のことを気にかけるんだ? なあ、エイリ。そろそろ君の本当の目的を教えてくれないか」
「……話すことはできません。少なくとも、今はまだ」
エイリは逡巡するように口籠もりながら答えた。
「この前言っていたよな。君は大切な誰かのためにたった一人で、そんな身体で人を殺してまで生き続けているんだろ。一体どんな人なんだ」
やはり話すかどうか躊躇った様子だったが、痛んでいるであろう横腹を抱きしめながらエイリは滔々と話し始めた。
「私はその人のことが好きでした。どうしょうもない私の人生に光を見せてくれた。その人がいたから、私は初めて生きたいと思ったんです」
だからこんな痛みは大したことはない。
エイリは静かに、だが決然とした口調でそう言った。
エイリが好意を抱くとは、相手は一体誰なのだろうか。
「そうだな。僕にも自分の人生に光を当ててくれた大切な人がいた。彼女がいたから今の僕がいる。僕の人生は、彼女のためのものだった。でも、結局僕はその人を最後に助けることはできなかった。彼女のヒーローにはなれなかったんだ」
こんなことならもっと以前から聞き出していれば良かった。
初めから僕とエイリはこんなにも似た者同士だったんじゃないか。
だけどそれはいつしか決定的に違えてしまった。
彼女は大切な人への想いを貫き通すことに人生を賭け、僕は大切な人の死に嘆いて全てを投げ出してしまった。
「僕には分かるよ。君は今まで偉かった。誰にでもできるはずがない、君だからこそできることを果たしたんだ」
丁度ナガシマさんがそうしていたのを真似して、エイリの頭をそっと撫でてみた。
彼女は少しの間為されるままになっていたが、すぐに「止めてください」と冷淡な声で言って僕を睨んだ。
「矛盾しています。自分の都合で、自分が生きるためにたくさんの人を殺し続けてきた醜い生き物を、あなたは肯定するんですか?」
言葉の裏側を探るように、エイリは僕の瞳を見つめ続けた。
「僕なりに、ここに来てから寝る時間も忘れてずっと考えてきた。ナガシマさんの言葉も君の言葉も何度も噛み砕いて、それでも、僕はどうすればいいか分からなかった。でも一つだけ見えてきた答えもあった」
溜め息を吐く。僕は覚悟を決めて言葉を続ける。
「いくら君がそうしなければ生きられないとしても、僕は人を殺すことを肯定することはできない」
「知っています。あなたはそういう人間ですから」彼女は鋭い目つきのまま伏せる。
だが僕はその肩を掴んで、子どもに言い聞かせるように言った。
「だけど、僕は君という存在を否定しない。いつか僕が君を普通の人間に戻す。人殺しをしなくても生きていける普通の人間に戻してやる」
時間が止まったような錯覚を受けた。エイリはありえないものを見る顔で僕の顔を見返した。
「……何を言っているんですか」
「なぜ、人殺しは許されないか。ナガシマさんはそんなものはないと言い切った。正直、今も僕は迷っている。でも考えて考えて、一つ分かったんだ。人は生の中でしか生きられない。人は死を生きることはできないし、体験することもできない。死とは言葉にはし得ない絶対的な断絶で、だからこそ死は死でしかない。生は徹底的に生の側でしか成り立たない。生きることは凡庸で、そして高貴だ。その可能性の是非を問うこと自体がナンセンスだと言える。少なくとも僕たちのような人間風情が手に取っていい問題じゃない」
あの時、ナガシマさんは言っていた。倫理というものは〈現に〉そこにあるものであり、それ以上の可能性を根源的に閉ざして〈現実として〉ありうる。
「君だって嫌というほど思い知っただろう。僕はこういう人間だ。優しさとか正しさがいかに唾棄すべき欺瞞だろうが、その価値しか振り翳すことができない。こういう生き方しかできないんだ。それを悪だと言うのなら、それでもいい。だけど、僕はもう正しさのために正しくなりたいとは思わない。僕が手を伸ばして掴める、大切な誰かのために生きたい」
ああ、分かっているさ。
こんな言葉でさえ君たちにとっては、僕自身を価値づけるための自己陶酔の産物に聞こえるのだろう。
だって倫理とは、モラルというものはそういう代物だから。
僕はただ書く。
それだけだ。
エイリはどこか遠い目を向けながら僕の話を聞いていた。長い話を終えて数分、彼女は途切れがちに言葉を返した。
「あなたの言うように私が普通の人間に戻ることができたとして、人をたくさん殺したただの人間をこの世界の誰が許してくれるっていうんですか?」
エイリは言いながら、目の前の地面に置いていたナイフをそっと触れた。
「罪とか罰だとか、そんな話はそれから考えればいい。だけど僕は知っている。ナガシマさんもあの時言っていた。罪とか罰だとかいうのは、結局は魂に対する態度でしかない。君はその意味を心では理解できる優しい女の子だ」
「あなた、神秘家にでもなったんですか。そんなことを言える根拠は?」
「東京に来て初めて人を殺した時、君は何よりもまず囚われている殺害対象の娘を助けることを優先した。思えば奇妙な話だった。本来の選ぶべき合理的な道筋とあべこべの方法を君は選んだのだから。その答えは一つだろう。紛れもなく、君はあの女の子に同情していた」
彼女は何も言葉を返さなかった。沈黙が緩やかな肯定を物語っていた。
「君が僕を否定したがるのは、どうしようもなく君が僕に似ているからだ。似たような生き方をしているから余計に粗が目立つ。側からみたら、まさかこいつと同じだとは信じたくない」
あの夜僕の徹底的に僕の生き方を詰ったあの言葉は、一字一句違わずに自分にも向けられたものだった。そんな確信があった。
「何度でも言うよ。君は優しい女の子だ。僕と同じように優しさに囚われた、同じぐらい卑怯者の女の子だ。君が自らが望んで人を殺しているわけじゃない。そんなことは分かっている。殺人鬼の仮面を被った君は誰よりも人間らしい、ただの人間だ」
僕がそう言い切ると、青白く精気のない無表情だったエイリに変化があった。小さく、しかし確かに微かに笑った。
「そうですね、あなたの言う通りだったかもしれません」
「だけど、私とあなたは違う」
エイリはすぐに顔を強張らせて、聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
それから「それでも、ありがとうございます」とぐったりした顔を微かに綻ばせた。
「とんだ臆病者ですね。やっぱり、今さら殺されたくなくなったんですか?」
「今だって本当は消えたくて堪らないさ。所詮言葉だけで世界の事実は変わらない。だけど君が天沼に立ち向かう姿を見て、無性に自分が恥ずかしくなった。素直に言うよ。生きるためにもがき続ける君を綺麗だと思った」
「いいんですか? 死にたい人間がいつしか心から生きたいと願ったとして、それだけで全てが上手くいくようになるほど人生甘くないですよ」
大した皮肉だ。ようやくいつもの彼女らしくなったと思った。
僕は笑った。
「言うじゃないか。じゃあこうしよう。僕を君が最後に殺す人間にしてくれ。それだったら、僕だって何の未練もなくこの世におさらばすることができる」
エイリは露骨に眉を寄せて、居心地が悪いかのように身を捩った。
「本当に救いようがない人ですね。いいですか? この先、あなたは絶対に自分の選択を後悔することになりますよ」
「分かっているさ。でも、僕はもう二度と迷いたくない。自分が一度信じたものを手放したくはない。それはきっと、死ぬことよりも無様なことだと君の姿を見て学んだから」
「それがあなたの大切な人にとって重大な裏切りだったとしても、ですか?」
今までで一番真剣な眼差しで彼女は僕を見た。
虚を突かれ、一瞬反応に窮しながらも僕は答えた。
「それでも構わない。きっと彼女だって今の僕を認めてくれる」
遠くから足音が次第に近づいてくる。
妙にぎこちない軽快なテンポだった。それが天沼のものであるということはすぐに分かった。
「時間がありません。これからどうしますか?」
「とにかく逃げる。彼は君にとどめを差すために執拗に追いかけてくるだろう。アドバンテージがあるとすれば、彼が自分が狩りをする側だと過信していること。こっちが粘り強く逃げ続けていれば、いつかどこかで必ずその余裕が仇となって弱みを見せてくれるはずだ。ここで絶対に君を死なせない。そうだな、これは契約じゃなくて約束だ」
池崎さんの教会で初めて出会った時、彼女が僕に持ちかけたのが殺人を手助けする代わりに自分を殺してもらうという「契約」だった。その対比を強く意識してその言葉を僕はあえて使った。
「何ですか、それは?」
「昔、僕の大切だった人がよく言っていた。人であるのなら約束だけは守らなければならないって自分の父親によく言われていたって。それは利害関係だけで結ばれた契約よりもずっと尊いものだ。だからこそ価値がある」
エイリは僕の話を聞いて少しの間何かを考えている様子だった。
それから、彼女は突然破顔した。
「変な話」そう言って愉快そうに唇の端を歪める彼女の表情は、今まで行動を共にしてきて初めて目にするものだった。
ネオンの微かな光だけが差し込む暗闇に不調法なライトが差し込む。
嫌らしさを隠そうとしない、絡みつくような声が響く。
路地裏の入り口に、天沼の影が逆光を帯びてぬらりと現れる。
僕は先に立ち上がり、エイリの背中を軽く叩いた。
「逃げるぞ。走れるか?」
今度は僕の方から先に彼女に手を差し伸べる。おずおずとした手つきでエイリが僕の手のひらを掴む。
僕たちは頭上を見上げる。
睨むような半月が僕らの運命を見守るかのようにぼうっと浮かんでいた。




