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アイラブユーの命日  作者: すくも藍
第四章 便器の中のクモ

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 こうなってしまった以上、僕にはどうすることもできない。


 僕に与えられた選択肢は二つあった。


 一つは隙を見て、エイリをなんとか救出して抱えて逃げる。


 もう一つは彼女ごと見殺しにして自分だけ逃げ帰る。


 後者を選べば僕の望みは二度と叶わなくなるが、少女の死と引き換えに彼女に殺されるはずだった人間は助かる。


「……望月さん」


 エイリが突然僕を呼んだ。頭の中を覗かれたようで、僕は硬直して彼女を見る。


 左腕を抱きながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。


「あなたは逃げてください。こいつはあなたに恨みを抱いている。いつか絶対あなたにもう一度危害を加えようと迫ってくる。その前に必ず私が彼を殺します」


 目の前が真っ白になる。


 なぜこの後に及んで彼女は僕の心配をするのか。


 あれだけ僕を嫌っていたエイリの台詞だとは信じられず、少しでも彼女を見捨てようと思った自分が途端に恥ずかしくなった。


 彼女はもう一度、ナイフを構えて天沼へ立ち向かっていった。


 しかし決死の攻撃は天沼が寸前で身体を逸らしたことによって簡単に避けられる。


 彼女の身体はふらつきながら目の前のゴミ袋に倒れ込む。


 すぐに彼女は立ち上がり、再度天沼の胸へ突き進んでいった。


「しつけえよ」


 天沼がうざったそうにエイリの身体を蹴り上げる。


 倒れた彼女に向かって、彼は容赦なく革製の厚いヒールブーツを何度も叩きつけた。


 明らかに彼は自身が行う嗜虐に酔っていた。


 目を背けたくなるような凄惨な光景が目の前に広がった。


 着ていた制服は至るところが土と血に染まり、苦悶の声が響き渡った。


 次第に通行人も増えてきたが、誰も彼もが、虫のように地面に転がるエイリに目も暮れない。


 誰も助けようとしない。


 それでもエイリはナイフだけは離そうとしなかった。


 どれだけ痛ぶられようが、万力のように拳を握りしめていた。


 この後に及んで、まだ天沼を殺そうとしているのだと察することができた。



 だけど、僕には分からなかった。


 なぜ彼女はそこまでして殺人を遂げようとするのか。


 なぜそこまでして、生きたいと願うのか。


 初めて出会った時にエイリは言っていた。


 大切な人から託されたことを果たすために生きている、と。


 そのためにはどれだけの人間を手にかけても構わないからこそ、彼女は殺人鬼として血に塗れてまで生を繋ぐことを選んだ。


 その誰かのために自分の身を挺して、今こうして絶対に敵わない相手へと立ち向かっている。


 今になって初めて、僕はエイリという人間を直視することができた。


 違う。今まで僕は殺人鬼というレッテルに騙されて彼女をまともに見ようとしていなかったのだ。


 同時に自分の中で懐かしい感覚が湧いてきた。


 僕は必死になって感情の引き出しを漁る。


 かつて、お前はこの気持ちを何と呼んでいた? 


 それは僕にとって命と同じぐらい大切なもので、とても大事な人から貰ったものなのに、僕はいつから手放して名前さえ忘れてしまった。


 エイリが生きるために死を積み上げるのならば、僕はこれまで死ぬためだけに生を重ね続けてきた。


 懸命に天沼へと立ち向かう彼女を目の前にして、僕はまだ他の誰かを犠牲にしてまで死にたいなどと言っていられるのか?


 自分の中で何かが軋みながらゆっくりと動き始めた。


「もういいわ。この先何度も襲いに来られても厄介だし、ここで死んでくれ。どうせお前を殺しても死体さえ誰の目にも見えないんだろ」


 天沼は懐から、エイリのものより一回り大きい携帯ナイフを取り出した。


 冷や汗が垂れて、僕は全力で「エイリ」と呼びかける。


 彼女はほとんど意識が朦朧としているようで、自分が今まさに殺されようとしていることに気がついていない様子だった。



 天沼の凶器が容赦なくエイリの胸を刺し貫こうとする。


 その間際、憧れが理屈を追い越した。


 あれこれと考える前に身体が動いて、僕はエイリの前に立ち塞がった。


 天沼は僕が彼女を庇ったことに驚いたらしく、ナイフを握る手を方向転換させた。


 そのまま刃は僕の露出した右腕を深く抉った。


 凄絶な痛みに顔を顰めながら、僕は振り向いてエイリの顔を見る。


「……大丈夫か?」


 その時になって、ようやく自分が殺されかけていたことに気づいたらしい。


 僕が無理に微笑んで見せると、エイリは宇宙人でも見るような目つきを向けながら「ええ」と答えた。


 天沼がエイリを殺せなかったことに狼狽して一瞬の隙を見せている前に、僕は乱暴に彼女の手を取った。


 「逃げるぞ」と声をかけてから、満身創痍の彼女の身体を引き寄せて両手で抱え上げながら走り出した。


 彼女の身体は想像以上に軽かったが、ナイフを突き立てられて負傷した腕はその程度の重みですら根を上げてしまう。


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