iv
少しでも人混みから逃れたくて裏通りを目指した。
場違いとしか思えないバッティングセンターの角を曲がり、誘蛾灯のような眩しさを放つキャバクラやホストクラブ、風俗やラブホテルが連なる道を歩く。
広場のような人がひしめき合う混沌とした空間とは違う、仄暗い妖しい雰囲気が着いてくる通りだ。
夕立で水分を含んだ大量のゴミが路上に散らばって、異臭が鼻につき気分が悪くなってくる。
水商売の強引なキャッチの声だけが都会の賑やかさを思い出させた。
その途中で僕は出会った。
いや、出会ってしまった。
そいつの顔を認めた瞬間、冷たい激情が全身を駆け巡る。
奇しくも、シチュエーションはあの時ととてもよく似ていた。
天沼大貴はスーツ姿で、横に女を連れて通りを歩いていた。
三十メートルほど離れていたが僕には分かった。
おそらく同伴出勤の真っ最中だったのだろう。
エイリの写真で見た通り、僕が知っている奴の顔とは若干人相が変わっているように見えた。
それでも一年以上の間、憎悪を心に燃やしてきた相手のことだ。そう簡単に見間違えるはずがない。
自分を必死に押さえ込む。
ここで衝動的になったらあの時の二の舞だ。
僕は急いで近くにあったホテルの入り口近くの看板裏に隠れる。
「……見つけた。天沼だ」
すぐにエイリに連絡をして、詳細な位置情報を送る。
エイリは続けて何かを言っているようだったが、僕はすぐに通話を切って彼の尾行に徹することにした。
彼が勤務先の店内へ入ってしまったら、襲撃のチャンスはもう潰えたも同然だ。
他人を尾ける方法論は昔一通り学んで、それなりに実践だってしてきた。
十メートルほどの距離感を保って、なるべく彼らから死角になる位置をキープする。
幸い新宿という雑多な街は、僕という異物の存在など容易く飲み込んでくれる。
エイリという少女が目の前に現れるのをこれほど待ち侘びたことはなかった。
遥か前方で異音が鳴り響いた。
聞いたことがある、偽物の銃声だった。
彼女はそれをターゲット一人の意識を奪うのではなく、逆説的に不特定多数の注意を一箇所に集めるために使ったのだ。
通りを歩いていた人々から微かな悲鳴が漏れ、困惑が周囲一帯を支配して皆が立ち止まった。
とはいえ、ここは日本屈指の繁華街だ。
銃声が響いたぐらいでは、人々のどよめきはすぐに収まる。
僕はようやくエイリが到来したことに喜びつつも、こんな場所であんな道具を使ったことに頭を抱えたくなった。
すぐに僕は天沼を追って距離を詰めた。
彼らは他の通行人と同様に立ちすくんで何か会話をしている。
現れたエイリは大胆不敵にと真っ直ぐに天沼を捉え、手に握ったナイフをその胸に突き立てようとした。
その憎い顔が苦悶に歪み、体から血が吹き出すはずだった。
僕は驚いてあっと叫んだ。
突然、彼が横に連れていた女性客を強引に引き寄せたのだ。
捉えていた天沼の心臓が消えた。
代わりに見ず知らずの女が眼前に現れたことに瀬戸際で気づいたらしく、エイリは瞬間的に刃を引き戻そうとした。
しかし、完全に方向を転換することには失敗したらしく、ナイフは女の右腕を傷つけた。
勢いで彼女の手を離れた刃は、そのまま空を遊んでからんという無機質な音と共に地面に落ちた。
女性の口から大きな悲鳴が漏れ、その場にへたりと座り込む。
僕もエイリも、目の前で何が起きたのか理解ができなかった。
圧倒的な幸運が呼び寄せた偶然に過ぎないのだろうか。
咄嗟に結論づけて、エイリは地面に落ちた凶器をすぐに拾い上げようと屈み込んだ。
しかし、その期待は裏切られる。
いよいよ、自分の目を疑った。
屈み込んだエイリの腹部を、まるでしっかりと彼女が見えているかのように天沼が蹴り上げたのだ。
彼女の身体は苦痛に歪んだ悲鳴を漏らして、脇のホテルの門を超えて数メートル先の不衛生なタイル張りの地面に転がっていった。
考える前に勝手に身体が動いて、僕はエイリの元へと駆け寄った。
「大丈夫か?」僕はエイリの身体を揺さぶった。
スカート下の露出した脚から血が滲んでいた。
「……何が起こったの?」
彼女も目の前の現実が信じられない様子で、蒼白な顔で蹴られた部位を押さえていた。
連れていた女はすでに逃げ帰ってしまったらしい。
目の前には天沼大貴がたった一人そこに立っていた。
彼がゆっくりと振り向く。
エイリが見せた写真通りだった。
目は鋭く落ち窪んで眉間に皺が寄って、大学生だった頃の一見爽やかな人相はすっかり変貌してしまっている。
皮の奥に潜んでいた狼の部分が露出しているようだった。
そこにいる人間は確かに天沼大貴だったが、天沼大貴の魂はそこにはなかった。
その弓矢のような視線は、真っ直ぐに僕を刺し貫いていた。
「……望月だったっけ。久し振りだな」
どこか胡乱な目つきの中には、まざまざとした嘲りが含まれていた。
「もっとも、今じゃ〈脳錠〉持ちか。もう人間じゃないんだ、お前。ああ、そう仕向けたのは俺だったっけか」
そう言って、天沼は挑発するようにくくくと笑い声をあげた。
確かにそこに存在する幼馴染の仇の姿を睨みつける。
目の前が真っ白になる。
なぜ彼はエイリの存在に気づくことができて、あまつさえ反撃をすることができたのか。
これまでの犯行が順調すぎて、僕は簡単な何かを見落としてしまっていたのかもしれない。
最悪の可能性に今になって気がつく。
あまりに当然すぎる可能性の話だ。
なぜ僕は、エイリを認識できる人間が自分だけだと信じていたのか。
現代において、産まれた時から都会に揉まれている人間がBCIなしに社会生活を送るのは極めて難しい。
携帯電話を念頭に置けば分かりやすいだろう。
念じるだけであらゆるインターフェイスの操作を完了でき、様々な認証を一括で即時に完了できる気楽さを知ってしまったら人はそれ以前には絶対に戻れない。
何よりBCIの台頭のおかげで、現代ではおよそ五十パーセント以上もの急患や事故による死亡者が減少したという事実がある。
技術のパラダイムは人間の生活基盤そのものを支配し、人の脳を最適化させる。
情報化社会の極北を生きる現代人が百年前の時代に戻されたら、数日と経たない内にノイローゼになるのは目に見えているはずだ。
それでも万が一、天沼が何一つBCIを装用していないのだとしたら。
ぞっとして鳥肌が立つ。
僕以外でエイリを認識できたのは、東京に来て最初のターゲットになった男の娘である少女以外誰もいなかった。
彼女は実の父に自宅に監禁されて虐待を受けていたという身の上だ。
安全保障の観点から、BCIの初装用年齢は年々下がる一方だ。
だからこそ、例外中の例外中に気づくことができなかった。
最悪の予測がもし正しいのならば、僕とエイリではどう足掻いても彼に太刀打ちができない。
「……やっぱり、俺を殺しにきたんだな」
天沼は僕たちの方を見据えながら呟くように言った。その言葉には先ほどのような余裕綽々の威勢は感じられなかった。
僕は抱えていたエイリの身体を揺さぶって、「無理だ。とにかく今は逃げよう」とそっと声をかけた。
明日以降彼女の身体が持つかは賭けだったが、こうなってしまった以上天沼は見逃して別のターゲットを見繕うべきだった。
しかし、エイリは「うるさい」と僕の手を払いのけた。
怠そうに強引に身を離しながら立ち上がり、握っていたナイフを構えて天沼に突進していった。
端から結果は決まっている。
十七歳、しかも飢餓に苦しむ少女が成人した男に敵うわけがない。
相手が幾分か細めな体型で、動きにくいスーツ姿だというハンデを加味しても関係ない。
どれだけ彼女が場数を踏んだ殺人鬼だったとしても、今まで簡単に殺人を成し遂げてきたのは相手に姿が視えないという絶対的なアドバンテージがあったからだ。
初めから結果は目に見えていた。
よろめきながらエイリはナイフを振りかざしたが、その前に天沼の膝蹴りが彼女の腹を刺した。
獣じみた悲鳴を上げて、彼女の矮躯は簡単に地面に打ち倒される。
天沼はすかさず、その脇腹にスリムな黒いバッテリーのようなものを押しつける。
スタンガンだった。
ばりばりという弾けるような音が響き、先ほどとは比にならない悲痛さを伴ってエイリの絶叫が眠らない街に響き渡った。
「思ったよりも大したことなかったな」
肩透かしだったとでも言いたげに天沼はスタンガンをしまい、しゃがみ込んでアスファルトの上で虫の息で倒れているエイリを見下ろして唾を吐きかけた。




