iii
昔から、夥しい人の群れを見ると吐き気がする性質だった。
自分はその中でちっぽけな路傍の石ほどの存在にすぎないと、無理やり掴まれて地面に顔を押しつけられるように認識させられるからだ。
まるで世界の悪意を見ているような被害妄想に襲われた。
自分の棲家である片田舎でいくら奮闘しようが、世界という枠組みからしてみればそれは蚊の羽ばたき一つに等しいのだ。
中学に上がってからのことだ。
それどころか、幼馴染である真篠汀という一人の人間にさえ近づけない、自分はひどく無価値な存在だと思っていた。
かつての自分の中身を占めていたのは見目麗しい優しさや正義感ではなく、その実美徳の皮を被ったただの醜い劣等感だったのかもしれない。
最近はそう思うようになってきた。
「早く」
頭上では大都会らしく、ホログラムのように空気中に映し出された巨大な街頭ビジョンが垂れ流されていた。
呆としてそれを眺めていたら、エイリが僕の肘を叩いた。
信号はとっくに青を点滅させていた。
以前にも思った。昼の新宿がテーマパークなら、夜はまるで水族館のようだと。
丁度今日は夕立が降った影響で幾らか涼しさを感じるが、その分湿度は高いし都会の臭気にペトリコールが混じって独特の不快感をもたらしていた。
久しぶりにこの街に訪れた時に感じた息苦しさはむしろ悪化しているようで、町の中心のトレードマークである怪獣は僕一人だけをじっと見下ろして睨んでいるように見えた。
歌舞伎町に入り、町の中央広場でエイリは立ち止まった。
東京の観光名所にもなっている、都市の退廃がシチューのように煮込まれたあからさまに治安の悪い空間だ。
あちこちから彩度の高いネオンが視界を刺してくる。
前後不覚に陥って座り込んでいる酔っ払いが至る所にいて、おちゃらけた客引きやチーマー染みた柄の悪い集団、物憂げに端末を覗き込む立ちんぼが視界に入り、その中を早足の通行人たちが止めどなく行き来していた。
道路の至るところには煙草の空き箱、酒の空き缶やレジ袋が散乱し、微かな吐瀉物の匂いが鼻についた。
エイリはいつものように制服を着て、スポーツキャップを目深に被っていた。
ワイシャツにスカートという出立ちはこの場所にはまるで似つかわしくなく、まるで何かのいかがわしい仮装のように見えた。
「彼は必ずここを通るはずです。待ち伏せして接近し、隙を見計らってこれを打つ。あなたはいつものように死体の運搬、現場に人が立ち入りそうだったらその妨害をお願いします」
鞄を開けると、その中に入っていたのは数本の注射器だった。
「即効性の睡眠薬です。これで昏睡状態に陥った彼を路地裏に引きずり込んで、鈍器でとどめを指す」
彼女が抱える鞄の奥で金属が鈍く光るのを僕は見た。
「……生ぬるいですか?」
エイリは唐突に顔を見上げて僕の目を捉えて、おもむろに訊いてきた。
その真意を図りかねて、「え?」と訊き返した。
「昏睡状態で苦しみもないまま命を奪うなんて、生ぬるいと思っていますか? それで彼に対する積もり積もったあなたの憎しみが晴れるのかどうか、訊いているんですよ」
冷静に答えるエイリの言葉には、以前のような露悪的な含みは感じられなかった。
それは、もしかしたら純粋な老婆心で尋ねているのかもしれない。
とはいえそんな心遣いをされても、僕自身は天沼に触れることすらできないのだから初めからそんな物騒な思いやりは無意味に等しいのだ。
「それは嘲りか、それとも同情か?」
鼻を鳴らして、僕はぞんざいに訊いた。
「どっちもです」
エイリは真っ直ぐな瞳であくまで正直に答える。
気を落ち着かせて返答の言葉を考えてから、僕は口を開いた。
「……分からない。でも天沼を殺したって、僕の大切だった人は二度と帰ってくることはない。それだけは確かだ」
多少なりとも憐憫の念を持ってくれるのは、今は少しだけ嬉しくはあった。
エイリは白けたようにため息を吐いた。
「相変わらずつまらない優等生。わかりました、今の作戦は止めにして彼はなるべく苦痛が大きい方法で殺します。でも心配することないですよ」
彼女はそう言いながら、注射器と顔を隠すための帽子とマスク(僕の顔はすでに割れているからその対策だろう)を取り出して僕の手に押し付けた。
「昨日、言いましたよね。今の天沼大貴はもう死んだようなものです。言うだけ無駄だとは理解していますが、気に病む必要もないと思います。私はただ自分が生きるために彼を殺す。ただそれだけです」
「奴も死にたがっているから簡単に死んでくれるだろう、とそう言いたいのか?」
「少なくとも、普通の人間よりかは」
昨日彼女と打ち合わせを行った時から僕は疑問だった。
全てエイリからの伝聞だから確証はない。
それでもなぜ天沼大貴は、今日に至るまでに薬に手を出すまで落ちぶれてしまったのだろうか。
僕が知る限り真篠汀が死に至る原因となった事件への関与は、彼の恵まれたバッグボーンによって根回しをされ全てが有耶無耶にされてしまったはずだ。
彼の周りで司法の裁きを受けた者は一人もいない。
本来なら、彼はまだ大学というエデンの園で踏んぞり返りながら、満たされた環境で汀と同じような被害者を生み出し続けていたはずだ。
それらしい理由として一番に思いつくのは、いずれ目の前に現れるかもしれない僕の復讐を恐れて神経薄弱に陥ってしまったからだろうか。
しかし、僕の知る彼がそんな人間だったとは思えないし、その前にいくらでも対処のしようがあったはずだ。
エイリはああ言ったが、彼が僕と同じぐらいの希死念慮を抱いているとはとても信じられなかった。
一年前、僕が粘着してその姿を追ってきた彼の姿とはあまりにかけ離れている。
ざまあみろという感情の前に、まるで何か無理やり運命が捻曲げられているかのような気持ちの悪さを感じずにはいられなかった。
「流石に人相が割れているとはいえ、この中から特定の個人を見つけ出すのは難しいんじゃないか?」
「心配しないでください。彼に至っては位置を割り出すことは簡単です」
その口振りからして、おそらく尾行時にGPSタグのようなものを取りつけることに成功したのだろう。
しかし、東京の中心でこの人混みとなると、メートル単位で正確に位置を割り出して接触するのは難しいはずだ。
「とりあえず二手に分かれて探しましょう。現時点でこの近くにいるのは確かなようです。私は彼が務めている店舗の前で網を張りますから、あなたはここら辺を歩き回っていて下さい」
飢餓という多大なハンデを背負っている以上、彼女の采配に異論を挟む余地はない。
「見つけたらすぐに連絡できるように通信機器を構えていてください。分かっているとは思いますが、あなた一人では彼を殺すどころか指先一つ触れることだって叶わないんですよ」
「衝動的になるなってことだろ。言われなくたって分かっているさ」
彼女とはすでに電話番号を交換していたが、今までメールのみで遠隔のやり取りを済ませてきた。
僕は早急に踵を返して、一人で街を彷徨い始めた。




