ii
七月の時点で薄々は覚悟していたが、どうやら今年は猛暑の年らしい。
都会だから殊更そう感じるだけなのか、八月に入って東京の暑さはさらに酷くなった。
四方をアスファルトとコンクリートで囲まれた都会の暑さは田舎のそれとは別種の不快感を伴う。
コンクリートジャングルは本質的に密林と同じ構造を持っていると学んだ。
その日は昼間の内にエイリから呼び出しがあった。
また人が一人殺されるのかと、どこか他人事のように思った。
集合場所はいつものネットカフェだった。
日中に外出するのは正直言って億劫だった。
外気温は四十度近い。
マンションの窓から外を見回してみても、行き交う人々は日傘を差したりシャツを派手に着崩して怠そうに歩いている。
いくら人の認識を自由にする技術が生まれたからといって、それが夏の暑さの苦しみを取り除いてくれるわけではない。
エイリはいつものように建物のエントランスホールで文庫本を読んでいた。
僕が訪れたのを認めると、彼女はかろうじて分かるぐらい小さく首を振った。
「外は死ぬほど暑かったよ」
「そうですか」エイリはにべもなく答える。
そのまま死ねたらよかったですね、と以前なら皮肉まじりに答えていただろう。
東京に来てから一回目の犯行以来、彼女とまともに会話らしい会話を交わした記憶がない。
最小限の会話と相槌だけで全てが済んだ。
とはいえ、それはむしろ喜ぶことなのかもしれない。
元々彼女と僕に間には仲良くしないといけない義務など存在しないのだから。
「新しいターゲットを見つけました」
彼女がそう切り出すのは分かっていた。
鼻につく鉄のような血と切り裂かれた内臓の匂いが脳裏に蘇ったが、吐き気は湧いてこなかった。
紙コップに注がれたチープな味のジュースを一口煽る。
以前の殺人からすでに一週間が経っている。
丁度良い頃合いだった。
「もう七月も終わって八月だ。いつまで東京にいて、いつまで君の手助けをすればいい」
「もうすぐです。夏が終わる前に」
「それはいつなんだ?」という言葉を喉で殺す。
エイリはそそくさといつものようにタブレットを取り出して僕に見せた。
これから殺さなくてはならない相手の名前と顔を恐る恐る脇目に見る。
そして、自分の目を疑った。
画面には「天沼大貴」と名前が記され、その下に決して忘れられない顔があった。
僕が震えながら画面を凝視していることに疑問を抱いたのだろう。
「どうしたんですか?」と怪訝な顔を浮かべて訊いてきた。
「……僕はこいつを知っている。一年前、僕が殺そうとした奴だ」
おそらく高校の卒業アルバムの切り抜きだろう。
一見人好きのする柔和な笑みに凛々しく尖った目つき。
髪はワックスで固められている。
タレントだと言われても信じてしまいそうな精巧な顔だ。
何も知らない人間は好青年と捉えるかもしれないが、その表情の裏には底知れぬ残虐さがにじみ出ているように感じた。
間違いなかった。
彼こそが幼馴染だった真篠汀を死に追いやった集団のリーダーであり、僕が〈脳錠〉持ちになった元凶の男だった。
「よかったじゃないですか」
エイリの放った言葉の意味が分からず、僕は思わず「え?」と訊き返す。
「自分を貶めた憎い相手をこれから殺すことができるんです。手を上げて喜ぶべでしょう」
エイリはわざとらしく微笑みながら言った。
雷に打たれたような衝撃を受け、僕はしばらく絶句した。
「……彼を殺すことはもう決定事項なのか?」
「彼の罪深さを誰よりも知っているのはあなたじゃないですか。彼は今大学を退学して、歌舞伎町のホストクラブで働いています。もっぱら仕事のある時間以外は自室に引きこもって、自堕落で享楽に満ちた生活を送っているみたいです。上場企業の社長である父親の元を抜け出して、今やドラッグさえに手を出しているらしい」
ずっと悪夢に苦しめられていた。
落ちぶれた自分をよそに、僕と汀のすべてを奪った天沼たちが笑顔で人生を謳歌している風景を想像して夜ごとに憎悪を募らせていた。
しかし、どういう天の思し召しだろうか。
理由はさっぱり分からないが、彼も僕と同様落ちぶれてしまったという。
「今の話を聞いて溜飲が下がりましたか?」
「そんなはずがない。天沼は僕の大切な人を死に追いやった張本人だ。絶対に許すことはできない」
エイリはもう一度口角を上げた。
「ほら、あなただって結局、誰かを殺したがっているんじゃないですか?」
彼女の言葉はいつものように鋭かったが、その中に微かな失望が混じっているような気がした。




