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アイラブユーの命日  作者: すくも藍
第三章 Why be moral?

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 帰り道、思いがけなかった出費で持ち金が底をついたことに気がついた。


 コンビニに寄って貯金を下ろそうと思ったが、考えてみれば都会のATMというものは今やBCI認証型しか置いていないはずだ。


 銀行に寄れば旧来のキャッシュカード認証のものも置いてあるのだろうが、この時間ではまず閉まっているはずだ。


 調べてみると、今いる場所から少し歩くがまだ閉まっていないディスカウントストアの中に置いてあるらしい。


 明日を待っても良かったが、今はまだ足を動かしたい気分だった。


 いつの間にか、夜闇に紛れて息をすることに一番の安心を覚えるようになった。

 

 考えなければいけないことはまだまだたくさんあったはずだが、ただ疲労を誘うだけだと分かっているからもう止めた。

 

 自分は明日、人殺しの手伝いをする。

 

 殺人幇助——現行法では殺人と大して違いはない立派な重大犯罪だ。

 

 取り止めもない思考ばかりが巡る薄ぼやけた頭の中で、窮屈な罪悪感だけが輪郭をなしていた。

 

 どれぐらい歩いただろうか。


 視界に続くのは煩雑に立ち並ぶ建物と取ってつけたような緑、それから忙しなく行き交うタクシーだけだった。


 田んぼや畑ばかりの田舎よりはまだ景色の愉快さに起伏があるが、あまり距離を歩いたという実感が湧かない。


 途中で何度も地図を確認して、ようやく到着した。


 高層マンションの一階に収まっている店内に入ると、途端に妙なテンションの小煩いBGMが耳についた。


 上階にゲームセンターも併設されているらしく、客層は若者が大半を占めているように感じた。まるで真昼のような人の多さだった。


 東京の店舗はやはり道が異常に狭い。


 人二人が横に並んでようやく通れるような狭い通り道を、誰しもが何食わぬ顔で行き交っている。


 目的のATMは入り口すぐのカウンター近くにあった。


 最新型のシンプルでスタイリッシュな機械に挟まれて、それはいかにも所在なさげに鎮座している。


 今や預金の引き出しはカードや通帳ではなく、脳波の読み取りだけで済むようになった。


 指紋や声、顔などかつては様々な生体認証が試みられてきたが、脳波信号パターンを抽出して個人を判別する脳波認証は人類が辿り着いた究極の個人認証だったのだ。


 自分の脳ほど身近で、なおかつ絶対にハックすることができないプライバシーは他に存在しない。


 極端な話、人の頭を切り落として持って来ても、今や生命活動を終えてしまった首ではどうしょうもないのだから。


 スマートフォンに代わる現代のアイコンたるBCI、分けても進化した携帯電話たる汎用脳内スマートデバイス〈イヴ〉――正確にはそれは製品群の名称だった――の普及がその認証技術を人々にもたらした。


 その他にもスマートフォンやゲーム、車椅子などあらゆるデバイスへの無線操作、外的内的を問わない危機管理、人間の思考をそのまま記述、描写するなど、現代社会への技術的恩恵は枚挙にいとまがない。


 しかし、特殊懲役刑に服している僕らはその恵みに預かることができない。


 〈脳錠〉はそれ自体がBCIでありながら、脳内に同居するデバイスたちの機能を完全無効化するアンチBCIとして働くからだ。


 財布からキャッシュカードを取り出して差し込み、画面を操作する。


 老朽化しているのか元々そういう仕様なのかは分からないがとにかく反応が遅く、引き出すのに時間がかかった。


 昨日が行政からの振り込み日で、最低限の生活を営めるだけの金額が振り込まれていた。


 一々旧式のATMを探すのも面倒臭いと思ったから、つい全額を引き落としてしまった。


 受け取った紙幣を財布にしまい、ズボンの後ろポケットに差し込んで一呼吸吐いたタイミングだった。


 それは本当に一瞬の違和感だった。


 不意に下半身の質量が軽くなった気がした。


 財布を落としたのではないかと思い、すぐに床に視線を落として探したが見つからなかった。


 次にポケットにしまったのが勘違いだったのではないかと思い直し、筐体の付近を見回したが当然ない。


 いよいよ血の気が引いた。


 店内を見渡してみる。人の群れを押し除けて入り口へと突進していく背中が視界に入った。


 盗まれた。


 全身からにわかに汗が湧き出して寒気を覚えた。


 その認識に行き着くまでにさらに数秒を要した。


 次いで湧いてきたのは、大都会の只中に無一文で放り出されることへの底知れぬ恐怖だった。


 勝手に身体が動いた。


 犯人だと思しき人間は目深に帽子を被っていて、背格好から男性だと分かった。


 すぐさま追いかけて、彼を捕まえようと思った。


 だが如何せん買い物客の群れに阻まれて、駆け足すらままならない状況だった。


「泥棒」と僕は声を張り上げて叫んだが、それに気づいたらしい彼はさらに速度を早めた。


 買い物客や店員は何事かという顔で僕を見たが、誰も彼を取り押さえてくれはしなかった。


 そうこうしている間に、犯人は自動ドアを潜って店の外へ出てしまった。


 このまま指を咥えて見逃すわけにはいかない。多少強引に人々の群れを押しのけて必死に追いかける。


 〈脳錠〉は運良く働かなかった。


 こちらも店の外に出れば全速力が出せる。


 中学時代、陸上部でスプリンターをしていた経験が役に立ったのかもしれない。


 なんとか店から三十メートル圏内で、雑多な都会の喧騒に紛れようする彼を拿捕できる距離まで追いついた。


 しかし、いざ捕まえようとしたタイミングで思い至る。


 僕は他人に触れることができない。


 触れることはおろか、コミュニケーションを図ることさえできない身の上ではないか。


 それでも僕は彼を捕まえようと、がむしゃらに勢い良く手を伸ばした。


 案の定、その手は空を切った。


 正面にいたと思っていた犯人は、気づけば真後ろに立っていた。


 はっとしてすぐに振り返る。


 一見小綺麗で善良に見える、黒いマスクをしたひょろ長い黒髪のマッシュヘアーの男。


 歳は僕とそう離れてはいないように見える。


 耳にはあらゆる軟骨部分にピアスが付けられ、シャツの肩口から黒いタトゥーが覗いていた。


 犯人である男は逃げることも止めて、不思議なことが起きたという顔でその場に佇んでいた。


「悪いことは言わないから、それを返してくれないか。そうしたら、警察には通報しない。今ここで起きたことはこれっきりで全て忘れてやる」


 自分では虚勢を張ってそう言ったつもりだったが、実際は僕の言葉は言葉になっていなかった。


 ただ喉の奥からひゅうと空気が漏れただけだった。


 物理的に彼に触れることができず、また話しかけることさえできない。


 端から、僕は詰んでいたのだ。


「……お前、もしかして〈脳錠〉持ちか?」


 心臓が凍りついたような気がした。


 やばいと思った瞬間、頭蓋が揺れた。


 頬を拳で殴られたのだと気づき、僕の身体は無様に地面へと投げ出された。


「だったらいいや。お前らさ、犯罪者の分際で生意気なんだよ」


 早朝のゴミ袋のように転がる僕の髪を掴んで、彼は躊躇いなく力任せに引き寄せた。


 周りには通行人が数人いたが、誰しも何も見なかったという顔でその場を通り去っていった。


 一年以上続いた自堕落な生活のせいで、やはり僕の身体は鈍っていた。


 暴力の奴隷に成り下がった自分の身体を、どこか他人事のような気分で見つめていた。


「この金は、俺たちの税金から掠め取ったものだろ。だったら少しぐらい返してもらったってバチは当たらないはずだ」


 社会の寄生虫どもが。


 罵倒と共に革製のソールが無防備に露出した鳩尾に突き刺さる。


 彼の言葉は無茶苦茶な論理だったが、やはり僕には言い返すことができない。


 それに、それらは僕個人に向けた言葉ではなかったのだろう。


 自分の行いを正当化するための自己暗示として、彼は言葉を弄していたのかもしれない。


 薄れる視界に閃光が走り、言葉の代わりに胃酸が喉を灼きながら口から漏れた。


 〈脳錠〉持ちに対する差別は、現代の社会問題として暗に存在している。


 少し考えてみれば当たり前の話だ。


 彼らは一般人に対して干渉することができない。


 それは絶対に殴り返すことも言い返すこともできない存在だということと同義なのだから。


 〈イヴ〉に実装されている緊急通報機能も、〈脳錠〉によって無効化されていて役には立たない。


 どれだけ脅迫されて財産を奪われようが、いかに理不尽な理由で暴力を受けようが僕たちには一切の抵抗を禁じられている。


 過去に彼らが凄惨な事件の被害者となったケースも少なくはない。


 とはいえ、〈脳錠〉持ちは基本的に矢面に立つことなく、そのほとんどが家内での謹慎を余儀なくされている。


 それに危害を加えられたという確たる事実があるのならば、管理部に報告すれば必ず然るべき調査と保護を受け持ってもらえるはずだ。


 しかし、それは現在進行形で根なし草の僕には当てはまらないし、この状況を潜り抜ける役には立ってくれない。


 男は幾度も「犯罪者が」と蔑みの言葉を吐きながら僕を蹴り上げた。


 彼も内心では、自分の行為に慄いていたのかもれない。


 店内で僕の財布を盗んだのも、生活苦に起因するほんの些細な出来心だった可能性もある。


 彼の暴力は容赦がなかったが、生来荒事に慣れている輩にはないぎこちなさがあった。


 暴力にはろくすっぽ脚しか使わず、喧嘩上等の人間が当然弁えている人体の急所も狙ってこない。


 その様はやはりどこか追い詰められているように見えた。


 相手が犯罪者であれば、どんな所業を行っても罪悪感はない。


 それはそうかもしれない。


 なぜなら彼らは悪であり、自分たちは正義という盾で殴りつけているだけなのだから。


 止まない暴力で薄れゆく意識の中で、僕はナガシマさんの言葉を思い出していた。


 モラルなんて実際ろくでもないものだと、彼は自嘲するように言った。


 そして、そのことを僕が骨身に沁みて理解する瞬間が来るかもしれない、とも。


 それが今だった。


 そして、不意に視界が開けた。


「無様ですね」


 蹴られすぎて体が麻痺していたのか、いつの間にか暴力が止んでいたことに気がつかなかった。


 代わりに目の前にいたのは、黒光りする警棒を僕に突き立てるように差し出すエイリだった。


「……どうして、ここに?」


 僕は散々蹴られて血が滲んだ腹部を抑え、苦悶の息を吐きながら問いかけた。


「明日の計画で言い忘れたことがあったので、跡を追ってきたんです」


 気づけば、犯人はコンクリートにうち捨てられていた。


 腰を抜かしたように地面で後ずさりをしながら、何が起きたか分からずに鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべていた。


 突然虚空から殴られて、彼からすれば僕が空気に話しかけられているのを目撃しているのだ。


 やがてお手本のような叫び声をあげて逃げ出した。


 エイリは僕の財布を投げるように渡してきた。僕は気後れしながらも、それを受け取って「助かった」と言った。


「あなたって意外とロクな目に遭わない質なんですね。何もしないでいても、いつか勝手に死ねるかもしれませんよ」


「できれば、悪運が強いって言って欲しいな」


「減らず口を叩ける余裕はまだあるんですね。やっぱり、助けてあげない方が良かったですか?」


「そうでもないよ。僕だってこんな見知らない場所で無意味に死にたくはなかった」


 ほんの軽口でそう言ったつもりだったが、何かのスイッチが切り替わったようにエイリは明確な侮蔑の視線を僕に向けてきた。


 しまった、と反射的に思った。


「贅沢な話。あなた、死にたいんですよね。そんな人間が死に方とか綺麗に死にたいとか、高望みしないでください。鼻につきます」


 初対面から彼女は僕のことを嫌っていたようだが、怒りという感情を見せるのはこれが初めてだった。


 それは強い感情を見せること自体が彼女にとって、弱点を見せることと同義だったからなのだろう。


 彼女が怒りたくなる理由も分かる。口を開けば死んでしまいたいとしか喋らない僕のような人間が、死に方に対して注文をつけるのは筋違いだろう。


 模範的な自殺志願者はきっと死に方だとか死んだ後だとかに頓着などしない。


 畢竟、究極の分断というのが死ぬということなのだから。


 しかし、なぜ僕の軽口がエイリ個人にとって逆鱗になりえたのか、皆目見当がつかなかった。


 教師に身に覚えのない叱責を受けて廊下に立たされているかのような理不尽さと疎外感を覚え、僕は仕方がなく謝罪した。


「ごめん。不用意な発言だったかもしてない」


 エイリは続けて何か口にしたそうだったが、急に頭が冷えたのか不機嫌そうに顔を背けて口を閉じた。


「分かっていますよ。あなたに怒っても仕方がない」


 意味ありげな物言いだった。


 そう言い聞かせて、自分を諫めようとしているようにも見えた。


「……電車でのあなたたちの会話を聞いて、私にも腑に落ちたことがあった。いや、天啓を受けたと言った方がより正確かもしれませんね」


 一転して僕をポインターのように真っ直ぐ見据えながら、彼女は言葉を紡いだ。


「優しさというものがいかに無駄な感傷か、欺瞞か、私は気づいたんです。だってそうでしょ? 特段長所もなく、特技もなく、魅力もなく、そんな無味乾燥とした人間が最後に行き着く価値が優しさじゃないですか。そんな連中の価値なんて、他人を呪うことしか息ができなくなった人間より幾らかマシだっていうだけの話です。いや、それを弱者の道徳(ルサンチマン)だと気づかず、自分たちとは違う人間を簡単に排斥しようとする分、別の意味ではより罪深くて害悪な存在じゃないですか」


 頭の中で過去の記憶の色が煤けて、モノクロに朽ちていくようなイメージが映った。


 彼女の痛切な言葉は、僕が信奉した正義というものをその時確かに鏖殺したのだ。


「全部、あなたに言っているんですよ、望月蒼」


 僕のTシャツの裾を掴み引き寄せながら、彼女は慟哭するように言った。


 理由は分からない。いや、分かるはずがない。


 露出した腕の乾き始めた傷がずきずきと痛んだ。


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