vii
途中で一度電車を乗り換えて、中央線で新宿駅を目指した。
風景はすっかりジャングルの木々のようにビルやタワーマンションが乱立する都会のものに様変わりしていた。
目的地に辿り着く間、僕とナガシマさんはほとんど会話を交わさなかった。
僕はずっと考え込んでいて、彼は静かに本を読んでいた。
相変わらず自問自答していた。
ナガシマさんに「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて疑問を投げかけて、そこに何か意味なんてあったのだろうか。
結局その答えがどんなものであっても、エイリという少女が殺人鬼であり、僕の理解を遥かに超えた存在である事実に変更の余地はない。
いや、そうじゃない。
本音を言えば「それでも」を求めて、安易な問題の解決を求めようとする自分にこそ腹が立っていた。
そしてそれ以上に、ゆきずりと言ってもいい関係の少女になすがまま心をかき乱されている自分の本心を認めたくはなかったのだ。
正気じゃない、今のお前は。
そんなことは分かっている。
だってそうじゃないか?
真篠汀が死んだあの日から、望月蒼が正気だった瞬間など一秒たりともありはしないのだから。
「そろそろ着くぞ」
中央線の昼の車内は比較的空いているが、田舎の路線と比べれば爆発的に増加し込み合っている。
夕方になってサラリーマンの退勤の時間になったら、この路線の乗車率は二百パーセント近くにさえなるのだ。
座っている僕の前で手すりに掴まっていたナガシマさんがそっと声をかけてきた。顔をしきりに動かして、僕は乗客の隙間から車内を伺った。
エイリは優先席の前で手すりに掴まってぽつんと立っていた。
やはり、彼女の姿は他の乗客の誰の目にも映っていないのだろう。
目の前で座っている派手なカップルの片割れが、無遠慮に彼女の膝をしきりに蹴り上げていた。
金属が軋む音を立てて電車が新宿駅に停車する。
大半の乗客が席を立ち、僕たちは列に並んでホームへ出た。
東京に降り立つのは実に一年ぶりだった。
なるべく忘れて消し去りたい、忌まわしい思い出が重く記憶の蓋を閉じていた。
本当だったら、もう生涯で二度と訪れたくないとさえ思っていたのだ。
駅のコンコースを行き交う膨大な人々の群れに眩暈がする。
颯爽と迷いなく歩くナガシマさんの背中を見失うまいと必死に追いかけた。
目の前の景色が飢えているような早足で行き交うサラリーマンで常に更新され続ける。
彼がいなかったら五分と経たず迷子になっていただろう。
それほど駅の構内は雑多に入り組んで、流れる人々に押し流されてしまいそうだった。
東京の暑さは田舎のそれとは違う。
よく都会人が旅行先の田舎で空気が違って美味いなどと宣うが、僕は少し違うと思っている。
より正確に言うならば、違うのは空気ではなく風の質と量なのだ。
都会で流れてくる風の大半はビル風のようなただの乾いた強い風でしかなく、田舎のような清涼感を与えてくれるものではない。
BCIが普及して誰もが頭のデバイスだけで決済ができるようになった現代では、従来型の駅の改札は無用の長物に成り下がっていた。
駅員もいないような田舎ならともかく、駅に改札が置いてある駅は今や絶滅危惧種になっている。
僕たちは自発的に駅員に話しかけることもできないから、迷宮とも揶揄される広大な駅空間で時代についていけない老人のため一ヶ所しか設けられてない改札を求めて十分以上も歩かなければならない。
ナガシマさんがいなければ間違いなく倍以上時間がかかっていただろう。
なんとか西方向から駅を出ると、ナガシマさんは駅前のバス停で歩みを止めた。
新宿は一つの街というより、一つのテーマ性に欠けたテーマパークのように見えた(夜になればネオンに囲まれ、その印象はさらに強まるのであろう)。
そのあまりの人通りの多さに空気が薄いと感じる。
息が詰まる。まるで深海の底にいるようだった。
ここからはバスで移動するらしい。
時々背後を向いて確認していたが、エイリは巨大なスーツケースを抱えながら、ちゃんと僕たちについてきている様子だった。
彼女も塵芥のように大量の人が行き交う都会には思うところがあるのだろう。
常に顔を顰めながら、しきりに周囲を睨んでいた。
サラリーマンに時々肩を当てられて、その背中のすね辺りに蹴りを入れていた。
いくらバスが走ろうが、建物と行き交う人ばかりの単調極まりない景色だけが連続していた。
僕の目には似たような通り、似たような店、似たような公園ばかりが続いているようにしか見えなかった。
繁華街を抜けて勾配がきつくなった辺りで、ようやく落ち着いた町並みが広がってくる。
十分ほど揺られた後でようやくナガシマさんは停止ボタンに手を伸ばした。
薄々分かっていたことだが、降り立ったのは僕たちが通っていた大学からそう遠くない土地だった。
とはいえ、そこに何か意味があるはずがない。
東京は狭過ぎるのだから、そんな偶然も案外そこら辺に散らばっているのだろう。
ナガシマさんが立ち止まったのは、灰色をした変哲もないマンションの前だった。
十階建てほどだろう。壁面は綺麗なマーブル模様で、新築とは言わずとも築十年も経っていないように見える。
エントランスからエレベーターで3Fまで昇る。
「やれやれ、随分とかかったな」
時計を確認すると、すでに十五時を過ぎていた。
「腹減っただろう。何か買ってくるよ」
そう言いながら、ナガシマさんは部屋の隣に備えつけられているメーターボックスを開けた。
給湯器上部の隙間に腕を突っ込んで弄ると、その手には鍵が握られていた。
それを僕に渡すと、彼はすぐにエレベーターに引き戻していった。
僕は緩やかな足並みで角部屋にあたる七号室の前に立った。
少し苦戦しながら鍵を開けて扉を開けると、オーソドックスな内装の玄関とホールが奥に見えた。ナガシマさんの弁によると、2LDKで寝室とダイニングルームが分かれているらしい。
新宿区の二等地でこの物件だと、下手したら月に二十万を超えるのではないだろうか。
多少問題のある部屋だと思っていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「あの人、存外良いことを言いますね」
突然、澄んだ声が響いた。
振り返ると、いつの間に追いついていたのかエイリが亡霊のように佇んでいた。
それが電車でのナガシマさんとのやり取りであることはすぐに察しがついた。
「人を殺してはいけない理由はないって、その話のことか?」
「違います。なぜ道徳的であるべきか、っていう話です。あなたには刺さる話だろうと思っていたので」
その言葉には、今まで彼女が見せなかった露悪的な意地の悪さが含まれているように感じた。
「あんなのは机上の空論に過ぎないだろう。ナガシマさんも言っていた。所詮、思弁は思弁でしかない。あまり真に受けてなんていないさ」
「それならそれで構いませんよ。じゃあ、あの人が戻ってくる前に私は消えます。またいつか連絡しますので」
僕の手にメールアドレスが書かれた紙を押しつけると、エイリはそそくさと踵を返して去っていった。
僕は彼女が消えるのを認めると扉を閉じて、ナガシマさんが戻ってくるのを玄関の前で立ち尽くしながら待った。
それから十分ほど待って、戻ってきたナガシマさんの手にはなんてことのないコンビニの袋がぶら下がっていた。
「鍵は開けておきました」
つかつかと中に足を踏み入れていく彼の背中にぴったり付いて行った。
玄関はキッチンに繋がっていて、その奥は二つの扉に分かれていた。
一方の扉を開けて入ると、中は八畳ほどの広さのダイニングだった。
基本的な家具は備えつけられていて、ホテルのように過不足なく住むことだけに専念できるような部屋だった。
「一ヶ月ぐらいなら好きに使ってくれて構わないそうだ。酔狂な東南アジアマニアの古い知り合いでな、株式で随分儲けていて副業でルポライターをやっている」
僕は閉口してしまい、部屋の中を歩き回って呆然と眺めていた。
「設備も自由に使って大丈夫だ。まあ他人の部屋だから抵抗はあるだろうけど、ほとんど別荘みたいな扱いでろくに使ってないらしいから気にするな」
「気にするな、と言われても気にしますよ」
「こんな良い部屋なのに」と気後れして返事をしたのだが、ナガシマさんはそのままの意味で捉えたらしい。
「本当に嫌だったら、別に使わなくてもいいさ。全部、お前の自由だ」
しかし別段気を損ねた様子もなく、ナガシマさんは相変わらずどこか愉しんでいるように言った。
「違いますよ。どうもありがとうございます。僕のために」
「別に俺は何もしてない。だから気にするな」
僕にはまだ分からなかった。なぜ彼が僕に興味を持ったのか。
なぜこれほどまで良くしてくれるのか本質的な理由を。
それは〈脳錠〉持ち同士という腐れ縁だけではとても説明がつかないように思えてならなかった。
僕がエイリに殺されたなら、きっとこの世界で彼だけは僕の死を哀しんでくれるのだろう。
そう思うと、嬉しいのか寂しいのかよく分からないモザイク柄の感傷だけが残った。
「腹減っただろ」
ようやく荷物を肩から下ろす。
ナガシマさんが手に持った袋を開くと、丼型のカップ麺と紙パックの野菜ジュースが二つずつ入っていた。
無遠慮に棚を漁って給湯器を取り出しお湯を沸かした。
新品同様の木製の備えつけテーブルに座りながら、カップ麺が出来るのを待った。その間、ナガシマさんが口を開いた。
「悪いな、こんな質素な昼飯で。しかし安くて早くて食出があるとなると、結局はこれが一番になってくる」
「僕も食べ慣れていますから、心配しないでください」
割り箸を出しながら返すと、ナガシマさんは眉根を寄せてこちらを睨んだ。
「それは褒められた話じゃないな。若いんだから、たまには自炊もしろよ」
かつてはそれなりに料理は好きだったが、今の生活が始まってから食事自体に興味が消え失せてしまった。
ほとんどインスタントの加工品ばかりで食事を賄い、一食も摂らず懶惰に身を任せることも最近は珍しくなかった。
「ナガシマさんは自炊、しているんですか?」
「そりゃあ、お前と違って一人暮らしが長いからな。なんだったら、一応調理師の免許だって持っている。」
僕は驚いて目を見開いて彼の顔を見た。「本当ですか?」
「嘘吐いてなんの得があるんだ。そうだな、じゃあ今度お前の部屋にお伺いを立てて何か一品作ってやるよ。俺が可愛い女子大生じゃないのは、もしかしたら残念かもしれないが」
「流石にそこまで迷惑かけられないです。今までだってあなたに数えきれないほどお世話になっているのに」
「気にするな、と言ってもお前は気にするだろうな。もっと気楽に物事を捉えてみろ。自分の作った料理で誰かが喜んでくれるなら、そりゃ当人も嬉しいんだろうさ。両者ウィンウィンでハッピー、たったそれだけの問題に過ぎない」
やはり、僕は思う。
この会話をエイリが聞いたら何を思うのだろうか。
彼女にとって食事は死なないために勝ち取らなければならない切実な課題であり、その行為にそれ以上の価値などありはしないのだろう。
こんなつまらない会話だって、彼女からしてみれば贅沢に聞こえるのかもしれない。
いや、分かっている。指摘された側からこんなことを考えていては世話がない。
始めから、僕みたいな巻き込まれただけの一般人が首を突っ込む義理はないのだ。
食べ終えると、ナガシマさんはすっと立ち上がった。
「じゃあ、俺はここら辺で失礼するよ」
僕も立ち上がり、玄関へと向かう彼の背中を追った。
途中でナガシマさんがおもむろに振り返った。
「そういえば」と呟いて、何かを思い出したようにズボンのポケットに手を入れた。取り出したのは一冊のとても薄い文庫本だった。
「貸してやるよ。暇潰しにはなるだろう」
タイトルには『カリギュラ』と記されていた。
僕はもう一度頭を下げて、それを受け取った。
「じゃあ、今度こそお別れだ」
僕の頭を撫でて玄関の扉を開けて出て行こうとする彼の背中を見届けながら、これが今生の別れになるかもしれないことにいよいよ後悔が湧いてきた。
「ナガシマさん」僕は扉が閉じ切る前に呼び止めた。
なんとか気づいてくれたらしい。
顔だけ振り向かせて、じっと僕を見た。
「教えてください。ナガシマさんはどうして僕なんかに興味を持ったんですか?」
数時間前にも似たようなことがあったな、と僕はどこか上の空で思った。
ナガシマさんは笑って何かを言いかけたが引っ込めて、それから僕の瞳を真っ直ぐ見据えながら髪を掻き乱した。
「……話せば長くなる。そうだな、じゃあお前がまた町に戻ってきたら全部話してやるよ」
それは実に意味深長な言葉だった。
僕が仔細を訊き返す前に「またな。くれぐれも死ぬんじゃないぞ」と言い残して、ナガシマさんは一方的に扉を閉めて部屋を出ていった。
彼が出ていった扉の前で僕は立ち尽くす。
途端に、途方もないという感情が胸から蝗のように押し寄せてきた。
見知らぬ土地の見知らぬ誰かのマンションで、僕はやはり異邦人でしかなかった。




