vi
四畳ほどの待合室と改札しかない小さな駅舎に着くと、軒下でナガシマさんが待っていた。
「準備は整ったか?」
僕は無言で頷いた。
彼はにっと笑って、860と記された切符を手渡してきた。
気後れしながら、僕は聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で「ありがとうございます」と言った。
ふと横を見やると、数メートル横の自販機前にエイリがいた。
彼女は僕たちのやり取りをぼんやりと煩わしそうに見つめていて、僕の視線に気づくと目配せをして駅の屋舎に目をやった。
早く中に入らないかという意味だろう。随分と大きいキャリーケースを手にしていた。
大口のコインロッカーにも簡単に入り切らなそうなそれをどこに隠していたのか疑問が湧いたが、わざわざ訊いてみようという気にはならなかった。
「行きましょう」僕は簡潔に伝えて、冷房もかかっていない駅舎内から無人の改札を通り過ぎてホームへと急いだ。
次の電車は十分後らしい。
一日に二十本も通らない駅にしては待ち時間は少ない方だった。
僕はホームの自販機でミネラルウォーターと缶コーヒーを買って、コーヒーの方をナガシマさんに渡した。彼は
「さんきゅ」と笑いかけてきた。待ち時間の間、それ以上僕のやり取りはなかった。
やって来た青のラインが映える電車に乗り込むと、僕とナガシマさんは揃って乗り込み、遅れて同じ車線の別のドアからエイリが乗り込んだ。
僕たちは真ん中のシートの隅に座り、エイリは向いの一番奥の優先席に座った。僕たちの他に乗客は見当たらなかった。
電車に揺られている間、ナガシマさんは無遠慮に片足を組んで薄い文庫本を読んでいた。
僕は昨日の寝不足を少しでも取り返そうと、必死に目を閉じていた。
ぐずついてまとまりのない思考が仇となって、いつまでも寝つくことはできなかった。
五つほど駅を経過したぐらいで、寝るのは諦めて景色を眺める。
等間隔で変わりゆく風景を眺め続けると、若干心が安らぐような気がした。
だがすぐに飽きてしまい、読書に耽るナガシマさんの様子を観察していた。
彼が本から視線を外したタイミングを見計らって僕は尋ねた。
「ナガシマさん、変なことを訊いていいですか。どうして人は、人を殺してはいけないんですか?」
僕は言い終わった後でちらりとエイリの方を見た。彼女はぼうっとした様子でただ目の前の景色を見つめている様子だった。
「……なぜ人を殺してはいけないのか、か」
ナガシマさんは読んでいた本を閉じて、低い声で僕の問いを復唱した。
それはきっと剣呑な問いだったのだろう。
まともな人間はわざわざなぜ人を殺したらいけないかを他人に尋ねようとは思わない。
「殺人未遂で捕まった奴が今さらどうしたんだ?」
その通りだった。
過去に人を殺そうとした人間が今さらそんなことを尋ねようというのは滑稽かもしれない。
しかし、人を殺さないと生きることのできない少女と出会って、今まで盲信してきた常識が分からなくなってしまった。
それが本音だった。
ナガシマさんは「んー」と前置いてから、滔々と話し始めた。
「一番に思いつくのは日本国憲法にそう記されているから、だろうな。人を殺せば警察に捕まる。罪になる。人を殺したのなら、ともすれば死刑にさえなる。大抵の人間が人生のどこかのタイミングで一度ぐらいは誰かを殺したいと思うが、それを実践できる奴はほとんどいない。人殺しという罪を犯すメリットと自分が死ぬ、一生塀から出られない危険というデメリットを天秤にかければ、大概の場合において釣り合いは取れないものさ。実際に頭の足りない可哀想な奴や、絶望的に思慮と想像力に欠ける屑たちを除いての話だがな」
そこで一呼吸を置いて、彼は再び口を開いた。
「次に多いのは、そうだな、自分の信じる人格としての神がそう命じるからというものだろう。宗教の掟で殺人を禁じることは多い。だけど、こっちも法律が禁じているという理由とさほど変わりはない。本質的に両者は同じものだ。望月が訊きたいのはそういう話じゃないんだろ?」
急に質問が飛んできたので、慌てて僕は深く考えずに「そうです」と答えた。
「例えば、人を殺さないと自分が死んでしまうという状況になった時、それでも誰かを殺すのは許されないのか。それは本当に唾棄すべき罪なのか、なんて」
自然と視線が向こう側の少女へと移った。
エイリは相変わらず凍ったように正面を向いていた。
慇懃に背筋を伸ばして、キャリーケースを太ももで押さえながら両手を膝に置いていた。
誰の目にも彼女の姿が映るのなら、多少派手ながら礼儀正しい目の前の少女が殺人鬼だなんて話を信じる人間がいるだろうか。
突然眺めていた顔が動いて、一瞬彼女と視線が合った。驚いて、僕はおずおずと視線を戻した。
「根源的に、形而上学的になぜ人殺しは許されないのか」
「ええ、根源的に、あるいは形而上学に」
ナガシマさんは自分の眼鏡を弄びながら、何かを考えている様子だった。
「……ちょいと難しい話をしよう。そして、それは突き詰めた論理という意味で究極の話だ。あまり真に受ける必要はないが、さりとて一端の真実ではある」
物々しい前置きを挟んだ後、彼は言い切った。
「人殺しが許されない絶対な理由、そんなのは端的に言えばありはしない。たまたま現代社会が人を殺すことを重い罪だとしている。戦争に赴いた兵士は、逆に人を殺せば賞賛される。遠い未来では、爆発的な人口増加のせいで新生児を間引くことが正義とされるかもしれない」
人殺しが許されない、絶対的な理由なんてない。
ナガシマさんははっきりとそう宣言したが、そんなことがありえるのだろうか。
常識としては信じがたい話だが、ナガシマさんの言うように少し視線を変えてみれば殺人が許されないのは偶然の側面も確かにある。
「だけど大抵の人は、誰かに殺されたくはないと思っている。僕だってで希望を言えば、誰かに殺されて死ぬのは嫌です。そういった万人の総意が法律を創り、絶対的な価値として『人殺しは許されない』という理由になっているとは言えないですか?」
「望月の意見にも一理あるだろう。でもまだ浅い。その説明は〈他人が人を殺してはいけない理由づけ〉にはなるが、〈他ならないこの『俺』が人を殺してはいけない理由〉にはならない。『俺』っていうのはな、望月、お前にとっての僕であり、倫理の担い手って意味だ。法律や神や利害が、いかに俺を縛ろうが関係ない。『俺』は人を″ただ″殺せるんだ。そして、この世の全ての人間の中で『俺』だけが特別な人間で一切の他人は影に過ぎない、とさえ言える。この言葉が、お前を初めとする周りの人間からどれだけ異常に聞こえたとしてもな」
僕の頭はほとんど混乱してしまっていた。ナガシマさんの言葉は相変わらず理解できるが、共感することがまったくできなかった。
しかしその「共感できなさ」が、話の本質に根ざしているのではないかという直観もあった。
「だとしても、僕はもう他人を殺そうとは思ってないし、人殺しをありえないことだと思っている。それはナガシマさんも同じですよね?」
「そうだ。『俺』という倫理の担い手は“単“に人を殺せるし、そもそも人を殺してはいけない理由なんてないが、だからといって俺は適当に人を殺そうとは思わない。その次元において、法律とか死刑とかは、十分俺が人殺しをしない理由になるだろう」
「その言葉を聞いて安心しました」
僕が冗談めかして言うと、ナガシマさんは笑い声を立てた。その様子を見て僕は本当に安心した。
「『世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない』。昔の哲学者は、事のあらましをそんな風に書いた」
片手で閉じていた本をナガシマさんがこれみよがしに掲げて見せた。
「彼はこうも書いている。『善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界には属さない。それは世界の限界である』」
「……世界の限界?」
「倫理とか道徳とか言えば、大方の人間は万人に当てはまるルールだとか法律、人が人として最低限守らなくてはいけない正義のことだと思っている。でもそうじゃない。それは『俺』という世界の限界でのみ響き渡る言語、早い話が私が幸福であるか不幸であるか、それだけが問題なんだ。倫理というもののは本来、徹頭徹尾エゴイズムに終始する代物だ。『俺は世界の中心であり、真に生きている主体だから、いくら人を殺してもよい』、『俺は世界の中心であり真に生きている主体だが、自分と似ているにすぎないどんな人間も目的として扱い、決して手段として扱わない』、どんな倫理的な命も『俺』という留保がつく以上、本来的に他者には理解できないだろう。要するに、語り得ぬ言葉は沈黙にしか聞こえない」
「でも、僕にはナガシマさんが言った言葉の意味が分かる。人殺しが許されないことも知っているし、ナガシマさんが優しい人だっていうこともよく知っています」
僕がそう言うと、ナガシマは一瞬目を見開いて僕を見た。
「だったらどうして、実際に社会を支配している倫理や道徳はエゴイズムを否定するんですか? 実際はその真逆として世界は回っている。ナガシマさんの考えが正しいとするならば、世間で通用している、他人のためとか優しさとか詭弁を弄しているのは無駄ですよね」
「いいか望月、俺に語ることのできる答えはある。でも、その答えはきっとお前を迷わせる。それはお前の価値を転倒させ、修羅へと変えるかもしれない」
ナガシマさんは、まっすぐに僕の目を見諭すように問いかけた。これまで付き合ってきて初めて彼の真剣な面持ちを見た気がする。
「勿体ぶらないで答えてください」
僕は深く考えずに回答を急かした。
実際、彼の言うことは正しかった。
後々、僕は骨身に沁みて理解することになる。
「単純な答えだよ。他人のため、優しさ、誠実、嘘をつかない、奉仕、そういう利他的な美辞麗句それ自体を信奉することが、翻って自らの利益になるからだ。そういった美徳には内在的にブランド的な価値がある。利他的であろうとすることは、すなわちもっとも賢い利己的な態度だ。モラルというシステム、それ自体が『道徳的な悪辣さ』という矛盾を成り立たせる仕組みになっているんだよ」
なぜ世間では優しい人間や善く生きることが勧められるのか。
それは結局、回り回ってそのような生き方や態度が自分の得になるからでしかない。
それは確かに途方もなくシンプルで、途方もなく底意地の悪い話だった。
だが、決して難解な話ではない。
誰もが振り返ればそこにあると分かっているのに、誰もがそこにあることを認めようとしない。
まるではだかの王さまの一幕のようだ。
山師に誑し込まれた愚かな王さまを実は裸であると告発したのは、まだ何も分からない幼気な子どものみだった(しかしお伽話には書かれていないだけで、彼は逆上した王さまによって首を撥ねられたかもしれない)。
「まるでひねくれた中学生の戯言に聞こえるかもしれない。さりとてそれは、究極の反抗でもある」
「……だからナガシマさんは優しさなんて欺瞞でしかない、人はエゴイズムから抜け出せないと思っているんですか?」
「そんなのは分からないさ」
彼は即答した。
「意外です。分からないことがナガシマさんにもあるんですね」
「そりゃそうだろ。思弁はどこまでいっても思弁でしかない。いい哲学とは、えてして人生の役には立たないものさ。そんなことはな、望月、考えることとはまた違う、生きることの側にある問題だからだ。この話を聞いてそれをお前がどのように飲み込んで、態度に出すか出さないかは自由だ。誰にも決められることじゃない」
「僕はそんな風には考えたくないですね。だったら他人への共感とか優しさとか、そんなものは全て消え去ってしまう。独りきりの世界から、どうやって抜け出せばいいのか分からなくなってしまう」
「ああ、分かってるさ。お前はそう答えるだろうな。その言葉はきっとお為ごしなんかじゃない。俺は俺の考え方として、人はエゴイズムと独我の檻から出ることはできないと思っている。ただそれだけの話だ」
彼の言葉に僕は正直半信半疑だった。
というより、追いつけていないというのが実情かもしれない。
飄々と宣う彼を横目で睨んで、僕は「そんなことがどうして簡単に言えるんですか?」と訊いた。
「そうだな。あえて言葉にするなら、それはきっと愛って奴なんだろう」
「愛?」
ナガシマさんは顎をしゃくりながら、拍子抜けするぐらいあっさりと答えた。
僕はなぜその言葉が出てくるのか分からず、思わず訊き返した。
ナガシマさんは少し押し黙って、気怠げなため息を吐いた。
「観念的に愛を語るには、俺は少しばかり歳を取り過ぎた。話が脱線したな」
仕切り直しとばかりにナガシマさんが手を叩くと、同時に電車ががたんと音を立てて停車した。
丁度老夫婦が二人同じ車両に入って来て、エイリの席に寄っていった。
彼女は避けて立ち上がり、向かいの席に座り直した。
「人を殺してはいけない理由なんてない。じゃあなんで、人殺しは許されないなんて絶対的なモラルが横たわっているのか。もう一段深く、なおかつここで問題の見方を変えてみる」
僕はしばらく必死に考えて、それから絞り出すように答えを出した。
「『じゃあ、なんで人殺しは許されないのか』、じゃない。人を殺してはいけない理由なんてない、『だとしても』、人殺しは許されない」
まるで子どもの屁理屈を聞いているようだなと思った。
しかし、それを語るナガシマさんの顔は真面目そのものだった。
「それは『私』を起点にミクロな倫理を語るのとは、まるで正反対なマクロなやり方だろう。だけど倫理的な命題には、必ず隠れた前提がつく。人を殺してはいけない理由はない。だとしても、今この世界で〈現に〉人殺しは許されないんだ。そして、その是非を問うことそれ自体が倫理に反した行いだと糾弾されてしまう」
その宣言には有無を言わせない迫力があった。
ともしたら暴言とも捉えられるかもしれないが、それでもナガシマさんの言葉には一抹の説得力があった。
なぜ人を殺してはいけないかの理由を考えてみて、そんなものはないと結論づけてみても、実際に〈現実として〉人殺しは悪なのだから。
「それが可能性としてはいかようにもありえたはずなのに、現に必然としてそこにありそれ以外の可能性を根源的に排している。倫理っていうのは、その意味で神とさえ呼べるのかもしれない」
「……なんていうか、傲慢ですね」
僕は思ったことをそのまま口にした。
ナガシマさんは自嘲するようなどこか気の抜けた笑みを浮かべた。
それから天を仰いで、それから深く首を振った。
「そうだ。モラルなんていうのは、畢竟ろくでもない代物だ。その内、お前にも骨身に沁みて分かる日が来るかもしれない。きっとそれを最初にそれを考えた奴はとんでもなくずる賢くて、人間不信で、陰険で、なによりか弱い奴だったんだろう」
「受刑者の僕らが言っても恰好がつかないですよ」
僕が減らず口を叩くと、ナガシマさんは無邪気に笑った。
「違いない」
釣られて、僕も笑った。
「つまるところ、人殺しがなぜ許されないかなんて、わざわざ問うだけ無駄ってことですか?」
「無駄ってことはないさ。少なくとも、今この瞬間の暇つぶしにはなっただろう」
ナガシマさんは冗談めかして言った。
そもそも、なぜ僕はなぜ殺人が許されないのかなんて彼に尋ねてみようと思ったのだろうか。
その時、初めて内省した。
少なからずエイリという少女に同情の念を抱いているのか、それとも自らが犯した罪に心から納得できる理由を求めたかったのか。
「後学のためにもう一つだけ教えてください。僕は初めに『人を殺さないと自分が死んでしまうという状況に陥った時、人を殺すのは許されないのか』なんて例を出しましたけど、ナガシマはどう思いますか?」
「それが世俗的な罪というものの在処への問いならば、それを決めるのは司法だ。専門家じゃない俺が言えることは何もない。それが心とかいう内的な問いであるなら、それは当人の問題だ。罪とか罰っていうのは、つまるところ魂に対しての態度でしかないんだから」
どう足掻いても、絶対に過去は変わりはしないさ。彼は静かに言った。
「じゃあ、もう一度訊きます。ナガシマさんは人を殺さないと自分が死んでしまうという人間と出会ったらどうしますか?」
僕はもう一度、エイリの方向に目をやった。
彼女はやはり礼儀正しい姿勢で、じっと僕たちを見つめていた。
「分からんよ。一つ言えるのは、そんな奴が現実にいるとしたら、そいつは人間とは言わない。魂の本質が俺たちと同じじゃない。いくらライオンが人語を話しても、俺たちはライオンの魂を理解できない。そんなのは人の形をした化け物だってことだけだ」




