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僕たちの歩幅が狂い出したのは、小学校の五年生の時だった。
僕は毎日のように聞かされる母親の小言のせいか、それともかつて憧れたヒーローのせいか、奉仕の人間になっていた。
常に自らの利益より他者を優先することが、望月蒼の格率であり道徳律だった。
家族で熱海に旅行に行った帰り道で、真篠家は凄惨な交通事故に遭った。
高速道路で突然弾き出された前の車を避けるためにハンドルを大きく切り、そのまま路肩のコンクリート壁に衝突したらしい。
そのまま玉突き事故が発生し、彼女たちの乗っていた車は無残な姿で大破したという。
原因は前方二車両がSAから諍いを起こしていて、先頭車が煽り運転で突然急激に車間を狭めたからだという。
高速道路でつまらない私怨からそんな馬鹿な真似をしでかすなんて、頭がどうかしているとしか言いようがない。
しかし実際に事件は起こり、人がたくさん死んだ。死者数五人を数える大事件に発展し、全国で大々的に報道されることになった。
汀は母親を亡くし、まだ小学校にも入学していなかった幼い弟も喪った。
奇跡的に父親は五体満足だったが、汀自身、頭部や上半身に大怪我を負い、数ヶ月学校を休んでいた。
久しぶりに玄関先で出会った幼馴染は、しかし事故以前と何も変わらないように見えた。
その頃には彼女も成長し身長も僕と同じくらい大きくなり、僕が前に立って彼女を守るということはなくなっていた。
相変わらずころころ笑い、昨日のバラエティ番組の話なんかを自然に振ってきた。
そんな汀の様子を見て、僕はひどく心を抉られた。
今までの人生で一番ショックな出来事だったと言ってもいい。
朝の登校路の道すがら、いつの間にか僕はかつての彼女のように泣き出してしまった。
いくら反抗した気になっていても、やはり僕は彼女のヒーローであることに誇りを持っていたのだ。
だから、彼女を守ることができなかった自分が情けなくて仕方がなかった。
かけがえのない母親と幼い弟を喪った傷の痛みを呑み込んで、幼馴染の前で平常に振る舞う姿が痛々しくて仕方がなかった。
母の小言も、テレビの中のヒーローも関係ない。
僕は、汀の笑う顔が見たくて自らの生き方を定義したのだ。
涙を流して地面に座り込んだ僕を見て、汀は随分と驚いて焦っている様子だった。
これまでどれだけクラスメイトに意地悪をされたり、母親に怒られたりしても僕が彼女の前で泣くことは一度もなかったからだ。
汀は慌てふためいて、それから何かに気づいたようだった。
「蒼くん、泣かないで」
彼女はそう言って、笑いながら僕の両手を自分の両手で握りしめた。
かつて僕がそうしていたのを、彼女はよく覚えていたのだろう。
相変わらずしゃくり上げながら、僕は汀に「ごめん」と何に対してか分からない謝罪を続けた。
その時、ふと思った。
真篠汀という人間が不幸の只中にいると、なぜ自分までこんなにも哀しくなるのか。
真篠汀という人間が笑うと、なぜ自分まで晴れやかな気分になるのか。
自分の力で彼女の身に降りかかった不幸を防げたはずもない。
それでも、なぜ彼女を守りたいと思うのか。
彼女のヒーローになりたいと願うのか。
その不思議の全てが、その一瞬の内に氷解した。
僕は彼女――真篠汀のことが、そういえばずっと好きだったのだ。
幼少期から頭を支配し続けていた未知数の解を、僕はようやく突き止めたのだ。
「約束する。今度は僕が守るよ、汀。どんなことがあっても」
だって、僕は君のヒーローだから。
「うん。蒼くんは私のヒーローだから」
何も言わずとも、彼女は僕の望む答えをくれる。
僕の生き方はこの時に決定づけられた。
汀は満面の笑みを浮かべて、僕を抱きしめる力をさらに強めた。




