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とまれ、目の前の少女について情報をまとめてみようと思う。
彼女の発言がどこまで本当なのかは分からないし、それらは断片的なものにすぎない。
結局、彼女が妄想症を患っているただの学生だったというオチがつく可能性も捨てきれない。
それでも何もしないよりは幾分かましだろう。
彼女——本人は「エイリ」と名乗っていた——は〈脳錠〉持ちである僕が唯一接触できる人間だ。
しかも、それは本人の発言、僕と同類であるナガシマさんの反応を鵜呑みにするのであれば、僕だけの特権であるらしい。
それどころか、彼女は脳内にBCIを埋め込んだ他の誰かには一切認識できない存在だと言う。
〈脳錠〉とはそれを装用した人間に他人との接触を禁じるシステムであり、他人の側から一切感知されなくなるような万能な代物ではない。
だが〈脳錠〉持ちである僕だけが彼女に接触できて、彼女の側からは特権的に僕だけが認識できるというのはいささかよく話が出来過ぎている気がする。
一番重要なのは、彼女は人を殺すことでしか飢えを満たすことができないということだ。
彼女はある種の拒食症を抱えている。
そして人を殺すことで初めて食べ物を口にすることができるのだと言う。
現に池崎さんを殺したことで、一週間振りに彼女は食事にありつくことができた。
殺人鬼であることと、生きることが等価。
彼女の身の上はとても奇怪なようでいて、冷静に考えてみれば同情の余地がある。
まるで彼女一人だけが世界から取り残されたかのように、少女は人の理から完全に外れた存在だった。
それはまた犯罪者の烙印を押され、一ミリサイズの監獄に繋がられた僕も似たようなものだった。
「そういえば年齢は?」
「十七」
「君はどこかの学生なのか?」
「今はもう違います。制服はただ楽だから着ているだけです」
「そもそも、どうして君はそんな身の上になってしまったんだ?」
「太陽のせい」
にべもない返事に、僕は深い溜息を吐いた。
近場のファミリーレストランの席に僕と彼女は向かい合って座っていた。
行政の保護で暮らしている僕に経済的な余裕なんて皆無に等しい。
それに加えて、他人と接触することができない以上、外食なんて注文から支払いまでを機械的に済ませることが可能な一部のチェーン店に限られるわけだ。
クーラーの効きすぎた空間は、夏夜の蒸し暑さと突拍子もない出来事の連続で火照り切った身体と頭を癒してくれた。
目の前で座っているのが例の少女でなければ、なおのこと素晴らしかったことだろう。
ずんぐりした樽型の給仕ロボットから二人分のクリームパスタを取って、大盛りの方を少女に渡した。
彼女は逡巡した手つきでそれを受け取ると、「ありがとうございます」と聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言った。
僕が手をつけると、彼女もゆっくりと食べ始めた。初めは恐る恐るといった様子だったが、次第に口に運ぶペースを早めていった。
僕には市販の冷凍食品に毛が生えた程度にしか感じられなかったが、結局こちらが食べ終えるよりも早く彼女はフォークを置いた。
恥入るような小さな声で、「ごちそうさま」という声が聞こえた。
「久しぶりの食事はどうだった?」
「感動しましたよ。食べ物が喉に通って胃に溜まっていくのってこんな感覚なんだって、毎回新鮮な驚きを味わえます」
制服の上からでも分かる、余計な肉など一切合切持ち合わせていないその身体を今一度見回した。
自分にも食事がまったく喉を通らない時期はあったが、精々三日間程度のものだった。
どれだけ心が苦しくても、喜劇のように身体は勝手に生きることを願い食料を求める。
僕には到底、彼女の苦しみを理解することなどできなかった。
「できるならもっと食べさせてあげたいけど、断食明けに変なものをあまり多く食べると危険らしいからな。君はいつまで食事ができるんだ」
「大体半日ぐらいです。朝になればまた元通り。でも大丈夫です。もう満足しましたから」
「満足したって」そんなわけないだろと続けようとしたが、その前に彼女が口を挟んできた。
「私のことは名前で呼んでください。初めて会った時に言ったでしょ? エイリと呼べって」
「それは君の本名なのか?」
「違います。でも大切な名前です」
僕はそれ以上は追求しなかった。何かを誤魔化す以上の感傷じみた何かを彼女から感じたからだった。
「じゃあ、エイリ。一つ訊くけど、君はこれからどうしたいんだ? まさか老人になって死ぬまで誰かを殺し続ける。それまで僕に殺害を手伝えと言われたって困るだろ」
「分かってますよ。そんなに足りない頭じゃないですから、私」
まるで心外だと言うように、彼女——エイリは吐き捨てた。
「あなたに手伝ってもらうのは精々二ヶ月ぐらいで十分です。私が誰かを殺して、無事に生き延びることができるようにする手伝い」
「手伝いというのは具体的には? 知っているのか、僕は〈脳錠〉持ちだ。直接誰かに危害を加えるような真似はできないし、物理的に接触することさえできないから妨害だって難しい」
エイリは、当然そんなこと分かっていると言いたげに鼻を鳴らした。
「初めから大してあなたには期待していませんよ。あなたには、あくまで副次的に役に立てばいいかな程度の役割しか求めていません。一番は私の警護。あなたは私にだけは触れる、意思の疎通ができるわけですから、もしも気付かないうちに標的から危害を加えられそうになった時は役に立つでしょう。それから、相手が逃げないように、かつ私が襲われそうになった時の見張りや隙づくり。直接的じゃなくても、間接的に影響を与えることぐらいはできますよね。一瞬でも相手の意識を奪えれば、それだけで私の人殺しはやり易くなります」
「でも、君は他人から視えないんだろう? 最初から君一人でいくらでもやり口があるとしか思えないな」
今や時代の最先端であるBCIの装用者は総人口の七割近くを占める。
近年、経口接種で手術の必要のないナノデバイスが主流になってから、その人口は爆発的に増加したようだ。
日本の青年層に限ってみれば、その普及率は余裕で九割を超える数字になるだろう。
要するにほとんどの人間は、彼女を認識することができない。
きっと池崎さんは、最期の瞬間までエイリの存在にさえ気づけなかったのではないだろうか。
華奢過ぎる彼女が大人の男性を殺害できたことには、それなりのからくりがあった。
「私は基本的に不意打ちしかできません。気づかれて暴れられたりしたらどうしようもありませんし、今や脳波や神経物質を分析して危険な状態だったら勝手に通報されてしまう世の中です。ましてや私は飢餓状態で、ほとんど力なんて出せません。この前も闇雲に反撃されて、お腹を蹴られて長い間のたうち回っていました」
「それはお気の毒様だな」
意地の悪さを自覚しつつも小さな笑みを浮かべて返すと、テーブルの下で思いっきり膝を蹴られた。
大して痛くはない。
「それで、その先はどうするんだ?」
「その先?」
「僕を殺してからのことだ」
一瞬俯いてから、滔々と彼女は言った。
「分かりません。でも私にはその期間だけで十分なんです。今年のこの夏だけでいい。それまで人を殺して生き延びることができたのなら、それだけで」
その言葉には明瞭に切実な何かが伴っていた。
僕はそろそろ、彼女をただの殺人鬼だという見方を撤回する必要があるのではないかと疑い始めた。
生来のお人好し気質が祟ったと言う他ないだろう。
「本当だったら、僕は君がまともな体質になれるような何か手伝いをすべきだと思うんだ。ホームレスに宵越しのお金を渡すより、いつまでも働けて給料を貰える仕事を斡旋した方が尊いだろ。君がいくら特異な体質だとしても、今のように人を殺して生き続けていったらいつか絶対に破滅の日がやって来る」
「自殺志願者が何を生意気なことを言っているんですか。あなたは自分が死んだ後のことを心配する必要なんてないでしょう?」
エイリは嘲笑するように吐き捨てて、挑発するように鼻を鳴らした。
「ただ死ぬことさえできれば、それだけであなたは満足じゃないですか」
僕は押し黙った。
不思議と彼女に責められているような気がした。
確かに僕の発言は見え透いた偽善にしか聞こえなかったかもしれない。
僕たちはただ、互いを利用価値のある者とみなしてアドホックで破滅的な関係を結ぼうとしている。
ただそれだけなのだから。
「……私は月が欲しい。不可能なものを私は手に入れたい。大切な人から託されたことです。それが祈りなのか、願いなのかはまだ分かりませんが」
脇の窓から覗く浩々とした闇を見上げながら、途切れがちにエイリは言った。
祈りと願い。
その二つにどのような違いがあるのか、今の僕には知る由もなかった。
そんなことよりも——、僕は考えを巡らせる。
ほとんどの他人に認識されず、なおかつ他人を殺すことでしか飢えを満たせない。
そんな人間にとっての大切な人とは誰なのだろうか。
家族か、恋人か、それとも人間ではない比喩的な存在なのか。
いや、余計な詮索は止めておこう。
要らない情を持ってこそこそ監視し合うのは互いにとって不幸でしかない。
「……月が欲しい。そんなことをナガシマさんも言っていた。それはどういう意味なんだ?」
エイリはこちらを値踏みするかのように眺めていたが、やがて口を開いた。
「アルベート・カミュの『カリギュラ』という戯曲に出てくるセリフです。カミュを読んだことは?」
「『異邦人』ぐらいだったら」
僕は小恥ずかしさを噛み殺しながら答えた。
コンビニの前でたむろしていそうな見かけの少女に読書の量で負けたのは、少なからずショックだった。
「その『異邦人』と『ペスト』、あと一つが『カリギュラ』。この三冊を合わせて不条理三部作とよばれています。そして、その哲学的注釈書として書かれたのが『シーシュポスの神話』。この四冊がカミュの主著です」
「……驚いた。君、案外博識なんだな」
「殺人鬼には似つかわしくない。ですか?」
皮肉たっぷりの声色でエイリは言った。
僕は苦虫を噛み潰したような表情を返した。
「続けますよ。あなたと仲のいいあの男性も確か言っていましたよね。『カリギュラ』の主人公は、かつて絶大な権力を持った古代ローマの皇帝であるカリギュラです。彼は賢帝として名を馳せていましたが、実の妹であり妾であったドリジュラが病気で亡くなってから行方不明になってしまいます」
「実の妹でありながら妾……」
つまり兄妹で肉体関係があったということか。
「二千年近く前の価値観です。わざわざ気にしても仕方がありません」
エイリはこちらを睨んで、焦れったそうに言葉を続けた。
「再度現れたカリギュラに臣下が理由を訊くと、彼はこう答えます。俺は月が欲しかった、と。彼は月という不可能なものを本気で手に入れようとしていた。彼はその日から皆に愛される皇帝から皆に憎まれる暴君へと変貌し、無慈悲な圧政を国に敷いていきます。適当に選ばれた民から財産を奪い取り、気まぐれに他人の妻を奪い取り、気まぐれに人をたくさん拷問にかけて殺していく」
「彼はどうしてそんなことを?」
「カリギュラはこんなことを語ります。——世界は、そのままでは十分だとは、おれには思えない。愛する人の死を知った彼には、この世界の欺瞞が許せなかった。人は死ぬ、そして人は幸福ではない。その真理を発見した彼にとって、この世界とその世界に生きる多くの人々の顔は、到底許せるものではなかったんですよ」
人は死ぬ、そして、人は幸福ではない。
その感覚を僕は知っていた。
ずっと恋焦がれていた幼馴染の死を経て、〈脳錠〉という鎖によって首を繋がれた僕は、皆が知っていながら知らない振りをするその真理を少なからず感得していたのだから。
「だから全ては無駄だと、人が死ぬ以上、全ては無駄だとカリギュラはそう言いたかったのか?」
「そう言われると、存外つまらないニヒリズムみたいですね」
僅かににやりと口元を緩めて、エイリは言った。
「……この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態」
彼女は突然、難解な言葉の羅列を流暢に諳んじて見せた。
聞き慣れない文章のような台詞に、僕は思わず「何だって?」と返した。
「カミュは不条理をそんな風に表現しています。同時にそれは彼の作品の全てに通底するテーマでもあります」
僕はしばらく無言で言葉を噛み砕いて解釈しようと試みた。
「人間にとって世界は敵でしかない、みたいなニュアンスか?」
「まあ、そんなものです」
つまらなそうに彼女は相槌を打った。
そのタイミングでテーブル横に女性店員がやって来て、気だるそうにラストオーダーが近いと連絡してきた。
時計を見ると、すでに二十三時を回っていた。
周りを見回しても、僕たちの他に客は騒がしく駄弁り続ける学生グループとスーツを着たサラリーマンぐらいしかいなかった。
去り際に店員は露骨に不審な視線を僕に向けてきた。
ようやくエイリの特殊性に思い至る。
彼女はBCIを装用している一般人には視えないらしい。
店員からしたら、僕は一人で会話のような独り言を重ねている狂人に映っていたわけだ。
その可能性を考えて、途端に火を噴きだしそうなほどの羞恥心が湧いてきた。
「不審者」
「うるさい。それで物語は結局どうなるんだ?」
僕は囁くより小さな声で催促した。
「『カリギュラ』という戯曲は基本的にはカリギュラと数名の貴族による対話で成り立っています。各々が対話を通して、彼の願いとその思想を理解し、あるいは徹底的に反目する。カリギュラに父親を殺され、彼を憎悪しながらも最後には彼を理解する詩人のシピオン。カリギュラ暗殺を企む切れ者のケレア。奴隷出身の忠実なカリギュラの臣下エリコン。年増でありながらカリギュラに愛を尽くす妾のセゾニア。最後にカリギュラは臣下である貴族たちの反乱によって、その手にかかりあっけなく命を落とします」
「世界の不条理に反逆しようとしたカリギュラは、結局何も果たせずに死んでしまう」
「当然の結末です。ちっぽけな人間の手のひらに地球の衛星が収まるわけがない。月は手に入らないから、確かな月として夜空に浮かんでいるのですから」
皮肉のように捲し立てて言うと、エイリはコップの水を飲み干した。
「そろそろ出ませんか?」
僕もすっかり冷め切ったコーヒーの一滴を飲み干して、それから「ああ」と返事した。
「どこか泊まる当てがあるのか?」
エイリは何を当たり前のことを訊くのかと言いた気な表情で、首を横に振った。
「……そうだと思ったよ。まあ、今夜だけなら僕の家に泊まればいいさ。嫌だったら構わないけど」
少し考えた様子を見せてから、エイリは答えた。
「分かりました。今日だけはお言葉に甘えます」
妙に素直に彼女は了承した。
てっきり憎まれ口の一つでも叩くかと思っていた。
こんな深夜であれば、誰かに見咎められる必要もないだろう。
ましてや、僕たちの管理をしていた池崎さんはもう死んでしまったのだ。
「そういえば名乗ってなかったな。僕は望月蒼だ」
「そうですね、望月蒼さん。短い間、よろしくお願いします」
名乗るのは二回目だったが、エイリの淀みないその口調にはまるで教会で出会う以前から僕の名前を知っていたかのような響きがあった。
僕と彼女はいつかどこかで出会ったことがあったのだろうか?
そんな微かな疑問が頭を掠めた。
現にこの場所にいるということは、彼女と僕はある程度同郷なのだろう。
しかし、その顔も立ち振る舞いも、僕の記憶にはまるでなかった。
それでも彼女が着ている制服は、そういえばどこか見覚えがあった。
亡くなった僕の幼馴染——真篠汀が在籍していた地元の中高一貫校の制服によく似ていた。
だからといって、それが何かのヒントになるわけではないのだが。
そんなことを考えながら、自動精算機で決して安くはない代金を支払った。
店を出て、流れ込む熱気に顔を顰めながら僕はそのことを尋ねた。
「もしかして、僕と君はどこかで」
「あなたと私は今日が初対面です。それ以上でもそれ以下でもない」
言葉を終える前に、エイリは有無を言わせない口調でぴしゃりと言った。
それ以上追求しても無駄だと悟って、僕は口を噤んだ。
僕は今日彼女に窮地を救われ、代償として恩人を殺された。
そんな最悪の出会いを果たし、互いの利害が一致したから一時的に行動を共にする。
全ては僕自身を終わらせるために。
それだけのことだ。
そう結論づけて、自分を納得させた。
夜闇を歩いている間、僕たちは互いに無言だったのは言うまでもない。




