初手柄! ……のはずだったのに。
「裏側かっ」
レオはすぐさま杖にまたがり、空へ飛び立つ。
広場を越え、集合住宅も越えると、裏通りは土煙が舞っていた。その中を走り去る男と、彼を追うエストの姿が見える。
「エストさんっ」
レオが杖の高度を下げると、エストが振り返った。
「男は、壁を突き破って逃走を開始しました。得意魔法は、土。魔術師としては、並みか、それ以下でしょう。体格は、中肉中背。黒髪に、白髪混じりの男です。上着は黒。下は灰色。ローブは羽織っていません。首から、白い札をぶら下げています」
エストは、早口で男の特徴を述べた。邂逅したのは短時間だったはずだが、よく見ている。騎士団の中で、経験を積んだだけのことはある。
だが今は、感心している場合ではない。
「わかりました。私は、上から追跡します」 レオは再び、杖の高度を上げた。上空からだと、逃げる男の足取りがよくわかる。彼は、エストよりも足が速いようだ。男とエストの差が、徐々に開いている。
しかし、分岐点ごとに騎士団が現れ、逃げ道は一本しか用意されていない。
やがて男は、エストが狙う第六区画の裏通りへと逃げ込んだ。事前に聞いていた通り、両側には五階建ての建物が隙間なく並び、窓はおろか裏口すら無い。後ろからエストが追っていることはわかっているから、彼は前か上に逃げるしかない。
だが、彼の前方に、四人の騎士が現れる。男は怯むことなく走ると、壁に魔法で足場を作り、彼等を飛び越えようとする。
「させるかっ」
レオは、一気に急降下した。狭い場所では、杖はかえって邪魔になる。多少威力は落ちるものの、杖が無くても魔法は使える。杖をしまうと、壁に氷の足場を次々に作り、蹴って飛ぶ。
男も同じように、土の足場を作って飛んでいるが、足場を作る速度はレオの方が上だ。その分だけ、走る速度もレオの方が速くなる。
逃げる男との距離が縮まる。
(いける)
レオは、ニヤリと笑った。
男が振り向きざま、小刀を投げてくる。レオは咄嗟に、指先に魔力を集めた。
氷の礫を作り出し、小刀に向けて放つ。小刀に礫が当たり、軌道が変わる。ケガをすることもなく、難なく男を捕える……はずだった。
突然、レオの首根っこを掴む者がいた。
「ぐええっ」
レオは潰れたカエルのような声を、喉から発した。何が起こったか理解する間もなく、後ろに引かれ、地面に転がる。
(仲間がいたのか?)
喉を擦りながらも、すぐさま上体を起こす。
いたのは、男の仲間ではなかった。味方のはずの青銀髪の魔術師だ。
黒いローブを羽織った広い背中を見て、レオは目を見開いた。
「ちょっと、何す」
目の前に立つ男の手から、ごうっという音と共に、火柱が走る。火柱は男を円状に囲みこんで、逃げ場をなくした。ライカを挟んでいても熱を感じるのだ。円の内側にいる男は、たまったものではないだろう。
「男の身柄は、確保した」
駆け寄ってきた騎士団に、抑揚の無い低い声でライカが言う。
「わ、私の手柄がっ」
座り込んだまま、レオはわなわなと体を震わせた。そんな彼女に、ライカが手を差し出す。ただ、何の言葉も掛けはしない。顔も、無表情のままだ。
「必要ありません」
レオは立ち上がると、ライカに背を向けて、ローブの裾を払った。
(いいとこだけ来て。何なの、この男は)
腹立たしさと、やるせなさが、交互にレオの胃のあたりに沸き起こってくる。
その後、エストにどのような声を掛けられたのかも、どうやって城に帰ったのかも、レオはまるで覚えていなかった。
明るい室内に、男の低い声が流れ続けている。
(こんなに長々と話せるんだ)
窓の外を眺めながら、レオはそんなことを考えていた。ああ、いい天気だな、とも。
王太子の執務室から見上げる空は、今日も澄み渡っている。床から天井まである窓は開けられていて、涼やかな風が、花の甘い匂いを運んでくる。
(あの風の中を飛べたら、気持ちいいだろうな)
レオは、自身が空を飛ぶ姿を思い描いた。それだけで、暗い気分も晴れていくような気がする。
「報告は、以上だ」
(どこまで飛ぼうかな。久々に、西の国境まで行くのもいいかも)
「うん。ご苦労様」
(ただ、気分のまま飛ぶのもいいかも。あの雲を追いかけてみるとか)
「ところで、レオ」
「は、はいっ?」
流れる雲に思いを馳せていたレオは、急に名前を呼ばれて、肩を跳ね上げた。
一気に、現実に戻された。レオは清々しい空の上ではなく、執務室の中にいる。苦笑するリゼとオーリス。戸惑いが隠せていないエスト。呆れた目を向けるライカ。
また、レオの気持ちが沈んだ。
「何を、そんなに拗ねているのかな?」
「べ、つに。拗ねてなど、おりませんが」
そう言いながらも、レオはリゼから視線を逸らしてしまう。拗ねている、と言っているようなものだ。
「手柄をとられた、とでも思っているのだろう」
(いや、実際にとったんでしょうがっ)
レオは、隣りに座る男を睨み上げた。横腹に鉄拳を食らわせてやりたくなるが、寸でのところで我慢する。ライカは、無駄に体格がいい。痛い思いをするのは、レオの方だ。
「心配することはないよ」
諭すような優しい声音に、レオは再びリゼを見た。
「君の活躍も、エストから報告を受けている。男を瞬時に追い詰めた、と」
リゼの言葉に、エストが「ええ」と肯定した。
「あの時、上空から追われたのは正解でした。あの男は、上にいるレオ殿に気付いておらず、まるで警戒しておりませんでした。だからこそ、行く手に騎士団が現れると、上に逃げる選択をしたのです」
満足げに、リゼはうなずいた。
「君の活躍は、僕も誇らしく思うよ。でもね、レオ」
そこで急に、リゼの声が低くなった。機嫌が悪い時や、怒っている時のものだ。
「危ういところだった、とも、ライカから聞いている。助けに入らなければ、ケガをするところだったんだって?」
「ぬなっ」
レオは、再度ライカを睨み上げた。彼は無言のまま、窓の外を見ている。
(素知らぬ振りは、できるのかっ)
レオはこぶしを握り締めながら、もう一度、リゼに向き直った。
「あのくらいであれば、簡単に対処できます。あの時だって、危険は回避できていました。あとは捕まえるだけだったのに、この男が」
「レオ」
レオは、ぴたりと言葉を止めた。リゼの目が、笑っていない。
リゼは、滅多に怒らない。その分だけ、怒った時のリゼは、レオに寒気をもたらす。それはオーリスも同じなのか、自身が怒られているわけでもないのに、身を固くしていた。
「僕は、幼馴染として兄妹のように育った君に、ケガなんてしてほしくないんだ」
怒っているはずなのに、リゼは温かい言葉をくれる。ありがたいが、受け取るわけにはいかない。
レオは屹然と、リゼの目を見返した。
「ですが、私の家は」
「うん。代々、我が王家の守護を務めてくれているよね。でも、ケガをしていい理由にはならないな。僕に長く仕えたいと願うなら、尚更だ」
リゼの目が、今度は心配だと語っている。リゼは王太子という立場もあってか、口から出る言葉より、目で本音を語っていることが多い。幼い頃から付き合いがあるレオには、よくわかる。
レオは、頭を下げた。
「申し訳、ございませんでした」
「うん。ただ、勘違いはしないでほしいんだ。僕は、レオを心配しているけど、信じてもいるんだ。さっそくだけど、次の仕事を任されてくれないかな?」
「はいっ。何でしょうかっ? 何でも、お申しつけくださいっ」
勢いよく顔を上げたレオは、目を輝かせる。
リゼは一瞬だけ目を丸くした後、苦笑を浮かべた。