第二話 【転生したら水だった男ー3】
部屋に入った第一印象は「不潔」だった。先程も思ったが、どうやら今の俺は中々に鼻が効くらしい。そんな俺にとってこの部屋は些か厳しいものがあった。先刻彼が言っていた「ジョンがここにはあまり近付かない」というのも頷ける。様々な本が山積みにされており、大きな窓には二重のカーテン。ベッドの上には布団がくしゃくしゃになっており、デスクの上は紙と塵が散乱している。そして母親と思しき存在とは共に飯を食わず、食器は部屋の前に置き、自身は再びデスクへと向かうと、暗闇に灯した火を頼りに、本を読み始めていた。
俺がこの部屋に入る事は許可されたが、下手に動けば追い出されるかもしれない。ひとまず害を及ぼすつもりはないのだと示す為、その場に寝そべり彼の様子を伺っていた。散乱していた本のタイトルを見やると、火魔法、風魔法、水魔法と様々な物が混在し、更には金属、鉱石などの本もそこに混ざっていた。
「はぁ、学校……行きたくないなぁ」
小さく呟いたその小言は、夜も耽っている事もあり、思いの外部屋中へと音を運んでいた。深いため息は一度ならず、二度、三度と繰り返され、そしてやがて彼はベッドへと移動すると、寝息を立てて眠り始めた。
学校では何かあるのだろうか。見たところ、この部屋から極力外には出ずに過ごしている様だった。火を灯したまま眠っており、デスクの上は未だ爛々と灯りが照らされている。
そんな凡ゆる物が混濁するその中で、一枚の写真が目についた。そこには彼と思しき少年と、その祖父らしき人物が写っていた。写真の中の二人は大層笑顔で、その背景にされていた場所には僅かに見覚えがあった。恐らく、庭のは離れだろうか。一度見ただけなので確信を持って断ずる事も出来ないが、今の所その可能性が高い。明日にでも確認してみよう。
と、そんな夜も既に良い時間となる頃合いに。
「今帰った。飯はあるのか、フラン」
この家の主人が帰還する。この部屋の主人は就寝済みだが、家の主人はまだ帰って来てはいなかった。或いは居ないのかとも考えていたが、どうやら帰りが遅いだけだったらしい。俺は部屋の扉をゆっくり開けると部屋を後にし、一階へと歩みを進めた。
「今日も遅かったわね、ご飯すぐに温めますね」
「いつも悪いな。それで、レイザーはどうだ?」
「沢山ご飯食べてましたよ?」
「部屋からは出たのか?」
「いえ、部屋からは……」
「そうか」
明るい雰囲気を取り繕う彼女だが、どうやらこの問題に関しては楽観視している訳でも無さそうだった。聞けば父親はどうやらどこぞのギルドで活躍する凄腕の剣士らしく、その敏腕故に良く仕事が夜まで長引き、この時間の帰宅になってしまうらしい。そして彼はどうも息子に自身の跡を継いで欲しいらしく、自身の出身と同じ学校へと入学させ、卒業後にギルドへと登録、やがては冒険者と、そう促すべく育てて来たと、酒も混じりながら声高高に語っていた。彼女の方はと言うと、上手く相槌をうちながら男が気持ち良く語れる雰囲気を演出しており、良く出来た奥さんだなと他人事ながらに感心していた。だがそれだけに、少し不憫でもあった。
「家の事はお前に任せてあるだろ! どうなっているんだ!」
「す、すみません……」
やがてその語り口は説教モードへと移行し、つらつらと不平不満を妻へと当たり散らかすへべれけの男。酒の勢いもあってかなかなかに酷い言葉が飛び出していた。
つまりこの家は一見幸せそうな綺麗な家の中に、優秀な主人がいて、良き妻がいて、健常な息子が居ながらに、反吐が出そうになる膿を内包しているのだ。
あぁ、気持ち悪い。
まるで池の底に辿り着いた様な、折角素敵な祠を見つけたというのに、同時にゴミの山を見つけてしまった様な、得も言えない不快感が俺の中を蹂躙する。あの時はまだ俺という人格が水という性質もあって曖昧だったのだが、今こうなってしまっては不快極まりない。
さて、どうしたものか。
俺はひとまず足元に置かれていた、恐らく散歩用の紐を口に咥えると、レイザーと呼ばれていた彼の部屋へと再び戻る事に。鍵が掛かっていない事を既に知っているので取っ手を口に咥えて扉を開き、難なく中へと侵入すると、そこで朝が来るのをジッと待った。
そして朝がやってきた。
「わふっ!」
「……んぁ? え、ジョン? あぁそうか、昨日部屋に入って来てたね。珍しいし大人しかったから忘れてたよ」
朝、目の前にいた男は実に不健康の塊を体現する様な見た目をしており、だらしの無い事極まりない様子であった。俺は昨日のうちに回収した紐を口に咥え、尻尾をパタパタと振っていた。もう分かるだろ? あれだよ。早く察しろ。
「え、散歩に行きたいのかい? 母さんと行きなよ……」
「わふっ!」
「えぇ……」
俺の口からしぶしぶ紐を受け取ると、それを首輪へと繋ぎ、彼はゆっくりと服を着替え始める。この部屋着以外は暫く着ていなかったのか、他の服はクローゼットの中に綺麗に収納されており、母の几帳面さが伺えた。恐らく、庭も彼女の仕事だろう。と、そんな服の並びに、見慣れない服が一着。いや、ワンセットと言った方が正しいかもしれない。長く触っていなさそうな、作業着の様な服が上下セットで佇んでいた。
「ほら、行くぞ?」
「わふっ!」
部屋を出ると、そこには僅かに光が差し込んでおり、既に日が昇ってある程度の時間が経過している事が伺えた。その薄明かりを頼りにそのまま階段を降り、降りた所で驚愕の声が聞こえる。
「え!? れ、レイザー?」
「おはよ」
「おおおはよ! えっと、あ! 何か食べる!?」
「いや、ちょっと散歩に行ってくるよ」
「……散歩? ジョンの?」
「わふっ!」
「ふふ、ありがと。気をつけるのよ」
母の贈る気遣いの言葉に対する息子の返事は見られなかったので。
「わふっ!」
「ありがとう、ジョン。本当に……」
俺が代わりに返事をしておいた。この日から、俺とレイザーの散歩は日課となった。初日こそのんびり歩いていたものの、やがて少しずつ歩行速度をあげ、距離を伸ばし、遂には走り始めたジョンこと俺。隣に居たダラシの無い引き篭もり男は、日を追う毎にギアを上げる俺に辟易としていたが、着いて来れないと言う訳でも無さそうだった。嬉しい誤算だな。
どうやら身体は訛ってこそいたものの、基礎的な能力は低く無かったらしい。走り始めて暫くする頃には、既に清々しい顔をする様になったレイザー。
そんなある日、俺は彼を裏庭にある離れへと誘導してみた。因みに彼の部屋で見つけた写真、そこに写っていたお爺さんと彼はやはりここで撮影していた様だ。風化具合で時の経過は見られるが、物の配置がドンピシャでまず間違い無い。彼らはここで何かの記念の撮影をしていたのだ。何もないという事はないだろう。それにあの作業着も気になるしな。
「何だよこんな所に連れてきて。ここには近寄るなって父さんに言われてるだろ? 戻るぞ」
あっさりと新情報を獲得する。どうやら父が原因らしい。彼自身が近寄りたくない訳ではなく、父に近寄るなと言われていると。そして日ごろの父の発言から、【ここに近寄るなと言われている】と言うレイリーの言葉の真意を汲み取るに。
恐らく息子たる彼は鍛治をやりたかったのだ。にも関わらず、冒険者に拘る父の意向の元、鍛治修行ではなく、冒険者を育成する学校へと通わされる。そこに何の思い入れも持てない彼はやがて登校を拒否する様になり、バツの悪い彼は部屋から出てこない生活に。
と、まぁ概ねそんな所だろう。くだらない。
こんな事でグダグダしていては、やがて信じていた人に後ろから滅多刺しにされて何も成せぬまま来世でドブ池の水分にされてしまうのだ。先人がこう語るのだ、間違いない。後悔せぬ内に、やれる内に、人はやりたい事をやるべきだ。俺はそれを痛い程理解している。
散歩を終え、部屋へと帰還する彼に付き従い、俺もまた部屋へと帰還する。そして部屋の中にあった一冊の本を口に咥え、彼の前へと差し出した。
「ちょ!? 本を噛むなよ!」
「わふっ!」
「え? ……まさか読めって?」
「わふっ!」
「……部屋の中でも出来るトレーニング入門。やめろよ、こんな本渡して何だってんだよ」
「わふっ!」
こんな本、そう言ってしまいたい気持ちは理解出来るが、この本がここにあるという事は、一度は志した筈だ。ここででも出来る努力を、意思を示そうとする気概を、今は少し薄まってしまったかもしれないが、無くした訳じゃないだろう。
「わふっ!」
「しつこいなぁ……。まさかトレーニングしろってんじゃないだろうね?」
「わふっ! わふわふっ!」
「うわっ! 分かったから、ちょっと!! 分かった、やるから! ちょっとだけだぞ!」
「わふっ!」
俺は彼がトレーニングを始めるまでしつこく迫り、そして彼のトレーニングはこの日から日課となっていった。学校には依然として通わない。部屋からもまともには出ていない。だが生活がそのまま続いていた訳でもない。彼は部屋から出たくないのではなく、万が一にも父と顔を合わせたくなかったのだ。
故に、父が家を出た後に散歩をねだり、父の居ぬ間にトレーニングを重ね、そんな生活を一年、彼は毎日続けた。そしてトレーニングを続けていく内に、休んでいる時間は勉強を始めたのだ。それは火と、風と、水の魔法。それを使って魔獣と戦う冒険者を志したのかと言えば、まず以ってそうではない。だが彼はきっと……あ!
「わふ!!」
「ん? なんだよ急に」
「くぅぅん……」
「何もないなら驚かすなよな」
思わず声に出てしまった。犬の生活を始めて一年が過ぎていた。すっかり犬も板についてきた昨今だが、犬を獲得した事で興奮し過ぎており、スキルについて考えるのを本気で忘れていた。それを唐突に思い出したが故につい声に出てしまった、失敬。
そうだ失念していたが、俺は【鑑定】を獲得していたんだ。試しに目の前の本へとそれを発動してみる。
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鑑定Lv1の結果
【火魔法初級の本】
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ふむ、成る程。こうなるのか。ならばこれを人に向けて使うとどうなるのだろうか。
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鑑定Lv1の結果
【レイザー・リュートリッヒ】
鍛治師Lv1(8/9)
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……ん? あれ? まさか彼には鍛治の天秤が備わっているのか? 本人は気付いて、いる筈だ。いや、或いは先天的に備わっていたが故に気付いていないのか? どちらにせよこの影響もあってお爺さんに習おうとして、冒険者として息子育てたい父に反対されてしまったという訳か。父はこのスキルの事を知っているのか? 仮に知らないにしてもLv1であれば言った所で歯牙にも掛けない可能性がある。あやつの頑固は筋金入りだ。だがきっとーー
毎日走り込み、黙々とトレーニングを熟し、そして鍛治に纏わる勉強も再開している。そんな日々の努力が、彼を育み、間も無く身を結ぼうとしている。
頑張れレイザー。お前にはちゃんと努力する才能が備わっていたぞ。お前の道を阻害する父という存在が在りながらも、僅かに背を押されれば再び歩み始められる努力の才が。それさえあれば如何に父が頑固たろうとも、必ずやり遂げられるさ。
そして彼は弛まぬ努力の末、遂にその時を迎える。
「え、えぇ!? 嘘だろ、Lv2に!? 馬鹿な、鍛治作業に触れもしなくなっていたのに、どうして!?」
鑑定で確認するまでもない。彼はその時を迎えたのだ。なればこそ、今しかない。俺は確信した。ゆっくりと歩みを進め、そして鼻先でクローゼットをコスコスする俺。手を使うと傷を付けるので気を使ったのだ。俺もこの一年で犬として成長していた。
「何だよ、クローゼット? 開けろって? 今はそれどころじゃ……」
「わふっ! わふっ!」
「……分かったってもう!」
昨今の飼い犬のしつこさから早々に観念した彼はクローゼットを開けると、その中に収納されていた衣服たちが姿を現した。そして俺の目当てはその中の一番奥のこの服だ。上下セットで吊られており、大切にしている雰囲気の割に使用されていない、この部屋に最も似合わない服、作業着だ。
「お、お前……これは……」
「わふっ!」
「まさか、ジョン?」
「わふっ!」
俺は徐に移動すると、立ち上がっている彼が先ほどまで座っていた椅子の上にのり、再び鼻先でとある写真立ての存在を主張した。
「嘘だろ、止めろよ、俺だって……。でもそんな事したら……」
「わふっ!」
「あらあら、騒がしいと思ったら、貴方達何をしているの?」
「母さん?」
この一年、彼女がこの部屋の中へと立ち入ったのは、これが初めてだった。彼女は几帳面で、他を慮る事を知っており、思慮深く、聡く、また息子を愛している。それはこの一年、同じ家で過ごしている俺だからこそ良く理解していた。故に直感する。恐らく、彼女も直感的に【今だ】と思ったのだろう。
「母さんね、貴方が死んだお爺さんと一緒に離れで槌を握っていた姿が好きだったのよ?」
「え?」
「お爺さんは良く言っていたわ、こいつは見込みがあるって。それを聞いて嬉しそうにしていた貴方が好きだった。けれど、同じくらいお父さんの事もね、お母さんは愛しているの。だから、ごめんなさい。あの日、貴方に離れに近付くなって言ったお父さんを、止められなかった。その申し訳なさから、お母さんは……」
そこまで気丈に語っていた彼女は、言葉に詰まり、そして涙を流し始める。これはある種の懺悔の様な物だ。彼女もまた、どう在るべきかと日々悩んでいたのだろう。聡いが故に触れられない、そう言う事も在るという事だ。人とは実に不可解で、非合理で、難しい。犬の身であるからこそ強くそう思ってしまう。
「母さん……」
「ごめんなさいね、レイザー。弱いお母さんで。だからもう何も言わない。ほら、手を出して?」
「手を?」
母から子へ。渡されたのは一つの鍵。とある扉を開く鍵。可能性の向こう側へと続く、今の彼にとって最も必要な鍵。
「これ……この鍵は!?」
「行きなさい。まだお父さんは帰ってこないわ。帰ってくるまで、何度でも。貴方がお父さんに何かを示せるその日まで、何度も何度も行きなさい。お母さん、毎日洗濯するから」
そして彼女は涙を止めどなく溢れさせたそのまま。
最高の笑顔で。
「勿論、お父さんには隠れて、ね? 任せて、お母さん真っ白に洗濯するの、得意なのよ?」
少しだけ茶目っ気を帯びた顔で、そう伝えた。そしてそんな彼女の渾身の言葉に、やはりレイザーは返事をしなかった。だが彼の目には火が灯っていた。一度は失われ、そして消えかけていた小さな火が、大炎となるべく唸りを上げて再臨していた。ぶっきらぼうに作業着を手に取ると、彼は直ぐに着替えを済まし、階段を降った。靴を履き、庭に出て、そして裏庭へと辿り着く。
その土埃の積もった離れの鍵を。
ガチャリと解錠する。
止まっていた時が、流れ始めた。
今の彼は俺と過ごした時間の中でより強靭な肉体を獲得しており、また魔法ならば火も風も水も、ある程度のレベルまで独学で習得している。少なくとも天啓がレベル2へ至る事を許可した程に、練達している。
そして道具も素材も、全てその扉の中に揃っていた。
ならば後はー
ーカンッ、カンッ、カンッ、カンッー
鉄が鉄を叩く、音程として高くも何故か重厚感のある不思議な衝突音。この日から毎日、離れからこの軽快な音が響き始め、そしてそれが鳴り響かない日は一日とない程、滾る熱を工房から放っていた。
ーカンッ、カンッ、カンッ、カンッー
俺はこの音が大好きだった。意志が篭り、熱が滾り、そして汗が滴るこの強い音が大好きだった。鍛治の扉を潜った後も、俺は彼の散歩にも付き合い、トレーニングにも付き合い、勉強にも付き合い、そして鍛治の時は外で待っていた。
こうして並々ならぬ努力の時間が始まった。
そしてそれは一ヶ月、また一ヶ月と時を重ね、
その都度、俺は彼を鑑定していた。
確実に進んでいた。
彼の成長は止まらなかった。
風が吹こうと、雨が降ろうと。
毎日毎日、槌を持ち、鉄を打った。
そして遂にー
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鑑定Lv1の結果
【レイザー・リュートリッヒ】
鍛治師Lv2(9/9)
条件未達成(上級金属)
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レベルが上がる時が訪れた。Lv3は俺ですらまだ辿り着いていない領域。反応が楽しみだったのだが、彼の様子がおかしい。
何日も何日も、彼は只管に鉄を叩いていた。手など抜いていない、本気そのものの熱量、それは俺が保証しよう。
「くっ、これも違う! あと少し、何かが……」
であれば何だ、何が足りていない。この鑑定にある上級金属とは何だ。
俺は自身の記憶で探れる限りを探った。そして目につく全てを鑑定して回った。怒られる事を覚悟で脱走もした。だが何の手掛かりも得られない。上級金属。
こんなドブ臭い家の中が、かつて無い快適な空間へと変貌を遂げようと言うのだ。あと少し、あと少しでより高度な状態へと昇華する。あの汚い池の底の様なこの家が、ここまで綺麗に……?
なんだ、この違和感は。池の底? あの時、水の中で何かが……そうだ。昔、あれはまだ意識が芽生えた最初の頃だ。確かあの池の中に俺が所有出来なかった何かが存在していた気がする。あの時はまだ所有のレベルが1だった……筈だ。その後レベルを上げ、しかしてそれらしい物は目にしていない。ならばー
俺は駆け出していた。柵を飛び越え、森の中へと一心不乱に駆け込んだ。そしてその勢いそのままに水中へと飛び込み、二年近くの時を経て、魚へと姿を変貌させる。面白いもので、泳ぎ方を忘れてなどいなかった。
俺は猛スピードであたり一面を鑑定して鑑定して、兎に角只管に鑑定して回った。そして遂に見つける。
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鑑定Lv1の結果
【アダマンタイト】
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これだ! 間違いない、彼の鉱石の本の中に出てきていた、希少にして硬度の高い金属、アダマンタイト。俺は素早くそれを所有すると、所有Lv2はこれをすんなりと許容し獲得に成功する。そして同時にレベルの上昇の恩恵の高さを実感する。
レベルが一つ上がるというのは並々ならぬ話だ。恐らく、人それぞれに程度が存在しており、ある人なら10、またある人なら100を熟さなければ越えられない壁。レイザーはその才能に恵まれており、また努力も惜しまない希少人材だ。だからこそこの偉業を僅か一年で為してしまう。これを才と呼ばずして何とする。
そして魚の姿のまま勢い良く池から飛び出すと、同時に犬へと姿を変え、再び駆け出した。
やがて離れの前に到着する。アダマンタイトを放出し、それを口に咥えて、離れの扉へと体当たりを試みる。一度、二度、そして三度という前に。
「何してんだよジョン!? 危ないだろ!?」
彼が扉を開けて中から顔をだした。顔は煤と汗に塗れており、新品同様だった作業着は既にボロボロで。最早あの母の手を持ってしても誤魔化す事など不可能な具合。出会った当初の彼からは想像も付かない逞しい腕を携え、彼は扉の前に立っていた。今の彼ならばきっとーー
俺は確信する。
「うぅぅ!」
「ん? 何か咥えているのかい? これを渡しに来たのか、何だよって重!! な、何だこの石、普通じゃない……まさか!! 嘘だろ!!?」
「わふっ!」
目を見開いた彼は驚くべき物を見たと、開いた口をパクパクとさせながら呆けている。魚の真似事は俺の専売特許だ、辞めて頂きたい。
「待てよ、確かあの製法なら……!」
勢い良く離れへと駆け入ると、彼は乱暴に扉を閉め、そして何故か再びすぐに顔を出した。
「ジョン! 本当にありがとな!!」
そしてまたバタリと、大きな音を立てて扉を閉めたジョン。律儀な男だ。わざわざ犬への礼の為に扉を開けるなんて。そしてその数時間後。今まで聞いた事ない、凄まじい衝突音が辺りへと響き始める。一音一音に鳥肌が立つ様な。心の底から、身体の内側から騒ついて止まない衝撃が身体を突き抜ける。心地良い。耳が幸せとはこう言う事を言うのだろう。俺は安心し、その場に寝そべった。
彼は今、越えようとしていた。
それはその素晴らしい音が、全てを物語っている。
それから数時間、この音は止まなかった。辺りはすっかり暗くなり、夜更けも夜更け、すっかり静まり返っていた。やがては彼の工房も静寂さを放ち始め、音こそ鳴らないものの、今だ熱を帯びたまま沈黙を保っている。
そんなこの家に。
「何故離れの工房に灯りが付いている!!」
男の怒号が響き渡った。
「待って貴方、これは違うの、レイザーを叱らないで。私が悪いの!」
「煩い! 邪魔だ、どけぇぇ!!」
妻の静止を振り切り、男はその活動の全てから轟音を撒き散らしながら離れへと駆け付ける。そしてー
「レイザー!! お前、事もあろうにこんな所で何のつもりだ!! 姿を見せろ!!」
その言葉に、ゆっくりと扉を開き、顔を見せるレイザー。
「お前、よくも堂々と面を晒せたものだ! 覚悟は出来ているんだろうな!!」
そんな男の言葉に、レイザーは。
「覚悟なら、とっくに決まっている」
「っ!?」
信じられない程、熱の篭った【漢の声】を震わせるレイザー。その圧力に思わず一歩、退がらせられた男。歴戦の勇が、足を引いたのだ。そして再び怒号を飛ばそうと腹に力を込めた瞬間に。
「見ろよ、それが答えだ」
「なっ!? こんなチンケなママゴトで何を……」
先んじてレイリーから言葉共に何かを投げつけられる。鞘に納めされ、お世辞にも綺麗に仕上がっていると言えない柄を晒す一本の剣。芸術のレベルで言うならまだまだ低い。そしてその剣は、こちらもやはり素晴らしいとは言い難い汚い鞘に納められており、この時点では何一つ期待を持てない質素な見た目をしていた。だがー
「抜けよ、父さん」
「何を一端を気取りおって」
男が精神的優位に立てたのは、この時が最後だった。
「んなっ!? な、な、何だ……この……剣は……」
鞘から刀身を抜き出し、自身の前に晒した瞬間に、言葉を失ったその男。彼はワナワナと震え、見開いた目と乾き切った口への水分補給も忘れ、呼吸も言葉も、全ての術を失っていた。
否、失っていたのではない。奪われていたのだ。その剣のあまりの美しさに。あまりの神々しさに。あまりの出来栄えに。そして男は知っていた。冒険者として一角の技術と知識を修めた彼にとって、それは最早覆し様の無い純然たる力の結晶。即ち、【業物】である。
「父さん、剣を打たせてくれ。頼む。俺は学校へは行けない。冒険者にもなれない。何故なら、これが好きだから。ずっとずっと、鍛治が大好きで、俺の師匠は爺さんで。最初の客は、父さんが良いんだ」
「な……お、お前……」
「その剣、どうかな。父さんから見て、上手く打ててると思う?」
「これを、こんな物を見せられては……」
「ならさ、貰ってくれる?」
「俺で、良いのか?」
「父さんが良いのさ。昔から、本当に良い剣が打てたら、父さんに渡すって決めてたから」
そして彼は、彼の人生で一番の、最高の笑顔で。
「俺にとっての一番の憧れは父さんさ。そんな男の腰に下げるのに、半端な物は渡せない。認めて貰えたなら、受け取って欲しい。強くて怖くて、俺の憧れの冒険者。俺は父さんを超える冒険者にはなれない。だけど、それは決して後ろ向きな言葉なんかじゃないんだ」
その真摯な熱を受け、未だに現実が受け入れられないない男は、苦し紛れにこんな質問を投げ掛ける。
「お前、鍛治のレベルは?」
そして彼は答えた。
「3、だよ」
「そう……か。父さんが……間違っていたんだな」
そんな二人の後ろで。
母は、ただ黙って見守り、立ち尽くし、泣いていた。
こんな日が来る事を夢見て、恋焦がれ。
そして何処かで諦めていた。
そんな場所へ、息子が辿り着いてくれたのだ。
その自慢の息子の姿を、目に焼き付けながら。
彼女はただ泣いていた。
彼女の人生で、最も幸せな涙を流しながら。
この日、この家族の住む家の中から。
全てのゴミが消え去った。
本日より投稿を始めました。
よろしくお願いします。