第一話 【転生したら水だった男ー2】
悲観する事など何もない。思えば当初、俺は死んだのだと思っていた。水が水の中にいるんだ、そりゃそうもなるだろう。次に全感覚が死に、四肢が捥げ、頭だけが稼働しているのかと考えた。それに比べれば今の方が幾分かマシだ。あの時はどうかしていたかもしれないが、頭だけ稼働していて目も耳も何もかも機能を失っていたのなら、それは死とどれ程違いがあっただろうか。
……でも水かぁ。
いやいやそんな悲観する事など本当に何もない。今の俺は少なくとも魚として自由を謳歌している。背鰭も尾鰭も頗る快適だ。何一つ不自由ない。強いて言うなら、景色に変わり映えのない事が気掛かりだ。ドブ沼の頃からどれ程ここに居るのかは分からないが、魚になった事で僅かながら欲求を覚える様になってしまったらしい。このまま変わり映えのしない景色の中を過ごすのかと思うと、少しだけ気が重くなる。二度目の人生、暇で死ぬと言うのも忍びない。折角生まれ変わったのだ、水として人生を謳歌しようではないか。
それに二度目があるというのなら、この【下らない】と履いて捨てていた世界を見てみようと思う。知らない事が山となって溢れる世間という存在を兎に角排斥し、何とも関わる事なく生きてきた、俺の【下らない】人生を改めたい。
知らない事は恐怖でしかなく、怖い物を遠去けたいと願うのは自明の理。故に疑問の余地もなく知っている物だけで全てを固めて、【知る事】から逃げ続けていた。それであれば安全だと、安心であると信じていた。怖い世間から、知らない世界から逃げ続けて居れば害される事なく過ごせるのだと信じていた。
だが、実際はまるで逆だった。知ろうとしないが故に友の気持ちを知らぬままで、知らないが故に何故こうなったかも今以って理解出来ていない。こんなさもしい自身を払拭すべく、俺は世間を知ろうと思う。目の前の物に触れ、新たに知る全ての知識に敬意を払おう。人も、一人であれば理解も易いが、二人となれば途端に難易度も上がる。友は理解出来ようと、友を取り巻く環境を知らずこうなったのだから然もありなんといった心地だ。
知るのは恐ろしい。それは変わるという事だから。だがこんな水の身体で何を恐れる必要があるのか。俺は既に一度死んだ身の上だ。今更怖い物など何も……ないとも言い切れないが。少なくとも知る事に恐怖する必要はない。
ならば……生きよう。
今度は途中で終わらぬ道を目指そう。
知ろう、世間を、世界を、人を。
そしていつの日か……。
さて、そうなると今手元にあるスキルは【捕縛】【所有】【擬態】の三つだ。まずは其々をもう少し詳しく深掘りしてみようと思う。
捕縛、レベルが上がった事で拡げられる自身の感覚が前よりかなり広くなっている。元々は多分30センチとか、それ以下のサイズから始まり、そこを偶然通過したモノだけを捕縛していたのだが、Lv2になった事で効率が随分と良くなった。身体の体積を変えている感じはなく、細くした上で拡げている、所謂【網】の様な状態になれるスキルだ。その上で一度絡み付いてしまうと、こちらから意図的に解放するまで捕縛から抜ける事は出来ない。これが捕縛。
そして次に所有、これは今まで気が付いていなかったが、最初の頃に所有していた魚や草、その他諸々は全て分解されて消えている。恐らく所有数か質量に上限があったのだろう。その上限がLv2になった事でかなり増えている。そしてその上で、所有しているモノは状態が変化する事なくストックされるらしい。魚を所有すると、その魚の命を奪う事なく放出する事が出来ていた。あの時は何も考えていなかったが、これも大切な事なので把握しておくべきだろう。そして、稚魚で所有した魚は、時間の経過で大人へと成長、はしなかった。つまり所有した時点の状態を維持するのだ。実に興味深い。
そして最後に擬態。魚に擬態出来た事で俺の世界は無意識の世界を脱し、漸くスタートを切れたと言っても過言ではない状況となった。それ程に大きな変化だった。最初は魚を模すだけで精一杯だったが、今ではLvも2となり擬態は苦も無く行われ、また部分的に変質化されるなどの技術も増している。変化させるだけならまだしも、操るという段階に来られたのはLv2になってからだろう。擬態に至る条件は恐らく一度対象となる存在を【所有する】事だと思われる。
あとスキルと呼ぶには些か名称が付いておらず、しかして特筆すべき事でも無いかと言えばそれも違う点が一つ。なので一先ずこれも同じ棚に並べようと思う。それはこの身体の【不死性】だ。
まず加齢という概念が適用されているのかが怪しい。この姿になってからどれ程の時が過ぎたかは定かでないが、少なくともドブ沼が綺麗な池へと変貌する程には経過していると考えるべきだろう。そのスタート地点と、現在で、自身に変化は見られない。見えない所で変化はあるのかもしれないが、今のところ認知は出来ていない。
そしてそもそも生命として成立しない身。何を以って死と断ずれば良いのだろうか。蒸発したとしても、水のこの身に意識があるのだ、気体となった自分に意識を持てる可能性は十分に考えられる。試すには勇気がいるが、あり得ない話ではないだろう。そうなると俺はどうー
━━━━━━━━━━━━━━━━
条件達成
スキル【鑑定Lv1】を獲得しました
━━━━━━━━━━━━━━━━
……ん? 新しいスキルか?
このタイミングで?
何故だろうか、とスキルに思いを馳せる暇もなく。
別の事件が発生した。
こんなタイミングだからと言うべきだろうか、イレギュラーな事態は連続して発生していた。こちらの異常事態は……何やら水面が騒がしい、のか? こんな事、水の姿になってから初めてだ。
魚の姿で水面へと移動し、そこで水中に絶えず振動を与える存在と対面する。前脚をバシャバシャとかきながら、水上を必死に前進する四足歩行の小型生物。フサフサの耳に、水でボヤッとしている体毛、ハァハァ言いながら必死に泳ぐこの生き物、これは犬だ。愛玩動物として人の間で飼育する事が流行しており、稀に家畜の世話などが出来る優秀な個体も存在するという小型の動物。基本的に野生で存在する事はあまり無い。仮にこの見た目の生き物が野生で存在するとしたら、それは二回りほど大きいシルバーウルフと呼ばれる魔獣で、こちらは飼育が不可能だ。そしてシルバーウルフは群れで行動しており、ここまで小型の犬型生物が単独行動となると。群れから逸れた子供のシルバーウルフか、もしくは只の犬か、そのどちらか。
つまりこいつは九割方只の犬という事になる。どうやら泳ぎ始めたは良いものの、思ったよりも距離があったらしく、溺れそうになっている様な雰囲気だ。
そんな犬畜生が何故こんな池に?
いや待てよ、これはチャンスか?
チャンスか!?
好機と気がつくや否や、俺は捕縛で自身の領域を拡げると犬を捕縛する事に成功する。そしてそのまま一気に所有してしまう。所有してしまえば溺れるという事も無いだろう。というか何してたんだこいつ。そして擬態の為に犬を良く観察する。ふむふむ、犬としては中型サイズか、そして毛並みは白と黒の混合。割とシュッとしたタイプの犬だ。よく運動しているのだろう。解析が終わった事で水面へと戻り、極力陸の近くで犬を放出する。犬は突然陸が目の前に出現した事を喜んでいるかの様な雰囲気を見せ、陸に上がるとブルブルと水気をきり、颯爽とこの場を立ち去ってしまった。結局あの犬はこんな所で何をしていたんだ?まぁそれは良いか。それよりも、だ。一旦元居た場所へと戻ろう。
そう、俺は犬を獲得した。それはつまり陸に上がれるという事だ。まさか地面の上を歩ける事をこれ程喜ばしく思う日が来るとは思わなかった。魚の姿で水面まで近付くと、俺は犬へと姿を変える。
苦しい!?
ヤバイ、そうだ犬はそもそも水に適応した生物ではない。水中でいきなり擬態しては溺れる事は必定。間抜けの極みの様な行いだ。手と足を上手く使わないと前に進まない。だが水の上を前脚で暴れる様にかけばかく程に水飛沫が舞い上がり、口の中へと侵入する。飛沫が肺に入るそれを拒む様に咳き込むと、今度は手足の動きが疎かになり沈む。そんな情けない工程を何度も何度も繰り返し、必死に水を掻き分けて……?
ん?
急に楽に……?
「もうジョンったら、こんな所で何をしているの?」
「わふっ!」
「何変な顔してるのよ、こんなビショビショになっちゃって、風邪引いたらどうするのよ、私が」
お前かよ。じゃなくて!?
え、何? どういう事だ?
俺今確か……あ、そうか、犬なんだ。
という事はさっき擬態化に成功したあの犬と勘違いされているのか? 拙いな、そうなるとさっきの犬が飼い主の元へと戻れなくなってしまう。流石にそれは……。
「もうこれで29回目の脱走よ? 良い加減にしなさいよね」
あ、これ逃げたがってた奴だ。なら俺がジョンとしてここで過ごして居ても大丈夫な感じか? ならば一先ずこの人の家に着いて行く事にしよう。そして、それからの事はその後考えればいいだろう。すまないジョン、助かるよ。後は俺に任せて自由気儘な生活を満喫してくれ、達者でな。
俺を抱き抱えていた女性はまだ若く、推定で20から30にならないくらいか。余り人を見てこなかったから詳しくは分からないが、多分その辺りだろう。髪は綺麗な赤色をしており、腰ほどにまであろうかという程に伸ばしている。とても艶やかなその髪は強い風で大きく靡き、太陽の光も相まってとても美しく輝いていた。
「あれ? 貴方首輪まで外したの? 仕方ないわね……」
また脱走する事を懸念してか、俺は彼女に抱き抱えられて連れて行かれた。胸が大きく、俺の身体も小さい訳では無い為、スペースの奪い合いの様な事をしていた。だがそんな興奮しそうな状況にも関わらず、俺は特に何を思うでも無くただ抱き抱えられていた。犬の体が故なのだろうか、まぁどうと言う事も無いのだけれど。
そこそこの体重がありそうな身体ではあったのだが、割と余裕で持たれている様子を見るに、案外と軽かったのか、もしくは彼女がパワフルな女性なのだろう。生まれ育った池を離れるのは少し寂しい気もするが、今生の別れという訳でも無い。戻ろうと思えば脱走すれば良いだけの話。記念すべき30回目の脱走、それだけの事だ。
暫くの間木々の中を歩いていたが、やがて鬱蒼とした森を抜けると、そこには一軒の立派な家が存在していた。白と赤を基調にしており、この森の中にあるという事も相まってとても幻想的な雰囲気をしている様に思えた。それこそ、犬の身ながらつい見惚れてしまうくらいに。
だが改めて見るに、我々が歩いてきた方角とは逆側には道が通っており、少し拓けた雰囲気をしている。どうやらこの家は森と街の境界線の様な場所にあるらしい。森から来たからそう見えてしまったが、実際は街の外れの家と言った感じだろうか。また家の庭と呼べる範囲内の森側の離れに【小屋の様な別宅】も存在しており、この家の主人はやや裕福なのだろうかと勘繰ってしまった。
家の周りを囲うように柵があり、その範囲内は庭と言った雰囲気。恐らく犬が居たが故の対応だろう。また柵は中々の高さを誇っている為、跳躍による脱走の試みにはやや勇気が必要そうだった。あの犬、どうやって29回も脱走したんだ? 基本的に家、別宅、犬小屋は全てこの柵の内側にあり、紐で繋がれるという事も無さそうな雰囲気をしている。不自由の中の自由、と言った感じだろうか。
「さ、新しい首輪よ。次に逃げ出したらもう知らないから!」
……次の脱走は暫く見送りになりそうだ。俺は首輪を嵌められ、次は紐かと訝しみながら視線を送っていたが、どうやらそれは無いらしい。首輪で満足したらしい彼女は、少し鼻唄混じりで家の中へと消えて行った。俺の犬生活、その自由が約束された瞬間だった。
俺は一匹になった事をこれ幸いと、色々な所を物色し始めた。入り口側には小さな花壇があり、そこには綺麗な花が植えられていた。そしてその隣には恐らく植物だろうか、何かしらの野菜が目的であろう菜園が備わっており、彼女か、もしくはその配偶者の几帳面さが垣間見える雰囲気を携えていた。郵便ポストには何も入っておらず、他に見る所は……別宅か。俺は早る気持ちを抑えつつその場所へと駆け寄ったが、見事に鍵が掛かっており、入る事は出来なかった。実につまらない事だ。工房の様なその場所は、周囲の様子や置かれている物から、恐らく鍛治仕事をする様な場所だと推察される。特に収穫こそなかったが、入り口の扉、その取手部分には砂埃が積もっており、最後に解錠されたのがそれなりに前である事くらいは確認出来ていた。
それから暫く、一人の時間を過ごしていると。
「ジョン、晩ご飯よ。ほら足拭いてあげるからこっちにおいで?」
「わふ!」
彼女に呼ばれ、俺は家の中へと招き入れられた。入り口には複数の靴、恐らく男物と思われる物が存在しており、サイズ感の違う二種類の構成となっていた。恐らく父と息子、そんな所だろう。そう思いながらリビングへと足を踏み入れると。そんな思惑に反してその食卓に人影はなく、彼女は俺のご飯を器にそそぐと、一人でご飯を食べ始めていた。
「頂きます!」
家のサイズ感からして一人暮らしと言う事もあるまい。そういえば誰かが帰って来ていた気配も感じなかった。なら玄関の靴はどう言う事だ?
色々と不可解な事が多いこの家は、退屈とは縁遠い雰囲気をしており、俺はそれが気に入った。早々に立ち去る事も出来るが、今暫くこの家に居候してみるのも悪くない。
「わふっ!」
「あら、綺麗に食べたわね。片付けましょうか!」
綺麗な赤い髪を少し床につけながら俺の餌入れを回収する彼女は、特に不満そうな気配もなく、それだけに色々と解せぬ事がつい面白くなってしまう。こういう捻じ曲がった性格だから人から離れなければやがて疎まれる訳だが、犬の身体である今生には関係あるまい。
この家は一階もそれなりに広いが、この面積にして、そのまま二階が存在していたりする。探検してみたい。だが流石に怒られるだろうか。
「ルン、ルン♪」
とても上機嫌で皿を洗う彼女の姿を見て「今ならいけるのでは?」と隙を見た気がした俺は、可能な限り気配を消しながら階段へと歩みを進め、僅かに爪弾く犬特有の足音を気にしながら二階へと登った。登り切ったその先は、夜という時間も相まって既に闇に包まれており、只視界が悪かった。実際到着時点で降りようかと迷う程には何も見えなかったのだが、聞き耳を立てていると、そこには誰かが存在する気配がしたのだ。嗅覚に集中するに、この階には三人程の生活痕跡が見られる。そして今聞こえる音は一人分。ならばその者は何故ご飯の時間に席を共にしなかった?
そんな些細な謎に対する知的好奇心から、俺はその音のする方へと自然と歩みを進める。丁度、そんなタイミングだった。
ーガチャー
「えっ!? あ、ジョンか……驚かすなよ」
「わふっ」
気配の主たる部屋の住人が自ら顔を出したのだ。一見すると不健康そうな年頃の男と言った所か。16歳前後、髪のボサボサ具合と髪の雰囲気から分かりにくかったが、若々しい匂いがしていた。つまり犬の勘だ。だがどうやらそんな彼を取り巻く環境自体は根深いらしく、部屋の前にご飯の皿をそっと置くと、再び部屋の中へと戻ろうとしていた。その一連の流れが想定できた俺は素早く扉の手前へと滑り込むと。
「わふっ! わふっ!」
「珍しいね、ジョンがこんな所まで来るなんて」
上手くその男の部屋へ侵入する事に成功した。