Side C - Part 3 動き出した歯車
Phase:04 - Side C "Suzuka"
「もしもし?」
『鈴歌、今からちょっと話せる?』
「大丈夫だ。寝ようと思ったが、ヒドラにエサを与えるのを忘れていたことを思い出した」
私は寝巻のまま、仮想スクリーンの【応答】ボタンをタップして会話に応じた。話しながら部屋の隅に安置した発泡スチロールの箱を開ける。
使い捨てカイロを貼った毛布の中から三角フラスコを取り出し、部屋の照明に当てて軽く振ると、肉眼でも見える細かな粒子が生ぬるい水の中で舞った。
『お父さん、今日は言わないことにしたみたい』
「そんな気はしていた。賢明な判断だ」
私はこの即席培養装置を使って、自室でヒドラとそのエサになるミジンコを養殖している。さて、エサやり用の駒込ピペットはどこにやったかな。
窓際に置いた学習机兼実験台の引き出しを漁り、目的のものを見つけ出した私は再び箱に手を入れ、ビーカーを取り出した。その壁に細長い糸くずのようなものが二匹貼りついている。これがヒドラだ。
どちらもまだ二センチほどだが、彼らは給餌の時間をすっかり待ちかねていたらしい。二匹は水中で短い触手を振り回し、早く食わせろと血気盛んにアピールしてきた。
「だが、私たちが今日知ったように、このままでは遠からず流華おばさんにもバレるぞ」
『わかってるよ。でも、言えない。あたしもお父さんと同じ立場だったらきっと言えないし、あたしから言うことでもないと思う。あたしは、お父さんを信じて待つよ』
「そうか。それが澪の考えなら、私はその決断を尊重する」
『……うん。ありがとう』
ハンズフリー通信に興じながら、私はピペットで三角フラスコの水を吸い上げた。細かい粒子がスッと浮き上がり、細長いガラス管の中に閉じ込められる。その様子はひっくり返した直後のスノードームによく似ていた。
ビーカーを手に取り、ヒドラたちの様子を確認しつつ触手にピペットの先端を近づけて、ゆっくりとミジンコを送り込む。次々とエサを取り込み、全身で喜びを表現する二匹の様子を見ていると、意思疎通ができたように感じて愛おしくなってくるから不思議なものだ。
「明日は土曜日。休校日のため授業はないが、今日の一件で建物に被害が出たA・B校舎と大講堂を拠点にする部活動は中止との連絡が〝じきたん〟に出ている」
『それ、あたしも見た。この週末は緊急工事で校舎内立入禁止だって。でも、体育館とプール、屋外施設は通常どおり使えるみたいだね』
となると、あのサッカー馬鹿は守衛のAIに怪しまれることなくキャンパスへ出入りできるのか。放課後のゴタゴタのせいで、奴には私たちに協力する意思があるのか聞きそびれてしまったな。
おそらくこの土日はボールを追うのに忙しく、協力を頼んでも遂行できまい。週明けに奴を捕まえ、改めて作戦会議を開くことで澪と合意した私は、そのまま通信を切ろうとした。
『悪い、二人とも! もしかして寝てた?』
「お前の話がつまらなさそうなので寝るところだ、脳みそサッカーボール男」
ちょうどそのタイミングで、〈テレパス〉に割り込み着信が入る。発信者は、私の連絡先アプリに登録されている父と一徹おじさん以外で唯一の男――名字詐欺の小林だ。
『なんじゃそりゃ……オレはマジメに話してんの。川岸は?』
『大丈夫。もう少し起きてるつもり』
よかった、とチャライカー二号がつぶやく。私はくだらない用件なら即座にグループチャットから退出してやろうと身構えたが、奴の口から出たのは思いがけない言葉だった。
『実は、二人に緊急の連絡がある。りょーちんから直々に頼まれたことだ』
『りょーちんから、あたしたちに?』
『日曜日の午前九時、駅前の〝キッカーズダイナー 前途洋々〟へ来てくれ――だそうだ。オレも同席を許された。店の座標送るから、その前で待ち合わせよう』
言うが早いか、地図アプリと連動した店の情報が共有される。仮想スクリーン上でそれを開き確かめてみると、JR逢桜駅前にある雑居ビルの一角に印がついていた。
その場所を見て、私と澪はほぼ同時に思い当たったことを口にする。
『あれ? この建物って、もしや……』
「もしかしなくても、羽田不動産の事務所が入っているビルだ」
『やっぱり!』
羽田不動産は大家の会社。ならば、その介助者を買って出ているたい焼き男の生活圏に入っているエリアだ。自分の縄張りに私たちを呼び出して、一体何をするつもりなのだろうか。
『そう警戒すんなよ、今日の一件についてきちんと説明したいだけだってさ。当日は午後イチでポラリスのデビュー戦も控えてるし、長話にも荒事にもなんないだろ』
「それはたい焼き男の態度によるぞ」
ヒドラたちは満腹になったようで、動きが穏やかになってきた。私はエサと道具を片づけ、彼らの入ったビーカーを軽く揺すってから発泡スチロールの箱に戻した。
『水原……オレが〝りょーちんとお茶できるぜ、イヤッフー!〟ってウキウキなのに、お前それぶち壊す気なの?』
「そうだが?」
『そうだが? じゃねえよ! 頼む川岸、そいつ止めてくれ!』
『ごめん、ちょっとこれはセーブできないかな……』
すったもんだの末、私たちは指定された集合時刻の十五分前、八時四十五分に店の前へ集まることになった。自転車で来た場合は、ビル裏手の駐輪場を利用すればいいそうだ。
予定が固まると、奴は『オレ、明日も練習あるからそろそろ寝るわ。じゃ!』と言い残して会話から退出した。あとに残された私たちの間に、気まずい沈黙が流れる。
『ところで明日、七時頃にルナールの散歩行くんだけどさ。一緒にどう?』
「寝る。おやすみ」
『鈴歌の薄情者――!』
残りの器具を片づけベッドに潜り込むと、私は無機質で事務的なパートナーAGIに命じて部屋の照明を消した。プンスカ怒る猫のキャラクタースタンプを連投してくる澪の〈テレパス〉通知が自動的にミュートされ、そのまま〈Psychic〉ごとシャットダウン。部屋に闇が満ちた。
次に起きたら、この世界はどう変わるのだろう。動き出した物語という運命の歯車は、私にどんな世界を見せてくれるのだろうか。
少しずつ、全身の感覚が鈍っていく。入眠が近い。仰向けになり、目を閉じ、静かに息をする。そうしていつしか、私は深い眠りに落ちていった。




